25 / 25
幕間F(クリスマス回)『また高級品を用意した執事に、お嬢様が本当に欲しいのは“その手”だと言えなくて――手順書なしで手を差し出される夜』
しおりを挟む
屋敷の冬は、音がやわらかい。
カーテンの重みが外の風を遮り、廊下の足音さえ絨毯に吸われる。
窓の外には小さな灯りが点り、雪は降っていないのに、どこか雪の匂いがした。
クリスマスの夜。
エマは鏡の前で、手袋をそっと整えた。
白い、柔らかな革。指先に小さな刺繍。
贅沢ではないけれど、丁寧に選んだもの。
(……手袋)
本当は手袋が欲しいわけじゃない。
でも、手袋にしてしまう。
“その手が欲しい”なんて――言えないから。
エマは胸の前で指先を握り、深呼吸をした。
猫被りの微笑みを作る練習をする。
(大丈夫。今日は上手に言える。……上手に)
扉の向こうで、控えめなノックが鳴った。
「お嬢様。よろしいでしょうか」
レオンの声。
いつも通りの丁寧さ。
でも、今夜はほんの少しだけ温度がある気がする。
「ええ」
レオンが入ってくる。
黒い礼服のような執事服。
手には小さな箱がいくつか。
エマはその箱を見て、心の中で小さく呻いた。
(……また高級品の気配)
レオンは真顔で言った。
「本日は特別日です。
贈り物を用意しました」
箱のひとつは、宝飾店の刻印。
もうひとつは、稀少茶葉の木箱。
そして、最後は――質のいい薄い布袋。中身はたぶん、何かの上等なもの。
完璧。
完璧すぎる。
物としては、完璧すぎて息が詰まる。
エマは微笑んだ。
猫被りの微笑み。
「……ありがとう。素敵ね」
声が上品すぎて、自分の本音から遠い。
(違う。欲しいのは、こういう“すごいもの”じゃなくて)
エマは手袋を握った。
(手袋じゃなくて――その手)
喉まで来た言葉を飲み込む。
言えない。
言ったら、全部崩れてしまいそうで怖い。
レオンは箱を丁寧に並べ、次にエマの手元へ視線を落とした。
「お嬢様。それは」
エマは、胸がどきっとして、手袋を差し出した。
「私からも。……小さいけれど」
レオンは一拍置いて、受け取った。
受け取った手が、いつもよりゆっくりだった。
「ありがとうございます」
それだけで、胸が温かくなる。
たった一言なのに。
その時、扉の隙間から、メイド長マリアが顔を出した。
目が輝いている。
もちろん、余計なことを言うために来た目だ。
「失礼します、お嬢様。
……あ、またやってる」
レオンが真顔のままマリアを見る。
「何を」
「高級品で殴るやつ」
「殴っていません。贈呈です」
「殴ってるのよ」
マリアはエマの方を見て、わざとため息をついた。
「お嬢様が欲しいの、手よ」
エマの顔が一瞬で熱くなる。
「マリア!!」
「伝統芸です」
「伝統にしないで!」
レオンが、固まった。
固まって、そして――珍しく何も言わなかった。
エマは慌てて猫被りを戻し、上品な声で取り繕う。
「……マリアは冗談が過ぎるの」
マリアはにやにやしながら去っていく。
去り際に小声で「言えないなら、待ってなさいよ」と置き土産を残した。
部屋に、二人きりの静けさが落ちる。
エマは心臓がうるさい。
レオンは目を伏せたまま、少しだけ呼吸を整えているように見えた。
そして、ゆっくりと言った。
「……お嬢様」
「なに?」
「本日の贈り物は、物品としては適切です」
(また“適切”……)
エマは笑いそうになって、笑えなかった。
だって、今夜は違う。
レオンが続ける。
「しかし、私には不足があります」
エマの息が止まった。
「……不足?」
レオンは答えない。
手順書を開かない。
いつもなら“不足の定義”から入るのに、今日は違う。
レオンは、自分の手袋――いや、手袋ではない。
執事用の薄い手袋を外し始めた。
右。
左。
指先が、素肌になる。
その動きが、静かで、丁寧で――なぜだか胸が痛い。
レオンは手袋を机の端に置いた。
そして、何も言わずに――手を差し出した。
手順書なし。
