看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

文字の大きさ
28 / 36

28:限界

“手だけ”。

それは枠であり、祈りだった。
触れていい範囲を決めることで、心が逸れすぎないようにする。
触れたら戻れなくなる気がするから、戻れる範囲を残す。

——けれど、限界はいつか来る。

その夜は、風が静かだった。
屋敷の窓はきちんと閉じられ、廊下の冷えもいつも通り。
何も起きないはずの夜。

リィナは“枠の日”の夕方、いつものように当主の部屋へ向かった。

見られないように。
噂用の枠を守るため、廊下の使い方を変えた。
人の動きが少ない時間を選び、角を曲がる前に足音を整える。
隠れることは罪じゃない。守るための工夫。

ノック二回。

「……入れ」

扉を開けると、当主は窓辺の椅子ではなく、ソファに座っていた。
書類は机の端に整えられ、今日は仕事の匂いが薄い。

灯りも、少しだけ柔らかい。
弱いのに暗くない。
まるで“休む”を覚えた部屋みたいだ。

「来たな」

「はい。枠の中です。……一時間」

当主は頷く。

「分かっている」

その返事だけで、胸の奥が少しだけ安堵する。

リィナはお茶を淹れた。
今日は、香りを少し軽くした。
濃い茶は体を起こす。
今夜は休む夜。だから、包む香りにする。

当主は受け取り、一口飲む。

「……落ちる」

落ちる。
体が椅子に沈むように、心が床に降りていく言い方。

「よかったです」

リィナは自分の分を淹れ、ソファの端に腰を下ろした。
距離は枠の距離。
近すぎない。離れすぎない。

沈黙が落ちる。
外の匂いは薄い。噂の温度も、今日は低い。
だからこそ、静けさがちゃんと二人の間に座る。

当主がカップを置き、ぽつりと言った。

「……今日、廊下が騒がしかった」

リィナの胸が跳ねる。
噂だ。
噂の温度が、当主に触れてしまっている。

リィナはすぐに枠を思い出し、淡々と言った。

「皆さん、忙しいだけです。……屋敷はいつも動いていますから」

“皆のおかげ”で終わらせる。
温度を剥がす。
意味を持たせない。

当主は一拍置き、低く言った。

「……そうか」

納得はしていない。
でも、受け取ってくれた。

リィナは息を吐き、カップを持ち上げた。
話を逸らすのではなく、終わらせる。
枠は、話題にも必要だ。

一時間のうち、半分が過ぎたころ。

当主がふいに、掌を差し出した。

「……手」

短い言葉。
命令ではなく、確認みたいな声。

リィナは胸が熱くなりながら、そっと手を差し出した。

触れるのは手だけ。
枠。

当主の指が重なる。
握る、直前で止める。
触れるだけで留める。

その“止め方”が、最近少しだけ上手くなっている。
上手くなるほど、胸が痛い。

リィナは視線を落とし、息を整えた。
掌の熱が伝わる。
熱がある。
熱があるのに、抱きしめない。

当主の声が、低く落ちた。

「……眠い」

「……眠ってください」

「眠る前に」

当主の指先が、少しだけ強く重なる。
掴む手前。
掴まない努力の震え。

「……確認したい」

確認。
その言葉が出ると危ない。
枠の穴を探す言葉。

リィナは息を止めた。

「何を……」

当主は、静かに言った。

「お前は、いなくならないか」

リィナの胸が詰まった。

いなくならない。
そんな約束はできない。
でも、当主の声が子どもみたいに弱い。

リィナは喉を鳴らし、慎重に言った。

「……枠の中で、続けます」

それが今できる最大の答え。
“永遠”ではなく、“続け方”の約束。

当主の指先が、ふっと緩んだ。

「……そうか」

ほっとした音。

その瞬間だった。

当主の身体が、ほんの少しだけ前へ傾いた。
距離が縮まる。
掌だけじゃ足りない距離。

リィナは反射的に身を引きかけて、止まった。
引いたら、当主の胸が冷える。
でも、止まったら——捕まる。

当主の呼吸が近い。

「……リィナ」

名前が、熱を持つ。

リィナは震える声で言った。

「……枠が」

当主は一拍止まり、低く笑った。
苦い笑い。

「……枠だな」

「はい」

当主の指先が、掌の上で微かに震えた。
掴みたい震え。
掴まないための震え。

そして当主は、言った。

「……抱きしめたい」

リィナの背中がひやりとする。
言ってしまった。
言われてしまった。

枠が——。

でも、当主は続けてすぐに言った。

「抱きしめない」

リィナは息を呑む。

当主は目を伏せたまま、淡々と告げる。

「俺が言ったのは、事実だ。……だが、奪わない」

奪わない。
それが彼の枠。

リィナの喉が震える。
胸が痛い。嬉しい。怖い。
心が一気に動く。灯りが点きそうなほどに。

リィナは深呼吸をした。
気持ちに名前。

(怖い)

