2 / 25
第1話 『お嬢様が「少しだけ寂しいの」と囁いた結果、屋敷の警備が要塞化した件(紅茶は通常運転)』
しおりを挟む
午後二時四十分。
屋敷の廊下は、音まで上品に歩いているような静けさに包まれていた。
――静かすぎる。
エマ(お嬢様)は、二階の窓辺で薄いカーテン越しの庭を眺めながら、胸の奥に小さく穴が空いたような感覚を、丁寧に隠していた。
外では冬の気配が風を運び、葉のない枝が揺れている。
人の気配はある。屋敷のどこかで食器が触れる音、暖炉の薪が弾ける音、遠くで誰かが控えめに咳をする音。
それでも――自分だけが、透明な箱の中にいるみたいだ。
(……寂しい、なんて。言えるわけがないわ)
エマは自分の頬が緩みそうになるのを、そっと引き締めた。
“お嬢様”は、いつも優雅で、いつも素直で、いつも人に心配をかけない。
だから今日も、きちんと猫を被る。
慣れている。上手い。たぶん、誰よりも。
背後で、控えめなノックが二回。
「失礼いたします」
入ってきたのは、執事のレオン。
背筋はまっすぐ、歩幅は正確、声は体温が一定。――感情の温度が、たぶん年中十八度。
彼はスパダリの見本みたいに仕事ができた。
何でも先回りし、何でも整え、何でも守る。
ただひとつ、情緒だけが置き去りになる。
「お嬢様。本日のティータイムは予定通り十五時。紅茶はダージリンのファーストフラッシュ、茶葉の抽出は三分二十秒で調整しております。スコーンは厨房で二種。温度管理、問題ありません」
「……ありがとう、レオン」
エマは振り返り、微笑む。
完璧に、上品に、優しく。
「お嬢様。お召し物の肩が少々冷えております。こちらを」
レオンは何も言わずショールを掛けた。
優しい――はずなのに、慰めではない。保温だ。
(そういうところよ)
エマは内心で小さく笑い、同時に、少し泣きたくなった。
泣きたいほど寂しいわけじゃない。
でも、寂しさって、泣くほどじゃない形で来ることがある。
誰にも見えないところで、じわじわと。
レオンが一歩退き、いつもの報告を続ける。
「本日、門番より注意喚起がございます。近隣で不審者が目撃されたとの噂があり、警備の巡回頻度を――」
「レオン」
エマは呼び止めた。
気づけば、自分の声が少しだけ、細くなっていた。
レオンが止まる。
顔をこちらに向ける。
目は澄んでいるが、“察する”という機能が搭載されているかは怪しい。
「はい、お嬢様」
言ってしまいそうだった。
“今日、一緒にいてほしい”
“話してほしい”
“ただ、ここにいてほしい”
でも言えない。
言えるわけがない。
お嬢様は、強い。お嬢様は、優雅。お嬢様は、困っている顔なんて見せない。
だから、遠回しに言う。
「……少しだけ」
エマは窓の外を見たまま、ふわりと笑ってみせた。
「少しだけ、寂しいの」
言い終えた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
恥ずかしさと、安堵と、後悔がいっぺんに来る。
(ああ、言っちゃった……!)
