清楚な執事長、常駐位置が“お嬢様の隣”に確定しました

星乃和花

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2話『欲しいと言えない私に、選択肢が増える』

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 翌朝。私はまず、紅茶の香りで目が覚めた。

 ——目が覚めた、というか。
 正確には「寝室の空気が整いすぎていて、起きるしかない」だった。

 カーテンの隙間から差す光は柔らかく、室温はちょうど良く、喉は乾いていない。枕は首に優しい角度のまま。
 この屋敷、私の睡眠を勝手に完璧化するのやめてほしい。

「おはようございます、お嬢様」

 扉が静かに開き、清楚の擬人化みたいな執事長が入ってくる。
 ユリウスはいつも通りの完璧な所作で、ワゴンを押していた。

 銀のポット、白いカップ、薄い焼き菓子。
 そして——私の膝掛け。

 膝掛けは、なぜかベッドの端にきれいに畳まれている。
 ……昨日、私はそれを抱きしめたまま寝落ちしたのに。

「……おはようございます」

 私は起き上がって、落ち着いた声を作った。
 落ち着き。落ち着き。
 彼の前では、落ち着きが命綱。

「紅茶をお持ちしました。今日は少し冷えますので」

「ありがとうございます。ですが、まだそんなに寒くは——」

「手が冷たいです」

 即答。
 こちらの反論の芽を摘む速度が早い。

 ユリウスは淡々とカップを置き、ポットから紅茶を注いだ。
 香りが立つ。
 ……私の理性が溶ける香りだ。

「いつものブレンドです。ミルクは——」

「入れません」

 私は反射で答えた。
 入れたら甘くなってしまう。甘いと心臓が暴れる。心臓が暴れると顔に出る。顔に出るとユリウスが小声で褒めてくる。
 ……悪循環。

「承知しました」

 ユリウスは微笑んだ。
 清楚な微笑み。世界が安心する微笑み。
 私はその微笑みの“余白”に、昨日の「赤いですね」を幻視してしまい、勝手に頬が熱くなる。

 私は咳払いをして誤魔化し、カップに口をつけた。

 ……おいしい。

 完璧においしい。
 悔しいほどおいしい。
 この人は、私の好みを“当てる”のが得意だ。紅茶も、膝掛けも、声の距離も。

「お口に合いましたか」

「ええ。……ありがとうございます」

「そうですか」

 また否定しない。
 肯定も強くしない。
 この人は、私が“嬉しい”と言えないことを知っているみたいに、ぴったりの位置で止まる。

 ユリウスが次に取り出したのは、小さな皿に載った角砂糖だった。
 白い、四角い、罪。

「甘味は、こちらに。二つだけ用意しました」

「……二つも?」

「はい」

 彼は当然の顔で言う。

「一つは“いつもの”です。もう一つは——」

 そこで、少しだけ間が空いた。
 その間が、私の心臓を追い詰める。

「“本当は欲しい”方です」

「っ……!」

 私はカップを落としそうになった。
 ぎりぎりで持ちこたえたのは、令嬢の意地と、教育と、あと恐怖。

「そ、そんなものはありませんわ」

「そうですか」

 否定しない。
 否定しないが、目が優しい。
 優しい目は、私にとって凶器だ。

 私は頬が熱くなるのを必死で抑えながら、あえて冷静を装った。

「二つも角砂糖を用意するなど、過剰です」

「過剰ではありません」

 また即答。
 この人、私の“攻め”を許さない。

「お嬢様は、いつもご自分の欲を後回しにされます。ですから——選択肢を増やします」

「……選択肢?」

「はい。言えるように」

 言えるように。
 そんなの、無理だ。
 私は“欲しい”って言葉を口にする前に、顔が死ぬ。

 ユリウスは角砂糖を二つ並べ、淡々と言った。

「どちらかを、どうぞ」

 私は目を伏せた。
 角砂糖を選ぶだけだ。紅茶に入れるだけだ。
 なのに、これが恋の試験みたいに思えてしまう。

 ——“本当は欲しい”方って何。
 私の本当はって何。
 私は、何が欲しい?