そして、終わり——にしたいのに、終わらない。

当主が、今度は少しだけ視線を上げた。

「……お前は、嫌か」

嫌。
そう言えば、枠が守れる。
でも、嫌と言ったら、当主の目が壊れる気がする。
優しさが、優しさで人を壊す。

リィナは唇を噛み、正直を選んだ。
枠の中の正直。

「……怖いです」

当主の眉が僅かに動く。

リィナは続けた。

「嫌じゃない。……でも、怖い」

“嫌じゃない”と言ってしまった。
鍵が滑る感覚。
でも、嘘はつけなかった。

当主は一拍置き、低く言った。

「……それでいい」

そして、掌の上の指先が、ふっと力を抜く。

「怖いなら、今は手だけだ」

その言葉が、胸に落ちた。
抱きしめたいと言いながら、手だけを守る。
それがどれだけ苦しいか、想像できる。

リィナは視線を落とし、そっと言った。

「……ありがとうございます」

当主は短く返す。

「礼はいらない。……枠だ」

枠。
二人の間で、呪文みたいに繰り返される言葉。

時計の針が、終わりに近づく。

リィナは立ち上がった。
合図の儀式。

ランプを一段落とす。
灯りが弱くなる。

当主の眉がふっとほどける。
合図が効く。
でも今日は、眉のほどけ方が少しだけ寂しい。

リィナは胸の奥の熱を押し込め、頭を下げた。

「……おやすみなさい、アレクシス様」

当主は一拍置いて、低く返した。

「……おやすみ」

扉を閉める。

廊下は冷たい。
けれど、胸の中が熱い。
熱いことが怖い。

——そして、その夜。

リィナの自室の机の上で、灯りが勝手に点いた。

リィナは布団の中で深呼吸をし、気持ちに名前をつけた。

(嬉しい)

(怖い)

どちらも本当。
でも、一つだけ。

(怖い)

終わり。

……終わり、と唱えたのに、灯りは揺れて揺れて、なかなか落ち着かなかった。

“手だけの限界”。

それを知ってしまった夜は、
灯りもまた、簡単には消えてくれなかった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

「氷の公爵子息は、平凡令嬢を手放さない」

白瀬しおん
恋愛
ただぶつかっただけのはずだった。 なのに気づけば、氷の公爵子息は隣に座り、手を取り、名前を呼ぶ。 そして—— 「逃げてもいい。でも、逃げ切れない」 平凡令嬢を静かに囲い込む、逃げ場なしの溺愛。 最後に待つのは、拒否権のない婚約だった。 ※初投稿のため、至らない点があるかもしれませんが、温かく見守っていただけると嬉しいです。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花*Q−73@文フリ東京5/4
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

生贄として捧げられた「忌み子」の私、あやかし皇帝の薬膳料理番になります ~呪いで拒食症の白虎陛下は、私のおかゆに胃袋を掴まれたようです~

腐ったバナナ
恋愛
実家の「一条家」で霊力なしの忌み子として虐げられてきた凛。生贄としてあやかしの国・天厳国へ捧げられた彼女を待っていたのは、呪いによって食事がすべて「泥の味」に変わる孤独な白虎皇帝・白曜だった。 死を覚悟した凛だったが、前世で培った「管理栄養士」の知識は、あやかしの国では伝説の「浄化の力」として目醒める! 最高級の出汁、完璧な栄養バランス、そして食べる者を想う真心。凛が作る一杯の「黄金の粥」が、数年間不食だった王の味覚を劇的に呼び起こした。 「美味い。……泥ではない味がする」 胃袋を掴まれた皇帝の態度は一変。冷酷な暴君から、凛を誰にも触れさせたくない「超絶過保護な独占欲の塊」へと豹変してしまい……!? 嫌がらせをする後宮の妃や、手の平を返して擦り寄る実家を「料理」と「陛下からの愛」で一掃する、美味しくて爽快な異世界中華風ファンタジー。

【完結】ハメられて追放された悪役令嬢ですが、爬虫類好きな私はドラゴンだってサイコーです。

美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
 やってもいない罪を被せられ、公爵令嬢だったルナティアは断罪される。  王太子であった婚約者も親友であったサーシャに盗られ、家族からも見捨てられてしまった。  教会に生涯幽閉となる手前で、幼馴染である宰相の手腕により獣人の王であるドラゴンの元へ嫁がされることに。  惨めだとあざ笑うサーシャたちを無視し、悲嘆にくれるように見えたルナティアだが、実は大の爬虫類好きだった。  簡単に裏切る人になんてもう未練はない。  むしろ自分の好きなモノたちに囲まれている方が幸せデス。