看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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26:来てしまった

その夜、屋敷の空気はいつもより早く冷えた。

風が強いわけではない。
雨が降っているわけでもない。
ただ、誰かの心が冷えた夜は、屋敷全体の温度も一緒に下がる気がする——リィナはそんな迷信めいた感覚を、最近やけに信じてしまう。

(今日は枠の日じゃない)

そう自分に言い聞かせながら、リィナは布団を整えた。
机の上の木箱は、いつも通り視界の端に置く。
見ない練習。
紙に書いたルールを、指でなぞって確認する。

点いたら:深呼吸→気持ちに名前→終わり
扉を見ない

(守る)

守るのは、当主のためでもある。
自分のためでもある。
守れたら、壊れない。

リィナは布団に入って目を閉じた。

——ふっと、机の上が淡く明るくなる。

(点いた)

胸が跳ねる。
でも目は開けない。扉を見ない。

深呼吸。ひとつ。ふたつ。みっつ。

(気持ちに名前)

胸の内側を探る。

……怖い。
……嬉しい。
……落ち着く。

一つだけ。

(嬉しい)

リィナは心の中でそう言って、すぐに続けた。

(終わり)

終わり。
終わり。
終わり。

灯りは揺れて、やがて落ち着いた。

——はずだった。

廊下から、微かな足音が聞こえた。

リィナは息を止めた。

(扉を見ない)

見ない。見ない。
でも、耳は勝手に拾ってしまう。
忍び足じゃない。重い音。けれど荒くはない。
静かに歩こうとしているのに、体重が乗る音。

(……当主?)

いや。
当主は“夜に廊下へ来ない”と枠で決めた。
昼に、紙に署名した。
執事に止めさせる、とも書いた。

足音が、止まる。

扉の前ではない。
少し手前。
廊下の角のあたり。

そして、低い声が聞こえた。

「……ここまで」

執事の声だった。
いつもより低く、硬い。
命令を受けた声。

しばらく沈黙。
そして、もう一つ、さらに低い声。

「……どけ」

当主の声。

リィナの胸が凍る。

(来てる……)

来ない枠の日。
なのに来ている。
いや——来て“しまった”。

扉を開けない。
扉を見ない。
終わり。

リィナは布団の中で拳を握り、必死に呼吸を整えた。

廊下の角から、執事の声が続く。

「当主。枠です」

短い。
刃物みたいに短い。

当主が低く息を吐く音がした。

「……分かっている」

分かっているのに、来てしまう。
それが今夜だ。

執事が淡々と、しかし少しだけ強く言う。

「戻ってください。——“止めさせる”と命令されました」

命令。
当主自身が執事に与えた“止める役”。
その役が今、機能している。

当主の呼吸が、一瞬だけ乱れた。

「……俺は」

また“俺は——”が来る気配。
でも、執事が遮る。

「言わないでください」

執事の声は、奇妙に優しかった。
当主に対してだけ、そういう声になる。

「今、言えば枠が壊れます」

沈黙。

当主の足音が、一歩だけ前に出た気配。
執事がそれを、動かずに受け止める。

「当主」

執事は、名を呼ばない。役職で呼ぶ。
線を引くために。

「ここより先は、あなたが奪う場所です」

奪う。
その言葉が冷たいのに、守るための冷たさだと分かってしまう。

当主が、低く笑った。
苦い笑い。

「……奪うつもりはない」

「奪います」

執事は即答した。

「当主は、奪うつもりがなくても奪える方です。——だから止めます」

また沈黙。
長い。
屋敷の時計の音だけが聞こえる。

リィナは布団の中で目を閉じたまま、心に名前をつけた。

(怖い)

そして、終わり。

(終わり)

扉の向こうのことは、終わり。

——ようやく、当主の声が落ちた。

「……今夜、灯りが点いた」

低い声。
誰かに説明する声じゃない。
吐き出しただけの声。

執事が静かに答える。

「はい。点きました」

「……見えた」

当主の声が少し掠れる。

「見えるように設定したのは、あなたです」

執事の言葉が淡々としていて、残酷に正しい。
当主は自分で自分を捕まえる仕組みを作っている。

当主の足音が、ほんの少しだけ後ろへ引いた。

「……戻る」

執事が一拍置く。

「戻れますか」

「戻る」

今度は言い切った。

執事の足音が、少しだけ動いた。
当主の横に寄る音。
支える距離。

廊下の角で、当主が小さく息を吐いた。

「……眠れと言ってしまいそうだった」

執事は答える。

「言ってしまえば、あなたは楽になります。でも、リィナは眠れなくなります」

当主の沈黙。

そして、低い声。

「……あいつは、鍵を持ちたいと言った」

「はい」

執事の声が、少しだけ柔らかい。

「だから、奪わない」

当主は、まるで自分に言い聞かせるように呟く。

「奪わない」

執事が言う。

「なら、戻りましょう」

足音が遠ざかる。
廊下の角から、ゆっくり離れていく。

——リィナの机の上の灯りが、ふっと弱まった。

まるで、外の音が消えたことに安心したみたいに。

リィナは布団の中で、息を吐いた。
震えが、少しずつほどけていく。

(……守った)

当主も、執事も、枠を守った。
危なかったけれど、扉は叩かれなかった。
呼ばれなかった。
踏み込まれなかった。

それなのに、胸は痛いほど満ちている。

“点いたのが見えた”。

そんなこと、言わなくていいのに。
言わないでほしいのに。
心が勝手にそれを抱きしめてしまう。

——翌朝。

リィナは台所で働きながら、執事の足音を探していた。
探してはいけない。
でも、探してしまう。

やがて執事が現れた。
いつも通り無表情。
いつも通り静かな歩き方。

リィナは手を止めずに、声を落とした。

「……昨夜」

執事は小さく頷いた。
否定もしない。隠しもしない。

「当主は枠を守りました」

それだけ。

リィナは唇を噛んだ。

「……ありがとうございます」

執事は一拍置いて言った。

「礼は不要です。役目です」

そして、ほんの僅かに声を落とす。

「しかし——当主は、止められたことに……安堵していました」

安堵。
止められて安堵するほど、危うい夜だった。

リィナの胸が痛む。

執事は続けた。

「あなたが扉を開けなかったことも、同じです。……あなたも枠を守った」

リィナは小さく頷いた。

「……怖かったです」

執事は即答した。

「それでいい。怖い夜は、扉を開けない」

短い言葉が、妙に救いだった。

執事は去り際に、淡々と付け足した。

「今夜、当主はあなたの“追加枠”を使いません。——社交ではありませんから」

リィナは目を瞬いた。

「……え?」

執事は振り返らずに言った。

「当主は、枠を“理由”にしないようにしています」

理由にしない。
それは、リィナが一番怖がっていること。

胸がきゅっとなる。

(あの人も、怖いんだ)

怖いのに、欲しがる。
欲しがるのに、奪わない。

枠は、檻ではない。
でも、二人の欲が強くなるほど、枠は試される。

——その夜、机の灯りは点かなかった。

点かないことに安堵して、点かないことに少しだけ寂しくなって、
リィナはその矛盾に小さく笑った。

そして、終わりの練習をする。

(寂しい)

名前をつける。

(終わり)

それで、終わり。
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