レオンは黙った。
ほんの一拍。
その一拍が、エマの心臓には長すぎた。
――きっと、困っている。
――どう慰めたらいいかわからない。
――それでいい。言ってしまった自分が悪い。
そう思った次の瞬間。
「承知しました」
レオンは真顔で言い切った。
「原因の特定を行い、排除します」
「……え?」
エマは思わず振り返った。
レオンは淡々と続ける。
「寂しさは、環境要因から発生する可能性が高い。安全性の低下、外的刺激の増加、対人ストレス、体調の揺らぎ――まずは外的リスクを最小化します」
「ま、待って。私は別に、そんな――」
「コード07。お嬢様の“寂しい”発生。対応レベル二」
レオンは胸元の小さなベルを一度鳴らした。
それは召使いを呼ぶための可愛らしいベルのはずだった。
なのに、今の鳴らし方は完全に“非常ベル”だった。
間髪入れず、廊下の向こうから足音が近づく。
メイド長のマリアが現れた。涼しい顔で。
「はいはい。コード07ね。で、今回は“要塞化”のレベルはどのあたり?」
「レベル二。屋敷外周の封鎖、来客制限、巡回倍増。お嬢様の生活導線を再設計します」
「再設計って何よ。お嬢様は家具じゃないのよ」
マリアは慣れた様子で言い、エマににこやかに一礼した。
「お嬢様、ご機嫌いかがですか。……あら、少しだけ寂しいんですって?」
「……マリア……」
エマは顔が熱くなった。
世界が、早い。
噂が、回るのも早いが、執事の行動はそれより早い。
「お嬢様の寂しさは重要案件です」
レオンは真剣だった。
真剣に間違っている。
「よろしい。じゃあ私は厨房に“要塞化”が届く前にスコーンを確保してくるわね。前回、警備強化で配達のバターが門前で止められて、地獄を見たもの」
「止めたのは適切でした。荷馬車の車輪が泥で汚れていましたので」
「それは雨のせいよ!」
マリアは肩をすくめて出ていった。
残されたのは、エマと、真顔の執事。
「レオン、私は……その、ただ……」
言葉が詰まる。
“慰めて”と言いたいのに、口が動かない。
猫被りの猫が、喉の奥で丸くなって出てこない。
レオンはエマをまっすぐ見て、こう言った。
「ご安心ください。十五時のティータイムは死守いたします」
「そこじゃないのよ!」
エマは内心で叫んだ。
けれど表に出たのは、優雅なため息だけだった。
「ええ……ええ、そうね。ありがとう」
言ってしまうあたりが、猫被りのプロだ。
・♢ー♢ー♢・
午後二時四十五分。
屋敷は、静かに“戦時体制”へ移行した。
まず、門が閉まった。
“いつもより少し重い音”で閉まった。
次に、庭の巡回が増えた。
いつもは庭師がのんびり歩く小道に、護衛が二人、真顔で配置された。
花壇の前で、真顔の男が仁王立ちしている光景は、なぜかすごく面白い。
エマが廊下に出ると、角の先に警備隊長がいた。
普段は穏やかな人なのに、今日はやたらと声が小さい。
「お嬢様……本日より、廊下の右側通行を徹底いたします」
「……右側通行?」
「はい。左側は、万が一の際の避難動線として確保します」
(廊下に……避難動線……)
エマは笑ってはいけない顔を作りながら、胸の奥がちょっと温かくなるのを感じた。
だって、これは全部、レオンが“自分のため”に動いている証拠だ。
(違うのに。私が欲しいのは、廊下の動線じゃなくて……)
その時、門の方から騒がしい声が聞こえた。
「え、今日面会不可!? そんな話聞いてない!」
どうやら急な来客らしい。
エマの心臓がひゅっと縮む。
社交の人。噂の人。優雅の顔を貼り付ける相手。
だが、次の瞬間。
「申し訳ございません。本日はお嬢様の“精神衛生”を優先しております」
レオンの声が響いた。
「……精神衛生?」
「はい。お嬢様が少しだけ寂しいとの申告がありましたので」
(言うな!)
エマは廊下の陰で固まった。
顔から火が出そうだった。
庭の冷たい空気より、頬の熱が勝つ。
「え、お嬢様が寂しい!? それは大変じゃない、私が――」
「不要です」
レオンは即答した。
「お嬢様の寂しさは、他者の介入で解決するとは限りません。むしろ刺激が増える可能性が――」
「あなた、人の心とか……ないの!?」
「ございます。業務として管理しております」
意味がわからない。
来客は門の外で呆然とし、結局追い返されたらしい。
エマは壁にもたれ、そっと息を吐いた。
(……私、今、守られてるの? いじめられてるの?)