 ……ユリウスの、あの小声?
 もっと褒めてほしい?
 もっと近くにいてほしい?
 もっと——

 いやだ。考えるな私。
 この人の前で欲望を考えるな。事故る。

 私は、いちばん無難な方を取ろうとした。
 “いつもの”と彼が言った方。安全な方。
 なのに。

 白手袋が、ふわりと私の手首の上に重なった。

「お嬢様」

「……な、何ですの」

「今、逃げました」

 小声。
 私だけに届く小声。
 ——やめて。

「逃げていません」

「逃げています」

 断言。
 清楚な断言。
 これがいちばん強い。

 ユリウスは手首を掴んだりはしない。ただ、重ねた指先の圧だけで、私の動きを止める。
 礼儀正しいのに、逃げ道だけ塞ぐ。怖い。

「……では、なぜ“いつもの”に手が伸びたのですか」

「それが、普通だからです」

「普通、ですか」

 彼は、少しだけ笑った気がした。
 清楚な口元で。目だけで。

「お嬢様の“普通”は、いつも我慢が含まれます」

「っ……」

 私は何も言えなくなった。
 図星を刺されると、声が出ない。しかも刺してきたのが、この人だから余計に。

 ユリウスは静かに手を離し、角砂糖を二つとも私の目の前に寄せた。

「今日は、練習をしましょう」

「……練習?」

「はい。“欲しい”を選ぶ練習です」

 そんなの、恋の練習じゃないか。
 ——恋の練習を、執事長とする?
 おかしい。おかしいのに、胸がぎゅっとなる。嬉しいのに怖い。

 私は唇を噛み、震える指で、もう一つの角砂糖に触れた。
 “本当は欲しい”方。

 ユリウスの目が、柔らかく細まる。

「偉いです」

 また小声。
 また私だけ。

 私は、紅茶に角砂糖を落とした。
 砂糖が沈む音がした。
 その音が、私の理性の沈む音に聞こえた。

「……甘い」

「はい」

「……甘すぎますわ」

「そうですか」

 否定しない。
 でも今度は、少しだけ楽しそう。

「では、次は——甘さを調整しましょう」

「調整?」

 ユリウスはワゴンの下段から、別の小さな瓶を出した。
 蜂蜜。
 しかも、香りの良い、淡い花の蜂蜜。

 私は思わず声を上げた。

「なっ……なぜ蜂蜜がここに!」

「お嬢様が、昨日の夜——」

 そこで、彼は一瞬だけ止めた。
 止めるな。止めるな。止めるな。
 止められると、私の想像が勝手に飛ぶ。

「……甘い香りを欲しがっていらっしゃったので」

「っ!」

 私は息を止めた。
 昨日の夜?
 私は何をした?
 私は、膝掛けを抱きしめて、蜂蜜の香りのハンドクリームを塗って、ひとりで落ち着こうとして——

 ——落ち着かなかった。

 そして、確かに小さく言った。
 「甘い匂いがすると、安心する」って。

 ……聞かれていた。
 この屋敷、怖い。
 というか、執事長が怖い。

「それは、独り言です」

「はい。独り言でした」

 彼は素直に認めた。
 認めたのに、引かない。

「ですが、お嬢様の独り言は、重要です。お嬢様ご自身が、欲しいものを口にする瞬間ですから」

「私は、欲しいとは言っていません」

「そうですね。“欲しい”とは」

 ユリウスは、蜂蜜の瓶を開けずに置いた。
 あくまで“選択肢”。
 押し付けない。だが、存在させる。

「けれど、“安心する”とおっしゃいました」

 私は、顔が燃えるのを感じた。
 私の乙女の心臓が、蜂蜜みたいにとろとろに溶けていく。

「……執事長、」

「はい」

「あなたは……」

 なんで、そんなに。
 私のことを、当てるの。

 私が言葉を続けられないのを察したのか、ユリウスはゆっくりとワゴンを整えながら言った。

「私は、お嬢様の味方です」

 それは、執事として当然の言葉。
 なのに、私だけには違う意味に聞こえる。
 “味方”って、そんな言い方、ずるい。

「それと」

 彼は視線を上げ、私と目を合わせた。
 清楚な目。穏やかな目。逃げ道のない目。

「——お嬢様の欲しいものを、欲しいと扱うのが、私の役目です」

「……役目です、って」

「はい」

 ユリウスは、いつもの完璧な微笑みで言った。

「お嬢様は、欲しいものを欲しいと言っていい」

 私の胸の奥が、きゅっとなった。
 嬉しい。怖い。恥ずかしい。
 全部いっぺんに来る。

 私は、震える指でカップを持ち上げ、紅茶を飲んだ。
 甘くなった紅茶が喉を通る。
 安心する。確かに、安心する。

 悔しい。

「……執事長」

「はい」

 私は、言うべきじゃないことを言いそうになって、慌てて言い換えた。

「今日の来客対応、準備は整っていますか」

 話題を逸らす。令嬢の技。
 逃げる。生存本能。

「はい。整っております」

 ユリウスは淡々と答え、最後に一つ、さらりと付け足した。

「お嬢様の膝掛けも、来客用のものを用意しました」

「……膝掛け?」

「寒い時に、我慢されませんように」

 私は、思わず視線を逸らした。
 ——我慢。
 またその言葉。
 この人は私の“我慢”を、見逃してくれない。

 ユリウスは一礼して、扉へ向かった。
 そして、また振り返らずに、小声で言った。

「今朝は、よく選べました」

 ……褒められた。

 私は、ひとりになった部屋で、膝掛けをぎゅっと握った。
 声に出せないのに、心臓だけがうるさい。

 欲しいと言えない。
 でも、欲しいと扱われるのは——ずるいほど嬉しい。

 私は、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。

「……選べたの、私じゃなくて……あなたのせいです」

 その瞬間、廊下の向こうで、足音がほんの少しだけ止まった気がした。

 ——たぶん。
 きっと。
 ……当てられている。
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