承認の言葉も、距離の計測も、時間の指定もない。
ただ、そこにある手。
エマは、言葉が出なかった。
(……え、これ)
欲しかったものが、いきなり差し出されると、人は動けなくなるらしい。
エマは実感した。
エマの指先が震える。
震えるのを隠すために、手袋の端をぎゅっと握る。
「……レオン」
やっと出た声は、小さすぎた。
レオンは目を上げない。
上げないまま、待っている。
待つのが、上手だ。
今日に限って、上手すぎる。
エマは、勇気を出した。
全部握りしめている強がりを、少しだけほどく。
指先だけ。
本当に指先だけ。
そっと、レオンの手に触れた。
熱が伝わってくる。
あったかい。
手袋より、ずっと。
エマは、息を吐きながら、やっと言えた。
「……これが一番あったかい」
言った瞬間、胸の奥がじんとした。
言葉にできたのはそれだけ。
でも、それで十分だった。
レオンの指が、ほんの少し動く。
握らない。
でも、逃がさない距離に寄る。
エマの指先はまだ触れている。
触れているだけで、心が満ちる。
レオンが、ぽつりと言った。
「……はい」
短い返事。
でも、今夜はそれが一番甘い。
窓の外で、屋敷の灯りが静かに揺れている。
クリスマスの夜は、贈り物が多すぎる。
でも、エマが欲しかったのは、たったひとつだった。
差し出された“その手”。
エマは指先をそっと重ねたまま、心の中で小さく呟いた。
(……これでいい)
カーテンの重みが外の風を遮り、廊下の足音さえ絨毯に吸われる。
窓の外には小さな灯りが点り、雪は降っていないのに、どこか雪の匂いがした。
クリスマスの夜。
エマは鏡の前で、手袋をそっと整えた。
白い、柔らかな革。指先に小さな刺繍。
贅沢ではないけれど、丁寧に選んだもの。
(……手袋)
本当は手袋が欲しいわけじゃない。
でも、手袋にしてしまう。
“その手が欲しい”なんて――言えないから。
エマは胸の前で指先を握り、深呼吸をした。
猫被りの微笑みを作る練習をする。
(大丈夫。今日は上手に言える。……上手に)
扉の向こうで、控えめなノックが鳴った。
「お嬢様。よろしいでしょうか」
レオンの声。
いつも通りの丁寧さ。
でも、今夜はほんの少しだけ温度がある気がする。
「ええ」
レオンが入ってくる。
黒い礼服のような執事服。
手には小さな箱がいくつか。
エマはその箱を見て、心の中で小さく呻いた。
(……また高級品の気配)
レオンは真顔で言った。
「本日は特別日です。
贈り物を用意しました」
箱のひとつは、宝飾店の刻印。
もうひとつは、稀少茶葉の木箱。
そして、最後は――質のいい薄い布袋。中身はたぶん、何かの上等なもの。
完璧。
完璧すぎる。
物としては、完璧すぎて息が詰まる。
エマは微笑んだ。
猫被りの微笑み。
「……ありがとう。素敵ね」
声が上品すぎて、自分の本音から遠い。
(違う。欲しいのは、こういう“すごいもの”じゃなくて)
エマは手袋を握った。
(手袋じゃなくて――その手)
喉まで来た言葉を飲み込む。
言えない。
言ったら、全部崩れてしまいそうで怖い。
レオンは箱を丁寧に並べ、次にエマの手元へ視線を落とした。
「お嬢様。それは」
エマは、胸がどきっとして、手袋を差し出した。
「私からも。……小さいけれど」
レオンは一拍置いて、受け取った。
受け取った手が、いつもよりゆっくりだった。
「ありがとうございます」
それだけで、胸が温かくなる。
たった一言なのに。
その時、扉の隙間から、メイド長マリアが顔を出した。
目が輝いている。
もちろん、余計なことを言うために来た目だ。
「失礼します、お嬢様。
……あ、またやってる」
レオンが真顔のままマリアを見る。
「何を」
「高級品で殴るやつ」
「殴っていません。贈呈です」
「殴ってるのよ」
マリアはエマの方を見て、わざとため息をついた。
「お嬢様が欲しいの、手よ」
エマの顔が一瞬で熱くなる。
「マリア!!」
「伝統芸です」