守られているのは確かだ。
でも、恥ずかしさで死にそうでもある。
廊下を曲がると、メイドたちが小声でささやき合っている。
「コード07って、あれよね。お嬢様が……」
「寂しい、って……」
「かわいい……」
(……かわいくないわよ……)
エマは優雅に歩きながら、内心で床を転げ回った。
猫被りの猫が、もはや毛玉になっている。
・♢ー♢ー♢・
午後二時五十五分。
エマは自室に戻り、鏡の前で表情を整えた。
笑顔。
優雅。
平気。
――寂しくない。
練習してしまう自分が、少し嫌で、少し愛しい。
強がりって、癖になる。
だって、強がると誰も困らないから。
そこへ再びノック。
「失礼いたします」
レオンだ。
いつもの完璧な距離感で立っている。
「お嬢様、十五時になります。ティールームへ」
「ええ」
エマは立ち上がり、スカートの皺を整えた。
いつも通りの自分で、いつも通りの時間へ向かう。
廊下を歩く。
右側通行。
真顔の護衛。
花壇の前の仁王立ち。
ティールームの扉を開けると、そこだけ世界の温度が違った。
淡い照明、磨かれたテーブル、整えられた花。
何より――紅茶の香り。
レオンが椅子を引く。
エマが座る。
向かいの席には、いつもの空間。
いつもの距離。
レオンはカップに紅茶を注ぎ、ミルクの有無、砂糖の数を確認する。
「砂糖は二つでよろしいですか」
「……ええ」
彼は正確に二つ置いた。
置き方まで美しい。
そして、表情が一ミリも揺れない。
エマはスコーンを割った。
湯気がふわりと立つ。
そこにクロテッドクリームを乗せ、ジャムを添える。
いつもなら、これだけで幸せになれる。
今日も、幸せになりたい。
だから――言ってみる。
ほんの少しだけ。
猫被りの猫の耳を、ほんの少しだけ出すみたいに。
「レオン」
「はい、お嬢様」
「……さっきのこと、忘れていいわ」
レオンは即答した。
「不可能です。重要案件ですので」
「……そう」
(ああ、もう……)
エマは笑ってしまいそうになって、誤魔化すように紅茶を飲んだ。
熱い。
喉の奥が温まる。
その温度が、胸の穴に少しだけ沁みる。
沈黙が落ちる。
落ち着く沈黙と、痛い沈黙がある。
今のは、どちらだろう。
エマは自分でも驚くくらい、小さな声で言った。
「……ねえ」
「はい」
「今日は……」
言い直す。
強がりはしない。
優雅は保つ。
でも、本音に近いところだけ。
「今日は、もう少しだけ……近くにいて」
レオンの動きが止まった。
ほんの一瞬。
彼の脳内で“近く”が座標になり、距離になり、最適化されているのが伝わってくる。
「承知しました」
レオンは淡々と、しかし迷いなく、向かいの椅子ではなく――テーブルの横の椅子を引いた。
エマの隣。
ほんの半歩の距離。
椅子が床を滑る音が、やけに大きく聞こえた。
レオンはそこに座らない。
座らないが、そこに“置いた”。
自分の居場所を。
「こちらでよろしいですか」
エマは喉が詰まりそうになった。
泣きたいほどじゃない。
でも、胸がじわっと熱い。
猫被りの猫が、やっと顔を出して、そっと喉を鳴らす。
「……ええ」
レオンは相変わらず真顔だった。
情緒は、まだ十八度のまま。
だけど、彼は席を近づけた。
言葉じゃなく、動きで。
エマはスコーンを小さく割って、皿に置いた。
「レオン」
「はい」
「……紅茶、冷めないうちに飲んで」
執事は少しだけ目を瞬いた。
たぶん、それは彼なりの“驚き”だった。
「承知しました」
そして、ほんのわずかに――いつもより穏やかな所作でカップを持ち上げた。
エマは、それを見て、静かに笑った。
今日は、要塞でもいい。
廊下が避難動線でもいい。
だって今、ここに――
(……ここに、いる)
紅茶の香りが、ふたりの間を満たす。
その香りの中で、エマはようやく、寂しさの穴が少しだけ塞がっていくのを感じた。
十五時。
ティータイムは、今日も死守された。
屋敷の廊下は、音まで上品に歩いているような静けさに包まれていた。
――静かすぎる。
エマ(お嬢様)は、二階の窓辺で薄いカーテン越しの庭を眺めながら、胸の奥に小さく穴が空いたような感覚を、丁寧に隠していた。
外では冬の気配が風を運び、葉のない枝が揺れている。
人の気配はある。屋敷のどこかで食器が触れる音、暖炉の薪が弾ける音、遠くで誰かが控えめに咳をする音。
それでも――自分だけが、透明な箱の中にいるみたいだ。
(……寂しい、なんて。言えるわけがないわ)
エマは自分の頬が緩みそうになるのを、そっと引き締めた。
“お嬢様”は、いつも優雅で、いつも素直で、いつも人に心配をかけない。
だから今日も、きちんと猫を被る。
慣れている。上手い。たぶん、誰よりも。
背後で、控えめなノックが二回。
「失礼いたします」
入ってきたのは、執事のレオン。
背筋はまっすぐ、歩幅は正確、声は体温が一定。――感情の温度が、たぶん年中十八度。
彼はスパダリの見本みたいに仕事ができた。
何でも先回りし、何でも整え、何でも守る。
ただひとつ、情緒だけが置き去りになる。
「お嬢様。本日のティータイムは予定通り十五時。紅茶はダージリンのファーストフラッシュ、茶葉の抽出は三分二十秒で調整しております。スコーンは厨房で二種。温度管理、問題ありません」
「……ありがとう、レオン」
エマは振り返り、微笑む。
完璧に、上品に、優しく。
「お嬢様。お召し物の肩が少々冷えております。こちらを」
レオンは何も言わずショールを掛けた。
優しい――はずなのに、慰めではない。保温だ。
(そういうところよ)
エマは内心で小さく笑い、同時に、少し泣きたくなった。
泣きたいほど寂しいわけじゃない。
でも、寂しさって、泣くほどじゃない形で来ることがある。
誰にも見えないところで、じわじわと。
レオンが一歩退き、いつもの報告を続ける。
「本日、門番より注意喚起がございます。近隣で不審者が目撃されたとの噂があり、警備の巡回頻度を――」
「レオン」
エマは呼び止めた。
気づけば、自分の声が少しだけ、細くなっていた。
レオンが止まる。
顔をこちらに向ける。
目は澄んでいるが、“察する”という機能が搭載されているかは怪しい。
「はい、お嬢様」
言ってしまいそうだった。
“今日、一緒にいてほしい”
“話してほしい”
“ただ、ここにいてほしい”
でも言えない。
言えるわけがない。
お嬢様は、強い。お嬢様は、優雅。お嬢様は、困っている顔なんて見せない。
だから、遠回しに言う。
「……少しだけ」
エマは窓の外を見たまま、ふわりと笑ってみせた。
「少しだけ、寂しいの」
言い終えた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
恥ずかしさと、安堵と、後悔がいっぺんに来る。
(ああ、言っちゃった……!)
レオンは黙った。
ほんの一拍。
その一拍が、エマの心臓には長すぎた。
――きっと、困っている。
――どう慰めたらいいかわからない。
――それでいい。言ってしまった自分が悪い。
そう思った次の瞬間。
「承知しました」
レオンは真顔で言い切った。
「原因の特定を行い、排除します」
「……え?」
エマは思わず振り返った。
レオンは淡々と続ける。
「寂しさは、環境要因から発生する可能性が高い。安全性の低下、外的刺激の増加、対人ストレス、体調の揺らぎ――まずは外的リスクを最小化します」
「ま、待って。私は別に、そんな――」
「コード07。お嬢様の“寂しい”発生。対応レベル二」
