執事はお嬢様の午後三時のティータイムだけは死守したい (告白は未着手ですが、隣の席だけは確定です)

星乃和花

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第1話 『お嬢様が「少しだけ寂しいの」と囁いた結果、屋敷の警備が要塞化した件(紅茶は通常運転)』

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 午後二時四十分。
 屋敷の廊下は、音まで上品に歩いているような静けさに包まれていた。

 ――静かすぎる。

 エマ(お嬢様)は、二階の窓辺で薄いカーテン越しの庭を眺めながら、胸の奥に小さく穴が空いたような感覚を、丁寧に隠していた。

 外では冬の気配が風を運び、葉のない枝が揺れている。
 人の気配はある。屋敷のどこかで食器が触れる音、暖炉の薪が弾ける音、遠くで誰かが控えめに咳をする音。
 それでも――自分だけが、透明な箱の中にいるみたいだ。

(……寂しい、なんて。言えるわけがないわ)

 エマは自分の頬が緩みそうになるのを、そっと引き締めた。
 “お嬢様”は、いつも優雅で、いつも素直で、いつも人に心配をかけない。
 だから今日も、きちんと猫を被る。
 慣れている。上手い。たぶん、誰よりも。

 背後で、控えめなノックが二回。

「失礼いたします」

 入ってきたのは、執事のレオン。
 背筋はまっすぐ、歩幅は正確、声は体温が一定。――感情の温度が、たぶん年中十八度。

 彼はスパダリの見本みたいに仕事ができた。
 何でも先回りし、何でも整え、何でも守る。
 ただひとつ、情緒だけが置き去りになる。

「お嬢様。本日のティータイムは予定通り十五時。紅茶はダージリンのファーストフラッシュ、茶葉の抽出は三分二十秒で調整しております。スコーンは厨房で二種。温度管理、問題ありません」

「……ありがとう、レオン」

 エマは振り返り、微笑む。
 完璧に、上品に、優しく。

「お嬢様。お召し物の肩が少々冷えております。こちらを」

 レオンは何も言わずショールを掛けた。
 優しい――はずなのに、慰めではない。保温だ。

(そういうところよ)

 エマは内心で小さく笑い、同時に、少し泣きたくなった。
 泣きたいほど寂しいわけじゃない。
 でも、寂しさって、泣くほどじゃない形で来ることがある。
 誰にも見えないところで、じわじわと。

 レオンが一歩退き、いつもの報告を続ける。

「本日、門番より注意喚起がございます。近隣で不審者が目撃されたとの噂があり、警備の巡回頻度を――」

「レオン」

 エマは呼び止めた。
 気づけば、自分の声が少しだけ、細くなっていた。

 レオンが止まる。
 顔をこちらに向ける。
 目は澄んでいるが、“察する”という機能が搭載されているかは怪しい。

「はい、お嬢様」

 言ってしまいそうだった。
 “今日、一緒にいてほしい”
 “話してほしい”
 “ただ、ここにいてほしい”

 でも言えない。
 言えるわけがない。
 お嬢様は、強い。お嬢様は、優雅。お嬢様は、困っている顔なんて見せない。

 だから、遠回しに言う。

「……少しだけ」

 エマは窓の外を見たまま、ふわりと笑ってみせた。

「少しだけ、寂しいの」

 言い終えた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
 恥ずかしさと、安堵と、後悔がいっぺんに来る。

(ああ、言っちゃった……!)

