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第5話 副官セシル、ついに“団長語翻訳係”に任命される(任命したのは周囲で、本人は泣きそう)
その日の夕方。
屋敷の廊下の掲示板が、また増えていた。
【団長語 翻訳表(改)】
・「すぐ戻る」
→(訳)「心配するな。……待ってろ」
・「俺が行く」
→(訳)「危ない目に遭わせたくない」
・「……お前が危ない」
→(訳)「お前が心配で仕方ない」
セシルは、紙を見て、目を閉じた。
(誰が……誰が追記した……)
振り返れば、ブラムがいた。
悪びれず、清々しい顔で頷いている。
「副官、更新しておきました」
「私は更新係ではありません」
「翻訳係です」
「……それも、私は名乗っていません」
ブラムは真顔で言った。
「名乗る必要はありません。民意です」
「また民意ですか」
セシルの胃が、きゅっと縮む。
そのとき、廊下の先から足音が聞こえた。
重い靴音。規律の音。
ヴァルドが帰ってきたのだ。
セシルは反射的に背筋を伸ばす。
ブラムも騎士たちも、いっせいに敬礼する。
「団長!」
ヴァルドは無表情のまま、一歩、掲示板の前で止まった。
紙を見た。
目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……撤去しろと言ったはずだ」
「団長、撤去できません!」
ブラムが即答した。
「理由」
「士気が上がるからです!」
ヴァルドの眉間が、深くなる。
「士気で何でも正当化するな」
「士気は正義です!」
「違う」
セシルが、そっと一歩前へ出る。
「団長。現状、翻訳表によって騎士団内の意思疎通が――」
「余計な意思疎通は要らない」
「……では、意思疎通ではなく“誤解の削減”と言い換えます」
「……」
セシルは冷や汗をかきながら、続けた。
「団長の命令が“厳しいだけ”と誤解されることで、部下が萎縮する事例がありました。しかし現在、命令の意図が――」
ヴァルドが遮る。
「意図など、読め」
「読めない者が多いのです」
セシルは、事実を言った。
そしてその事実が、騎士団の全員を刺した。
全員が申し訳なさそうに目を逸らした。
ヴァルドの眉間が、さらに深くなる。
「……弱い」
「はい!」
ブラムが胸を張る。
「弱いので、翻訳が必要です!」
「誇るな」
「誇ってません!認めてます!」
ヴァルドは小さく息を吐き、廊下を進もうとした――そのとき。
台所の方から、フィオナの声が飛んできた。
「団長さん、おかえりなさーい!」
ぱたぱたと足音がして、フィオナが現れる。
エプロン姿。頬が少し赤い。湯気の匂いがする。
「ごはん、温かいの用意してあります!」
ヴァルドは、目を細めた。
「……勝手に」
「勝手じゃないです!婆やさんに許可を取りました!」
オルガ婆やが、後ろでにこにこしている。
屋敷の支配者は、どうやらフィオナ側に付いたらしい。
騎士たちが、妙にしみじみした声で呟く。
「団長、帰る場所があるって……いいですね」
「お前たちも帰る場所はある」
「でも団長のは……種類が違います」
「何の種類だ」
その問いに、誰も答えない。
答えたら死ぬと思っている。
フィオナが、掲示板に気づいて首を傾げた。
「……あれ?また増えてる」
「増えているな」
ヴァルドの声が、低くなる。
フィオナは紙を読み、ぱちぱちと瞬きした。
そして、ふわっと笑う。
「団長さん、やっぱり優しいですね」
「優しくない」
「優しいです」
「優しくない」
「優しいです!」
フィオナが、ちょっとだけ頬をふくらませた。
その瞬間。
廊下の空気が、なぜかぴんと張り詰めた。
騎士たちが、セシルを見る。
セシルは、嫌な予感を抱きながらも視線を返す。
――“今の団長語、翻訳して”という目だ。
(やめろ……今はやめろ……)
しかし、ブラムが動いた。
彼は一枚の紙を取り出し、勢いよく掲示板の横に貼った。
【団長語 翻訳係 任命状(案)】
任命:副官 セシル
任務:団長語の翻訳および、団長の機嫌を損なわない範囲での解説
備考:胃薬支給の検討を要する
セシルは、紙を見て固まった。
「……誰がこんな」
「民意です!」
ブラムがまた言った。
「やめろ!」
セシルが珍しく声を荒げた。
騎士たちがびくっとする。
ヴァルドが、静かに言った。
「……任命状?」
フィオナがきらきらした目で言う。
「わぁ!セシルさん、正式に翻訳係さんになるんですね!」
「正式ではありません!」
セシルが叫ぶ。
ヴァルドは、任命状をじっと見た。
そして、ふっと――ほんの少しだけ、目を細めた。
「……セシル」
「はい!」
セシルが反射で返事をする。
胃が痛い。未来が見える。悪い意味で。
ヴァルドは淡々と言った。
「お前は、俺の言葉が伝わっていないと判断するのか」
セシルは、一瞬言葉を失った。
“はい”と言えば、団長を否定する。
“いいえ”と言えば、現場が崩壊する。
セシルは、騎士団を背負う副官として――真顔で答えた。
「……団長の言葉は、正確です。ですが、短すぎます」
騎士たちが、しみじみ頷いた。
「短すぎる……」
「団長の愛は短文……」
「愛って言うな」
ヴァルドが低く言う。
フィオナが、すっと前に出た。
「団長さん。短くても、伝わってますよ」
ヴァルドがフィオナを見る。
「……伝わっているなら、翻訳は要らない」
フィオナは、にこっとする。
「私には伝わります。でも、みんなには……たぶん“怖い”って先に来ちゃう時があると思います」
騎士たちが、耳を塞ぎたくなるほどの罪悪感の顔をした。
フィオナは続ける。
「だから、セシルさんが“団長さんのやさしさ”を届ける係になったら、騎士団はもっと元気になります!」
「……やさしさ」
ヴァルドの声が、わずかに詰まった。
セシルが、こっそり心の中で祈る。
(団長、今です。ここで否定しないでください。お願いします)
ヴァルドは沈黙した。
沈黙は、長い。
そして――短く言った。
「……セシル」
「はい!」
「任せる」
セシルの背筋が凍った。
「え」
「必要な範囲で、補足しろ」
「……必要な範囲、とは」
ヴァルドは無表情で言った。
「誤解を招くな」
(誤解を招いているのは団長本人です)
セシルは、その心の声を飲み込んだ。副官だから。
騎士たちが、一斉に沸く。
「正式任命だ!」
「翻訳係、爆誕!」
「セシル副官、万歳!」
セシルは、笑顔で死んだ。
フィオナが拍手する。
「セシルさん、おめでとうございます!」
「……ありがとうございます(胃薬をください)」
セシルは小声で言った。
ヴァルドは、その騒ぎを見て、眉間を寄せたまま……ふと、フィオナへ視線を落とす。
フィオナは嬉しそうに笑っている。
その笑顔は、騒ぎの中心なのに、どこか静かだ。
――灯りみたいに、自然にそこにある。
ヴァルドは、低く言った。
「……お前は、外へ出るな」
フィオナが、ぱちぱちと瞬きする。
「えっ、でも、お砂糖がまた――」
「俺が買う」
騎士たちが、ざわっとする。
「団長、また買い物に」
「買い物班が必要では?」
「買い物も騎士団の任務に」
「余計な任務を増やすな」
ヴァルドは短く切り捨てた後、フィオナを見た。
「危ないから、ここにいろ」
フィオナは、ふわっと笑う。
「はい!」
セシルが、胸の奥で泣きながらメモを取る。
(団長語:危ないから、ここにいろ
訳:外に出すと心配で仕方ない。……ここにいてくれ)
フィオナが小さく首を傾げる。
「団長さん、私、そんなに危ないですか?」
ヴァルドは、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
「……お前は、善意が暴走する」
「えへへ」
「褒めていない」
「でも、団長さんが止めてくれるから安心です!」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重いはずなのに、温かい。
ヴァルドは、答えの代わりに短く言った。
「……飯を食え」
フィオナは、ぱっと笑う。
「はい!保護施設のごはん、どうぞ!」
「屋敷だ」
「屋敷型保護施設!」
いつものやり取りが、廊下に落ちていく。
騎士たちは、ニヤニヤを隠しきれない顔で散っていった。
そしてセシルだけが、任命状(案)を握りしめたまま、天井を見上げる。
「……私の休日は、どこへ」
オルガ婆やが、肩を叩く。
「副官様。胃薬なら、薬棚にございますよ」
「なぜ常備されているんですか」
「団長様の部下でいるなら、必要でしょう」
セシルは、泣き笑いの顔で頷いた。
(つづく)
屋敷の廊下の掲示板が、また増えていた。
【団長語 翻訳表(改)】
・「すぐ戻る」
→(訳)「心配するな。……待ってろ」
・「俺が行く」
→(訳)「危ない目に遭わせたくない」
・「……お前が危ない」
→(訳)「お前が心配で仕方ない」
セシルは、紙を見て、目を閉じた。
(誰が……誰が追記した……)
振り返れば、ブラムがいた。
悪びれず、清々しい顔で頷いている。
「副官、更新しておきました」
「私は更新係ではありません」
「翻訳係です」
「……それも、私は名乗っていません」
ブラムは真顔で言った。
「名乗る必要はありません。民意です」
「また民意ですか」
セシルの胃が、きゅっと縮む。
そのとき、廊下の先から足音が聞こえた。
重い靴音。規律の音。
ヴァルドが帰ってきたのだ。
セシルは反射的に背筋を伸ばす。
ブラムも騎士たちも、いっせいに敬礼する。
「団長!」
ヴァルドは無表情のまま、一歩、掲示板の前で止まった。
紙を見た。
目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……撤去しろと言ったはずだ」
「団長、撤去できません!」
ブラムが即答した。
「理由」
「士気が上がるからです!」
ヴァルドの眉間が、深くなる。
「士気で何でも正当化するな」
「士気は正義です!」
「違う」
セシルが、そっと一歩前へ出る。
「団長。現状、翻訳表によって騎士団内の意思疎通が――」
「余計な意思疎通は要らない」
「……では、意思疎通ではなく“誤解の削減”と言い換えます」
「……」
セシルは冷や汗をかきながら、続けた。
「団長の命令が“厳しいだけ”と誤解されることで、部下が萎縮する事例がありました。しかし現在、命令の意図が――」
ヴァルドが遮る。
「意図など、読め」
「読めない者が多いのです」
セシルは、事実を言った。
そしてその事実が、騎士団の全員を刺した。
全員が申し訳なさそうに目を逸らした。
ヴァルドの眉間が、さらに深くなる。
「……弱い」
「はい!」
ブラムが胸を張る。
「弱いので、翻訳が必要です!」
「誇るな」
「誇ってません!認めてます!」
ヴァルドは小さく息を吐き、廊下を進もうとした――そのとき。
台所の方から、フィオナの声が飛んできた。
「団長さん、おかえりなさーい!」
ぱたぱたと足音がして、フィオナが現れる。
エプロン姿。頬が少し赤い。湯気の匂いがする。
「ごはん、温かいの用意してあります!」
ヴァルドは、目を細めた。
「……勝手に」
「勝手じゃないです!婆やさんに許可を取りました!」
オルガ婆やが、後ろでにこにこしている。
屋敷の支配者は、どうやらフィオナ側に付いたらしい。
騎士たちが、妙にしみじみした声で呟く。
「団長、帰る場所があるって……いいですね」
「お前たちも帰る場所はある」
「でも団長のは……種類が違います」
「何の種類だ」
その問いに、誰も答えない。
答えたら死ぬと思っている。
フィオナが、掲示板に気づいて首を傾げた。
「……あれ?また増えてる」
「増えているな」
ヴァルドの声が、低くなる。
フィオナは紙を読み、ぱちぱちと瞬きした。
そして、ふわっと笑う。
「団長さん、やっぱり優しいですね」
「優しくない」
「優しいです」
「優しくない」
「優しいです!」
フィオナが、ちょっとだけ頬をふくらませた。
その瞬間。
廊下の空気が、なぜかぴんと張り詰めた。
騎士たちが、セシルを見る。
セシルは、嫌な予感を抱きながらも視線を返す。
――“今の団長語、翻訳して”という目だ。
(やめろ……今はやめろ……)
しかし、ブラムが動いた。
彼は一枚の紙を取り出し、勢いよく掲示板の横に貼った。
【団長語 翻訳係 任命状(案)】
任命:副官 セシル
任務:団長語の翻訳および、団長の機嫌を損なわない範囲での解説
備考:胃薬支給の検討を要する
セシルは、紙を見て固まった。
「……誰がこんな」
「民意です!」
ブラムがまた言った。
「やめろ!」
セシルが珍しく声を荒げた。
騎士たちがびくっとする。
ヴァルドが、静かに言った。
「……任命状?」
フィオナがきらきらした目で言う。
「わぁ!セシルさん、正式に翻訳係さんになるんですね!」
「正式ではありません!」
セシルが叫ぶ。
ヴァルドは、任命状をじっと見た。
そして、ふっと――ほんの少しだけ、目を細めた。
「……セシル」
「はい!」
セシルが反射で返事をする。
胃が痛い。未来が見える。悪い意味で。
ヴァルドは淡々と言った。
「お前は、俺の言葉が伝わっていないと判断するのか」
セシルは、一瞬言葉を失った。
“はい”と言えば、団長を否定する。
“いいえ”と言えば、現場が崩壊する。
セシルは、騎士団を背負う副官として――真顔で答えた。
「……団長の言葉は、正確です。ですが、短すぎます」
騎士たちが、しみじみ頷いた。
「短すぎる……」
「団長の愛は短文……」
「愛って言うな」
ヴァルドが低く言う。
フィオナが、すっと前に出た。
「団長さん。短くても、伝わってますよ」
ヴァルドがフィオナを見る。
「……伝わっているなら、翻訳は要らない」
フィオナは、にこっとする。
「私には伝わります。でも、みんなには……たぶん“怖い”って先に来ちゃう時があると思います」
騎士たちが、耳を塞ぎたくなるほどの罪悪感の顔をした。
フィオナは続ける。
「だから、セシルさんが“団長さんのやさしさ”を届ける係になったら、騎士団はもっと元気になります!」
「……やさしさ」
ヴァルドの声が、わずかに詰まった。
セシルが、こっそり心の中で祈る。
(団長、今です。ここで否定しないでください。お願いします)
ヴァルドは沈黙した。
沈黙は、長い。
そして――短く言った。
「……セシル」
「はい!」
「任せる」
セシルの背筋が凍った。
「え」
「必要な範囲で、補足しろ」
「……必要な範囲、とは」
ヴァルドは無表情で言った。
「誤解を招くな」
(誤解を招いているのは団長本人です)
セシルは、その心の声を飲み込んだ。副官だから。
騎士たちが、一斉に沸く。
「正式任命だ!」
「翻訳係、爆誕!」
「セシル副官、万歳!」
セシルは、笑顔で死んだ。
フィオナが拍手する。
「セシルさん、おめでとうございます!」
「……ありがとうございます(胃薬をください)」
セシルは小声で言った。
ヴァルドは、その騒ぎを見て、眉間を寄せたまま……ふと、フィオナへ視線を落とす。
フィオナは嬉しそうに笑っている。
その笑顔は、騒ぎの中心なのに、どこか静かだ。
――灯りみたいに、自然にそこにある。
ヴァルドは、低く言った。
「……お前は、外へ出るな」
フィオナが、ぱちぱちと瞬きする。
「えっ、でも、お砂糖がまた――」
「俺が買う」
騎士たちが、ざわっとする。
「団長、また買い物に」
「買い物班が必要では?」
「買い物も騎士団の任務に」
「余計な任務を増やすな」
ヴァルドは短く切り捨てた後、フィオナを見た。
「危ないから、ここにいろ」
フィオナは、ふわっと笑う。
「はい!」
セシルが、胸の奥で泣きながらメモを取る。
(団長語:危ないから、ここにいろ
訳:外に出すと心配で仕方ない。……ここにいてくれ)
フィオナが小さく首を傾げる。
「団長さん、私、そんなに危ないですか?」
ヴァルドは、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
「……お前は、善意が暴走する」
「えへへ」
「褒めていない」
「でも、団長さんが止めてくれるから安心です!」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重いはずなのに、温かい。
ヴァルドは、答えの代わりに短く言った。
「……飯を食え」
フィオナは、ぱっと笑う。
「はい!保護施設のごはん、どうぞ!」
「屋敷だ」
「屋敷型保護施設!」
いつものやり取りが、廊下に落ちていく。
騎士たちは、ニヤニヤを隠しきれない顔で散っていった。
そしてセシルだけが、任命状(案)を握りしめたまま、天井を見上げる。
「……私の休日は、どこへ」
オルガ婆やが、肩を叩く。
「副官様。胃薬なら、薬棚にございますよ」
「なぜ常備されているんですか」
「団長様の部下でいるなら、必要でしょう」
セシルは、泣き笑いの顔で頷いた。
(つづく)
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