「伝統にしないで!」
レオンが、固まった。
固まって、そして――珍しく何も言わなかった。
エマは慌てて猫被りを戻し、上品な声で取り繕う。
「……マリアは冗談が過ぎるの」
マリアはにやにやしながら去っていく。
去り際に小声で「言えないなら、待ってなさいよ」と置き土産を残した。
部屋に、二人きりの静けさが落ちる。
エマは心臓がうるさい。
レオンは目を伏せたまま、少しだけ呼吸を整えているように見えた。
そして、ゆっくりと言った。
「……お嬢様」
「なに?」
「本日の贈り物は、物品としては適切です」
(また“適切”……)
エマは笑いそうになって、笑えなかった。
だって、今夜は違う。
レオンが続ける。
「しかし、私には不足があります」
エマの息が止まった。
「……不足?」
レオンは答えない。
手順書を開かない。
いつもなら“不足の定義”から入るのに、今日は違う。
レオンは、自分の手袋――いや、手袋ではない。
執事用の薄い手袋を外し始めた。
右。
左。
指先が、素肌になる。
その動きが、静かで、丁寧で――なぜだか胸が痛い。
レオンは手袋を机の端に置いた。
そして、何も言わずに――手を差し出した。
手順書なし。
承認の言葉も、距離の計測も、時間の指定もない。
ただ、そこにある手。
エマは、言葉が出なかった。
(……え、これ)
欲しかったものが、いきなり差し出されると、人は動けなくなるらしい。
エマは実感した。
エマの指先が震える。
震えるのを隠すために、手袋の端をぎゅっと握る。
「……レオン」
やっと出た声は、小さすぎた。
レオンは目を上げない。
上げないまま、待っている。
待つのが、上手だ。
今日に限って、上手すぎる。
エマは、勇気を出した。
全部握りしめている強がりを、少しだけほどく。
指先だけ。
本当に指先だけ。
そっと、レオンの手に触れた。
熱が伝わってくる。
あったかい。
手袋より、ずっと。
エマは、息を吐きながら、やっと言えた。
「……これが一番あったかい」
言った瞬間、胸の奥がじんとした。
言葉にできたのはそれだけ。
でも、それで十分だった。
レオンの指が、ほんの少し動く。
握らない。
でも、逃がさない距離に寄る。
エマの指先はまだ触れている。
触れているだけで、心が満ちる。
レオンが、ぽつりと言った。
「……はい」
短い返事。
でも、今夜はそれが一番甘い。
窓の外で、屋敷の灯りが静かに揺れている。
クリスマスの夜は、贈り物が多すぎる。
でも、エマが欲しかったのは、たったひとつだった。
差し出された“その手”。
エマは指先をそっと重ねたまま、心の中で小さく呟いた。
(……これでいい)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
◼︎超高速展開、サクッと読めます。
醜女の私と政略結婚した旦那様の様子がおかしい
サトウミ
恋愛
この国一番の醜女である私と結婚したイバン様。眉目秀麗で数多の女性と浮き名を流した彼は、不祥事を起こしたせいで私なんかと結婚することになってしまった。それでも真面目な彼は、必死に私を愛そうと努力してくださる。
──無駄な努力だ。
こんな色白で目と胸の大きい女を、愛せるはずがない。
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】旦那様!単身赴任だけは勘弁して下さい!
たまこ
恋愛
エミリーの大好きな夫、アランは王宮騎士団の副団長。ある日、栄転の為に辺境へ異動することになり、エミリーはてっきり夫婦で引っ越すものだと思い込み、いそいそと荷造りを始める。
だが、アランの部下に「副団長は単身赴任すると言っていた」と聞き、エミリーは呆然としてしまう。アランが大好きで離れたくないエミリーが取った行動とは。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる