【月蝕の花嫁】 契約から愛へ、月に誓う幻想恋譚

星乃和花

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第八話 心の告白

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 月蝕が過ぎ、祭室の灯はゆっくりと高さを取り戻していた。
 泉の水面に漂っていた影は薄れ、白銀の輪郭が戻る。
 王子は剣を収めたまま膝をつき、肩で息をしていた。指先はまだ冷たく、喉に残る息は荒い。

 花嫁は印の外から一歩、また一歩と近づき、縁に両手を添えた。
 「殿下」
 呼びかける声はかすれていたが、逃げなかった。王子の肩の上下がわずかに落ち着くのを確かめ、花嫁は膝を折る。石の冷たさが衣を透って膝へ登る。恐れはある。だが、恐れに名前を与えないまま、ここに留まることを選ぶ。

 「来るなと言った」
 王子は顔を伏せたまま低く言う。
 「今は……近づけば、お前まで傷む」

 「わたくしは、殿下を恐れておりません」
 花嫁はゆっくりと言葉を置く。「今夜、殿下が何と戦っておられたかを見ました。それでも傍に在りたいと思ったのは——契約だから、ではありません」

 王子のまぶたがわずかに上がる。
 黒曜の瞳に、祭室の灯が小さく揺れた。
 沈黙が、呼吸の長さだけ続く。

 「愚かだ」
 王子の言い方はいつもと同じだった。けれど、その語尾は花嫁を遠ざけるためではなく、自らに向けられた刃の鈍い響きを帯びていた。
 「私は、愛を向ければ相手を奪ってしまうと……そう教えられてきた。今夜、それがどれほど近いものかも見た」
 王子は喉を詰まらせ、言葉を選ぶ。「だから、距離を置くことで、守れると思っていた」

 花嫁は首を横に振る。
 「守られました。印を越えないようにと、幾度も導かれました。……それでも、わたくしは遠くありませんでした」
 胸の内側に溜めてきた熱が、ようやく形を得る。「遠ざける言葉の奥で、殿下がわたくしを見ていたから」

 王子の視線が、花嫁の手元へ落ちる。
 手袋の糸目、薄い外套、肩のわずかな震え。見慣れたものが、今夜に限って別の意味を帯びる。
 「見て、いた……のか」
 それは確かめるというより、許しを請うような響きだった。

 花嫁は息を飲み、頷いた。
 「はい。だから、恐れたままでも、ここに立てました」
 言葉はやわらかかったが、折れていない。

 泉の気配が落ち着きを取り戻す。
 巫女たちは静かに引き、祭室に残ったのは三つの影——王子、花嫁、そして出入口に控える影の従者だけになった。鈴の音はもう鳴らない。代わりに、二人の呼吸が灯の高さを定める。

 王子は、ようやく顔を上げた。
 「……私は、間違えた」
 押し殺すような声。「契約を理由に、お前を遠ざけた。正しさに隠れて、恐れから逃げた」
 目を閉じ、短く息を吐く。「お前が印の外で立ったまま、背を向けなかった時、はじめて——逃げているのは私のほうだと知った」

 花嫁は、知らず微笑していた。
 涙が出ると分かっている時、人は笑うことしかできないのだと、今さら思い知る。
 「わたくしは、印を越えません。掟は守ります。けれど……」
 花嫁は胸に手を置く。「ここで、殿下の隣に在りたいのです」

 沈黙の面(おもて)が、静かに割れた。
 王子は花嫁の手を、ためらいがちに取る。
 氷のようだった指先は、今はまだ冷たい。けれど、握り直すほどに、体温が細い道を通って伝わる。王子の喉が小さく鳴った。

 「——契約ではない」
 低く、明瞭に。
 「私は、お前を“花嫁”という役割ではなく、ひとりの……」
 言葉が喉で渋滞し、王子は息を吸う。
 「名で、呼びたい」

 花嫁の胸が大きく跳ねる。
 分かっていた。今夜、この場所で、その瞬間が来るのだと。
 けれど、準備していた心のどの場所にも、今の鼓動は収まりきらなかった。

 王子は花嫁の手を離さないまま、唇を震わせた。
 「……リュシエル」

 花嫁の視界が、光で満ちる。
 涙が溢れ、頬を伝い、冷えた指先へ落ちた。
 「今まで呼ばなかったのは、恐れていたからだ。近づけば、奪ってしまうと。けれど、もう隠せない。
  契約のためではない——お前を、愛している」

 胸の奥で、何度も名前を失いかけた感情に、はじめて形が与えられた。
 花嫁は涙の中で笑い、震える声を押し出す。
 「ノクティス」

 名を呼ぶと、王子の瞳が大きく揺れた。
 次の瞬間、王子は花嫁を抱き寄せた。抱擁は慎重で、そして強い。
 冷たかったはずの衣の温度が、重なり合う場所からゆっくりと温かさに変わっていく。
 「離れない」
 王子——ノクティスは、耳元で囁く。「夜が翳ろうと、もう離れない」

 花嫁——リュシエルは、腕を回し、顔を胸に預けた。
 「わたくしも。……恐れたままでも、ここにいます」

 泉は静かだった。
 月光は戻り、石の目地を白く縁取り、二人の影を寄り添わせる。
 名で呼び合うという、ただそれだけのことが、世界の輪郭をやり直していく。
 契約で繋がれていた線は、静かにほどけ、代わりに見えない綱が結び直された。

 ノクティスは抱擁を緩め、リュシエルの涙を指先で拭った。
 「……名を呼ぶたび、胸が痛むのは、どうしてだろう」
 不器用な問いに、リュシエルは笑う。
 「嬉しい時も、胸は痛みます」
 「そうか」
 短い言葉の奥に、長い孤独がほどける気配があった。

 祭室の扉のほうで、影の従者が静かに身を引いた。
 鈴は鳴らない。夜は、二人のために十分に静かだった。

 ノクティスはリュシエルの手を取り、指を絡める。
 「これから、掟が何を求めても——私は抗う。名を得たこの心で」
 リュシエルは頷き、あらためてその名を呼ぶ。
 「ノクティス」
 呼ぶたびに、胸の痛みは甘さに変わった。

 泉の水面に映る影は、もう触れそうで触れない距離ではない。
 月明かりの下、二人ははじめて、契約ではなく愛の名で結ばれた。
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