レオンは胸元の小さなベルを一度鳴らした。
それは召使いを呼ぶための可愛らしいベルのはずだった。
なのに、今の鳴らし方は完全に“非常ベル”だった。
間髪入れず、廊下の向こうから足音が近づく。
メイド長のマリアが現れた。涼しい顔で。
「はいはい。コード07ね。で、今回は“要塞化”のレベルはどのあたり?」
「レベル二。屋敷外周の封鎖、来客制限、巡回倍増。お嬢様の生活導線を再設計します」
「再設計って何よ。お嬢様は家具じゃないのよ」
マリアは慣れた様子で言い、エマににこやかに一礼した。
「お嬢様、ご機嫌いかがですか。……あら、少しだけ寂しいんですって?」
「……マリア……」
エマは顔が熱くなった。
世界が、早い。
噂が、回るのも早いが、執事の行動はそれより早い。
「お嬢様の寂しさは重要案件です」
レオンは真剣だった。
真剣に間違っている。
「よろしい。じゃあ私は厨房に“要塞化”が届く前にスコーンを確保してくるわね。前回、警備強化で配達のバターが門前で止められて、地獄を見たもの」
「止めたのは適切でした。荷馬車の車輪が泥で汚れていましたので」
「それは雨のせいよ!」
マリアは肩をすくめて出ていった。
残されたのは、エマと、真顔の執事。
「レオン、私は……その、ただ……」
言葉が詰まる。
“慰めて”と言いたいのに、口が動かない。
猫被りの猫が、喉の奥で丸くなって出てこない。
レオンはエマをまっすぐ見て、こう言った。
「ご安心ください。十五時のティータイムは死守いたします」
「そこじゃないのよ!」
エマは内心で叫んだ。
けれど表に出たのは、優雅なため息だけだった。
「ええ……ええ、そうね。ありがとう」
言ってしまうあたりが、猫被りのプロだ。
・♢ー♢ー♢・
午後二時四十五分。
屋敷は、静かに“戦時体制”へ移行した。
まず、門が閉まった。
“いつもより少し重い音”で閉まった。
次に、庭の巡回が増えた。
いつもは庭師がのんびり歩く小道に、護衛が二人、真顔で配置された。
花壇の前で、真顔の男が仁王立ちしている光景は、なぜかすごく面白い。
エマが廊下に出ると、角の先に警備隊長がいた。
普段は穏やかな人なのに、今日はやたらと声が小さい。
「お嬢様……本日より、廊下の右側通行を徹底いたします」
「……右側通行?」
「はい。左側は、万が一の際の避難動線として確保します」
(廊下に……避難動線……)
エマは笑ってはいけない顔を作りながら、胸の奥がちょっと温かくなるのを感じた。
だって、これは全部、レオンが“自分のため”に動いている証拠だ。
(違うのに。私が欲しいのは、廊下の動線じゃなくて……)
その時、門の方から騒がしい声が聞こえた。
「え、今日面会不可!? そんな話聞いてない!」
どうやら急な来客らしい。
エマの心臓がひゅっと縮む。
社交の人。噂の人。優雅の顔を貼り付ける相手。
だが、次の瞬間。
「申し訳ございません。本日はお嬢様の“精神衛生”を優先しております」
レオンの声が響いた。
「……精神衛生?」
「はい。お嬢様が少しだけ寂しいとの申告がありましたので」
(言うな!)
エマは廊下の陰で固まった。
顔から火が出そうだった。
庭の冷たい空気より、頬の熱が勝つ。
「え、お嬢様が寂しい!? それは大変じゃない、私が――」
「不要です」
レオンは即答した。
「お嬢様の寂しさは、他者の介入で解決するとは限りません。むしろ刺激が増える可能性が――」
「あなた、人の心とか……ないの!?」
「ございます。業務として管理しております」
意味がわからない。
来客は門の外で呆然とし、結局追い返されたらしい。
エマは壁にもたれ、そっと息を吐いた。
(……私、今、守られてるの? いじめられてるの?)