 レオンは黙った。
 ほんの一拍。
 その一拍が、エマの心臓には長すぎた。

 ――きっと、困っている。
 ――どう慰めたらいいかわからない。
 ――それでいい。言ってしまった自分が悪い。

 そう思った次の瞬間。

「承知しました」

 レオンは真顔で言い切った。

「原因の特定を行い、排除します」

「……え?」

 エマは思わず振り返った。

 レオンは淡々と続ける。

「寂しさは、環境要因から発生する可能性が高い。安全性の低下、外的刺激の増加、対人ストレス、体調の揺らぎ――まずは外的リスクを最小化します」

「ま、待って。私は別に、そんな――」

「コード07。お嬢様の“寂しい”発生。対応レベル二」

 レオンは胸元の小さなベルを一度鳴らした。
 それは召使いを呼ぶための可愛らしいベルのはずだった。
 なのに、今の鳴らし方は完全に“非常ベル”だった。

 間髪入れず、廊下の向こうから足音が近づく。
 メイド長のマリアが現れた。涼しい顔で。

「はいはい。コード07ね。で、今回は“要塞化”のレベルはどのあたり?」

「レベル二。屋敷外周の封鎖、来客制限、巡回倍増。お嬢様の生活導線を再設計します」

「再設計って何よ。お嬢様は家具じゃないのよ」

 マリアは慣れた様子で言い、エマににこやかに一礼した。

「お嬢様、ご機嫌いかがですか。……あら、少しだけ寂しいんですって?」

「……マリア……」

 エマは顔が熱くなった。
 世界が、早い。
 噂が、回るのも早いが、執事の行動はそれより早い。

「お嬢様の寂しさは重要案件です」

 レオンは真剣だった。
 真剣に間違っている。

「よろしい。じゃあ私は厨房に“要塞化”が届く前にスコーンを確保してくるわね。前回、警備強化で配達のバターが門前で止められて、地獄を見たもの」

「止めたのは適切でした。荷馬車の車輪が泥で汚れていましたので」

「それは雨のせいよ!」

 マリアは肩をすくめて出ていった。
 残されたのは、エマと、真顔の執事。

「レオン、私は……その、ただ……」

 言葉が詰まる。
 “慰めて”と言いたいのに、口が動かない。
 猫被りの猫が、喉の奥で丸くなって出てこない。

 レオンはエマをまっすぐ見て、こう言った。

「ご安心ください。十五時のティータイムは死守いたします」

「そこじゃないのよ!」

 エマは内心で叫んだ。
 けれど表に出たのは、優雅なため息だけだった。

「ええ……ええ、そうね。ありがとう」

 言ってしまうあたりが、猫被りのプロだ。

 ・♢ー♢ー♢・

 午後二時四十五分。
 屋敷は、静かに“戦時体制”へ移行した。

 まず、門が閉まった。
 “いつもより少し重い音”で閉まった。

 次に、庭の巡回が増えた。
 いつもは庭師がのんびり歩く小道に、護衛が二人、真顔で配置された。
 花壇の前で、真顔の男が仁王立ちしている光景は、なぜかすごく面白い。

 エマが廊下に出ると、角の先に警備隊長がいた。
 普段は穏やかな人なのに、今日はやたらと声が小さい。

「お嬢様……本日より、廊下の右側通行を徹底いたします」

「……右側通行?」

「はい。左側は、万が一の際の避難動線として確保します」

(廊下に……避難動線……)

 エマは笑ってはいけない顔を作りながら、胸の奥がちょっと温かくなるのを感じた。
 だって、これは全部、レオンが“自分のため”に動いている証拠だ。

(違うのに。私が欲しいのは、廊下の動線じゃなくて……)

 その時、門の方から騒がしい声が聞こえた。

「え、今日面会不可!? そんな話聞いてない!」

 どうやら急な来客らしい。
 エマの心臓がひゅっと縮む。
 社交の人。噂の人。優雅の顔を貼り付ける相手。

 だが、次の瞬間。

「申し訳ございません。本日はお嬢様の“精神衛生”を優先しております」

 レオンの声が響いた。

「……精神衛生?」

「はい。お嬢様が少しだけ寂しいとの申告がありましたので」

(言うな!)

 エマは廊下の陰で固まった。
 顔から火が出そうだった。
 庭の冷たい空気より、頬の熱が勝つ。

「え、お嬢様が寂しい!? それは大変じゃない、私が――」

「不要です」

 レオンは即答した。

「お嬢様の寂しさは、他者の介入で解決するとは限りません。むしろ刺激が増える可能性が――」

「あなた、人の心とか……ないの!?」

「ございます。業務として管理しております」

 意味がわからない。

 来客は門の外で呆然とし、結局追い返されたらしい。
 エマは壁にもたれ、そっと息を吐いた。

(……私、今、守られてるの? いじめられてるの?)

