看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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22:名前

翌朝、リィナは起きた瞬間に思った。

(……昨日、寝られた)

あの後、ちゃんと眠れた。
扉越しの「おやすみ」が、薬みたいに効いたのだ。

効いてしまったのが怖い。
でも、効いたから生きられる気もする。

布団を畳み、顔を洗い、いつものように髪を整える。
生活を守る。
それが枠だ。

台所へ行くと、侍女長が既に火を見ていた。
リィナを見るなり、目を細める。

「来たわね」

「……はい」

言い訳はしない。
昨夜、当主が廊下に来たのは、侍女長も知っているはずだ。

侍女長は短く言った。

「入ってこなかった?」

「……入ってません」

「なら、半分守った」

半分。
優しい判定だ。

リィナは胸を押さえた。

「……狡いです。言葉遊びで枠をすり抜けてきます」

侍女長は頷いた。

「当主は賢い。……そして、不器用」

不器用。
あの人が?

侍女長は淡々と続ける。

「欲しがり方が上手くないの。上手くないから、枠の穴を探す。穴があると、そこから覗いてしまう」

覗く。
入らない。
でも覗く。

侍女長はリィナの手元を見る。

「灯り、点いた?」

リィナは小さく頷いた。

「……はい」

「で、あなたは眠った?」

「……眠りました。灯りが点いたら眠るって決めたので」

侍女長は満足そうに頷いた。

「偉い」

また、その言葉。
褒められるたびに、枠が補強される気がする。

侍女長は少しだけ声を落とした。

「でもね、今夜は——灯りが点いても眠れないかもしれない」

リィナの胸が跳ねた。

「……どうして」

侍女長は短く言った。

「当主が、今日“社交”に出る。……久しぶりに」

社交。
つまり、屋敷の中だけの世界ではない。
外の人が当主を見る日。

侍女長は続ける。

「当主はあなたの存在を隠す。でも、隠すほど、欲が強くなる」

リィナは喉が震える。

「……私は、何をすれば」

侍女長はリィナをまっすぐ見て言った。

「枠を守る。……そして、あなたの“心”を守る」

「心……」

「当主が外で削られた分、夜にあなたへ寄りかかりたくなる。……それを全部受けたら、あなたが壊れる」

リィナは小さく頷いた。

「はい」

侍女長は少しだけ柔らかく言った。

「だから、今夜の枠を先に決めなさい。灯りが点いたら眠る、だけじゃ足りない夜が来る」



その日、屋敷はいつもより慌ただしかった。

当主が社交に出る。
服が運ばれ、靴が磨かれ、香が焚かれる。
廊下に小さな緊張が漂う。

リィナはいつもの仕事をしながら、当主の姿を見ないようにした。
見たら、胸が動く。
動いたら、枠が揺れる。

夕方。

遠くの玄関で、扉が開く音がした。
馬車の音。
当主が出る。

リィナは手を止めたくなるのを堪え、鍋を見守った。
火は揺れる。
胸も揺れる。

——夜。

リィナは自室で、机に白紙を置いた。

侍女長の言葉。
今夜の枠を先に決める。

リィナはペンを取って書いた。

今夜の枠:
・灯りが点いたら、まず深呼吸を三回
・扉は開けない(廊下に出ない)
・当主が来ても、言葉は一往復まで
・“おやすみ”で終わり

書き終えた瞬間、胸が少しだけ落ち着く。
枠は、怖さに形を与える。

リィナは布団を整え、灯りの箱を机に置いた。
蓋は閉めない。
点いたら分かるように。

深夜。

机の上が、淡く灯った。

(……点いた)

リィナは深呼吸をした。
一回。二回。三回。

扉は開けない。廊下に出ない。
言葉は一往復。
“おやすみ”で終わり。

——その時。

廊下から、足音が聞こえた。
今度は忍び足ではない。
重い。少し乱れている。

足音が止まる。

ノック。
二回ではない。
一回、短く。

リィナは息を止めた。

扉の向こうで、当主の声が低く響いた。

「……リィナ。開けなくていい。聞くだけでいい」

リィナは布団の中で拳を握り、震える声で答えた。

「……一往復だけです」

当主は小さく息を吐く。

「分かった」

沈黙。
扉の向こうの呼吸が少し荒い。
社交で削られた呼吸。

当主が低く言った。

「今日、俺は——」

来る。
“俺は——”が来る。

リィナは目を閉じた。
枠。枠。

「……言わないでください」

当主が一拍止まる。

そして、掠れた声で言った。

「……帰ってきたら、冷えた」

リィナの背中がひやりとする。
来ない日を責めない。冷えると言わない。
でも今日は、来ない日じゃない。
灯りが点いている。彼が来た。枠の夜。

リィナは唇を噛んだ。
一往復。
次は“おやすみ”で終わり。

リィナは小さく言った。

「……お茶、淹れますか」

枠の外の提案。
でも、言ってしまった。
社交の夜。削られた当主を放っておけない。

扉の向こうで、当主が息を呑んだ気配がした。

「……入っていいのか」

リィナは震える。

枠は“扉を開けない”。
でも、彼は今、荒い呼吸をしている。
壊れそうな音がする。

リィナは目を閉じ、必死に言った。

「……開けません。ここで、待ってください」

言葉は二往復になってしまった。
でも、これ以上は増やさない。

リィナは布団から出て、机の灯りを持った。
淡い光で、部屋の中が温かくなる。

扉越しに、リィナは低く言った。

「……おやすみなさい、アレクシス様」

枠の終わりの言葉。

扉の向こうで、当主の呼吸が少しだけ落ちた。

「……おやすみ」

返ってくる。

足音が、ゆっくり遠ざかる。

リィナは扉に額をつけ、震える息を吐いた。

(守れた……?)

守った。
完璧ではない。
でも、壊れなかった。

灯りは淡く揺れている。
まるで、“大丈夫”と言うみたいに。

リィナは布団に戻り、目を閉じた。
今夜は眠れるだろうか。

——そして、リィナは知らない。

当主が社交の場で、
「最近、顔色がいい」と言われてしまったことを。

誰のおかげか。
問われた時、当主は答えなかった。
答えない代わりに、胸の奥で“名前”を握りしめた。

その握りしめた名前が、夜に廊下へ連れてくる。
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