看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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24:社交で削がれた翌日

夜の帳が降りるころ、屋敷の廊下はいつもより静かだった。

それは単に人が少ないからではない。
昼間から張りつめていた空気が、どこかでまだほどけきらずに残っている。——当主が社交に出た日特有の、目に見えない“外”の匂い。

リィナは盆を抱えて立ち止まった。

盆の上には、いつもの茶器。
いつもより少しだけ温度を高く保てるように、布を二重にかけてある。
それから、薄い焼き菓子を一つ。侍女長が「今日は許す」と言った、控えめな甘さ。

(追加枠)

月に二回まで。
社交で削られた翌日にだけ、夕方の“枠のお茶”を追加できる。
——自分で書いた枠だ。自分が鍵を持つための。

でも、いざ扉の前に立つと、胸がざわつく。

これは“看病”ではない。
これは“仕事”でもない。
“理由”が欲しいから作った枠。——その事実が痛い。

リィナは深呼吸を一度だけして、ノックを二回した。

「……入れ」

返ってきた声は低く、少し疲れている。
あの夜に廊下へ来た声とは違う。もっと抑えた、戻った声。

扉を開けると、当主は机ではなく窓辺の椅子に座っていた。
灯りは弱く落とされている。
衣服も普段の上着ではない。堅い布ではなく、柔らかい部屋着。——社交の鎧を脱いだ姿だ。

リィナは、知らないうちに息を止めていた。

「……来たな」

当主の視線がこちらへ向く。
目の奥が深い。赤くはないが、疲れがある。
その疲れが、彼の顔を少しだけ“人”に見せる。

「はい。追加枠です。……一時間だけ」

言葉にすると、枠が形を持つ。
自分がここにいる理由が“自分の意思”であることを、もう一度確認するために。

当主は頷いた。

「分かっている」

それ以上、聞かない。
“どうして来た”も、“次はいつだ”も。
枠を守っている。

リィナは盆を机に置き、湯を温めた。
魔導石の熱が淡く灯り、湯の表面が小さく震える。
その音が、部屋の空気を一段柔らかくした。

茶葉を計り、湯を注ぐ。
香りが立つ。いつもより温度を少し高めに。
社交の夜の疲れは、体より先に心を冷やす。だから、香りで包む。

リィナがカップを差し出すと、当主は受け取った。
指先が触れそうで触れない。
彼は掴まない。——それも枠だ。

一口。

当主が、ほんの少しだけ息を吐いた。

「……温かい」

その言い方が、かつてよりも静かで、救われた人のそれだった。

リィナは自分の分を淹れ、椅子に座った。
距離は、枠の距離。
向かい合いすぎず、離れすぎない。

沈黙が落ちる。
けれど今日は、その沈黙が嫌ではなかった。

外の匂いがまだ残っている。
でも、茶の香りがそれを少しずつ薄めていく。

当主がカップを置き、窓の方へ視線を向けた。

「……昨日」

リィナの胸が跳ねる。
社交の話は、枠の外に伸びやすい。
“理由”になってしまう。
だから、聞きたいのに、聞きたくない。

リィナは、先に言った。

「詳細は、聞きません」

当主の目がこちらに戻る。
一瞬、鋭い。
それでも、すぐに落ち着く。

「……正しい」

短い肯定。

当主は、言葉を選んだ。

「削られた」

それだけ。
内容ではなく状態だけ。
枠の中に収めた報告。

リィナは小さく頷いた。

「……そういう日には、追加枠を使えます」

自分で決めたことを、自分で確認する。
それが鍵。

当主が、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑いにも見えるし、苦みのようにも見える。

「お前は、枠を武器にするのが上手い」

「武器じゃなくて……盾です」

リィナが言うと、当主は一拍置いて言った。

「盾で、俺を守っている」

胸がきゅっと痛んだ。

守りたくて守っているのではない。
守ってしまうから、枠が必要なのに。
それでも、当主の言葉は、リィナの中の“否定”をほどいてくる。

リィナは視線を落とし、カップを持ち上げた。

「……休めていますか」

当主は答える前に、指先を見つめた。
あの扉越しの夜の指先。
触れられないまま落ち着いた指先。

「……休めている」

短い。

そして、少しだけ低く続けた。

「お前がいると」

リィナの胸が跳ねる。
言わないでほしい。枠が。

当主は一拍止まり、飲み込む。

「……いや。言わない」

自分で止めた。
枠を守った。

その努力が、痛いほど愛おしい。

リィナは喉が熱くなって、息を整えた。

「ありがとうございます」

当主は視線を逸らした。
照れではなく、抑えだ。
言葉を飲み込むための逸らし方。

沈黙。

茶の香りが、外の匂いをさらに薄める。
窓の外は暗い。
灯りは弱い。
それでも、この部屋は冷えない。

——そのとき、当主がぽつりと言った。

「……今日、俺は」

また、“俺は——”。

リィナの心臓が痛いほど鳴った。
この続きを聞いたら、枠が変わる。
鍵が滑る。

リィナは、指先を握りしめた。

「……言わないでください」

当主の目が静かに揺れる。
怒りではない。苦しさ。

「枠が」

リィナが続けると、当主はゆっくり息を吐いた。

「……分かった」

声が少し掠れている。
それでも、抑えた。

当主はカップを持ち上げ、もう一口飲んだ。

「……うまい」

その一言で、リィナの胸が少しだけ落ち着く。
今は、味の話でいい。
休むための時間でいい。

リィナは焼き菓子を差し出した。

「少しだけ。甘すぎないものです」

当主は受け取り、見つめた。

「お前の匙加減は、いつも俺の弱いところに刺さる」

刺さる、なんて言い方。
優しさを武器にするみたいで、胸が痛い。

リィナは小さく笑ってしまった。

「……刺したいわけじゃありません」

「知っている」

当主は淡々と言う。

「だから余計に、刺さる」

一口。
焼き菓子が欠ける。

当主のまつげが、ほんの少しだけ下がった。
人の顔。
鎧の外の顔。

リィナは、その瞬間を見てしまって、胸が満ちた。

(……生きるために、欲しがってる)

眠るための“看病”は終わった。
今は、起きている時間の“休み”。
生きるための、余白。

一時間。

時計の針が、枠の終わりを告げる。

リィナは立ち上がった。
合図の儀式。

ランプを一段落とす。
灯りが、さらに弱くなる。

当主の眉がふっとほどけた。
合図が効く。
帰ると分かるから、飲み込める。

リィナは胸の奥の名残を押し込み、頭を下げた。

「……おやすみなさい、アレクシス様」

当主は、すぐに返さなかった。
一拍。
そして、低く。

「……おやすみ」

扉を閉める。

廊下は冷たい。
けれど、背中は冷えない。
自分で作った枠が、背中を支えている。

——リィナは知らない。

当主が、灯りの落ちた瞬間に、指先を握りしめていたことを。
掴むためではなく、掴まないために。

そしてその握りしめた手が、次の“枠の限界”を連れてくることを。
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