 守られているのは確かだ。
 でも、恥ずかしさで死にそうでもある。

 廊下を曲がると、メイドたちが小声でささやき合っている。

「コード07って、あれよね。お嬢様が……」

「寂しい、って……」

「かわいい……」

(……かわいくないわよ……)

 エマは優雅に歩きながら、内心で床を転げ回った。
 猫被りの猫が、もはや毛玉になっている。

 ・♢ー♢ー♢・

 午後二時五十五分。
 エマは自室に戻り、鏡の前で表情を整えた。

 笑顔。
 優雅。
 平気。
 ――寂しくない。

 練習してしまう自分が、少し嫌で、少し愛しい。
 強がりって、癖になる。
 だって、強がると誰も困らないから。

 そこへ再びノック。

「失礼いたします」

 レオンだ。
 いつもの完璧な距離感で立っている。

「お嬢様、十五時になります。ティールームへ」

「ええ」

 エマは立ち上がり、スカートの皺を整えた。
 いつも通りの自分で、いつも通りの時間へ向かう。

 廊下を歩く。
 右側通行。
 真顔の護衛。
 花壇の前の仁王立ち。

 ティールームの扉を開けると、そこだけ世界の温度が違った。
 淡い照明、磨かれたテーブル、整えられた花。
 何より――紅茶の香り。

 レオンが椅子を引く。
 エマが座る。
 向かいの席には、いつもの空間。
 いつもの距離。

 レオンはカップに紅茶を注ぎ、ミルクの有無、砂糖の数を確認する。

「砂糖は二つでよろしいですか」

「……ええ」

 彼は正確に二つ置いた。
 置き方まで美しい。
 そして、表情が一ミリも揺れない。

 エマはスコーンを割った。
 湯気がふわりと立つ。
 そこにクロテッドクリームを乗せ、ジャムを添える。

 いつもなら、これだけで幸せになれる。
 今日も、幸せになりたい。

 だから――言ってみる。

 ほんの少しだけ。
 猫被りの猫の耳を、ほんの少しだけ出すみたいに。

「レオン」

「はい、お嬢様」

「……さっきのこと、忘れていいわ」

 レオンは即答した。

「不可能です。重要案件ですので」

「……そう」

(ああ、もう……)

 エマは笑ってしまいそうになって、誤魔化すように紅茶を飲んだ。
 熱い。
 喉の奥が温まる。
 その温度が、胸の穴に少しだけ沁みる。

 沈黙が落ちる。
 落ち着く沈黙と、痛い沈黙がある。
 今のは、どちらだろう。

 エマは自分でも驚くくらい、小さな声で言った。

「……ねえ」

「はい」

「今日は……」

 言い直す。
 強がりはしない。
 優雅は保つ。
 でも、本音に近いところだけ。

「今日は、もう少しだけ……近くにいて」

 レオンの動きが止まった。
 ほんの一瞬。
 彼の脳内で“近く”が座標になり、距離になり、最適化されているのが伝わってくる。

「承知しました」

 レオンは淡々と、しかし迷いなく、向かいの椅子ではなく――テーブルの横の椅子を引いた。
 エマの隣。
 ほんの半歩の距離。

 椅子が床を滑る音が、やけに大きく聞こえた。

 レオンはそこに座らない。
 座らないが、そこに“置いた”。
 自分の居場所を。

「こちらでよろしいですか」

 エマは喉が詰まりそうになった。
 泣きたいほどじゃない。
 でも、胸がじわっと熱い。

 猫被りの猫が、やっと顔を出して、そっと喉を鳴らす。

「……ええ」

 レオンは相変わらず真顔だった。
 情緒は、まだ十八度のまま。
 だけど、彼は席を近づけた。
 言葉じゃなく、動きで。

 エマはスコーンを小さく割って、皿に置いた。

「レオン」

「はい」

「……紅茶、冷めないうちに飲んで」

 執事は少しだけ目を瞬いた。
 たぶん、それは彼なりの“驚き”だった。

「承知しました」

 そして、ほんのわずかに――いつもより穏やかな所作でカップを持ち上げた。

 エマは、それを見て、静かに笑った。
 今日は、要塞でもいい。
 廊下が避難動線でもいい。
 だって今、ここに――

(……ここに、いる)

 紅茶の香りが、ふたりの間を満たす。
 その香りの中で、エマはようやく、寂しさの穴が少しだけ塞がっていくのを感じた。

 十五時。
 ティータイムは、今日も死守された。
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