守られているのは確かだ。
でも、恥ずかしさで死にそうでもある。
廊下を曲がると、メイドたちが小声でささやき合っている。
「コード07って、あれよね。お嬢様が……」
「寂しい、って……」
「かわいい……」
(……かわいくないわよ……)
エマは優雅に歩きながら、内心で床を転げ回った。
猫被りの猫が、もはや毛玉になっている。
・♢ー♢ー♢・
午後二時五十五分。
エマは自室に戻り、鏡の前で表情を整えた。
笑顔。
優雅。
平気。
――寂しくない。
練習してしまう自分が、少し嫌で、少し愛しい。
強がりって、癖になる。
だって、強がると誰も困らないから。
そこへ再びノック。
「失礼いたします」
レオンだ。
いつもの完璧な距離感で立っている。
「お嬢様、十五時になります。ティールームへ」
「ええ」
エマは立ち上がり、スカートの皺を整えた。
いつも通りの自分で、いつも通りの時間へ向かう。
廊下を歩く。
右側通行。
真顔の護衛。
花壇の前の仁王立ち。
ティールームの扉を開けると、そこだけ世界の温度が違った。
淡い照明、磨かれたテーブル、整えられた花。
何より――紅茶の香り。
レオンが椅子を引く。
エマが座る。
向かいの席には、いつもの空間。
いつもの距離。
レオンはカップに紅茶を注ぎ、ミルクの有無、砂糖の数を確認する。
「砂糖は二つでよろしいですか」
「……ええ」
彼は正確に二つ置いた。
置き方まで美しい。
そして、表情が一ミリも揺れない。
エマはスコーンを割った。
湯気がふわりと立つ。
そこにクロテッドクリームを乗せ、ジャムを添える。
いつもなら、これだけで幸せになれる。
今日も、幸せになりたい。
だから――言ってみる。
ほんの少しだけ。
猫被りの猫の耳を、ほんの少しだけ出すみたいに。
「レオン」
「はい、お嬢様」
「……さっきのこと、忘れていいわ」
レオンは即答した。
「不可能です。重要案件ですので」
「……そう」
(ああ、もう……)
エマは笑ってしまいそうになって、誤魔化すように紅茶を飲んだ。
熱い。
喉の奥が温まる。
その温度が、胸の穴に少しだけ沁みる。
沈黙が落ちる。
落ち着く沈黙と、痛い沈黙がある。
今のは、どちらだろう。
エマは自分でも驚くくらい、小さな声で言った。
「……ねえ」
「はい」
「今日は……」
言い直す。
強がりはしない。
優雅は保つ。
でも、本音に近いところだけ。
「今日は、もう少しだけ……近くにいて」
レオンの動きが止まった。
ほんの一瞬。
彼の脳内で“近く”が座標になり、距離になり、最適化されているのが伝わってくる。
「承知しました」
レオンは淡々と、しかし迷いなく、向かいの椅子ではなく――テーブルの横の椅子を引いた。
エマの隣。
ほんの半歩の距離。
椅子が床を滑る音が、やけに大きく聞こえた。
レオンはそこに座らない。
座らないが、そこに“置いた”。
自分の居場所を。
「こちらでよろしいですか」
エマは喉が詰まりそうになった。
泣きたいほどじゃない。
でも、胸がじわっと熱い。
猫被りの猫が、やっと顔を出して、そっと喉を鳴らす。
「……ええ」
レオンは相変わらず真顔だった。
情緒は、まだ十八度のまま。
だけど、彼は席を近づけた。
言葉じゃなく、動きで。
エマはスコーンを小さく割って、皿に置いた。
「レオン」
「はい」
「……紅茶、冷めないうちに飲んで」
執事は少しだけ目を瞬いた。
たぶん、それは彼なりの“驚き”だった。
「承知しました」
そして、ほんのわずかに――いつもより穏やかな所作でカップを持ち上げた。
エマは、それを見て、静かに笑った。
今日は、要塞でもいい。
廊下が避難動線でもいい。
だって今、ここに――
(……ここに、いる)
紅茶の香りが、ふたりの間を満たす。
その香りの中で、エマはようやく、寂しさの穴が少しだけ塞がっていくのを感じた。
十五時。
ティータイムは、今日も死守された。
0
あなたにおすすめの小説
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
◼︎超高速展開、サクッと読めます。
醜女の私と政略結婚した旦那様の様子がおかしい
サトウミ
恋愛
この国一番の醜女である私と結婚したイバン様。眉目秀麗で数多の女性と浮き名を流した彼は、不祥事を起こしたせいで私なんかと結婚することになってしまった。それでも真面目な彼は、必死に私を愛そうと努力してくださる。
──無駄な努力だ。
こんな色白で目と胸の大きい女を、愛せるはずがない。
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】旦那様!単身赴任だけは勘弁して下さい!
たまこ
恋愛
エミリーの大好きな夫、アランは王宮騎士団の副団長。ある日、栄転の為に辺境へ異動することになり、エミリーはてっきり夫婦で引っ越すものだと思い込み、いそいそと荷造りを始める。
だが、アランの部下に「副団長は単身赴任すると言っていた」と聞き、エミリーは呆然としてしまう。アランが大好きで離れたくないエミリーが取った行動とは。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる