拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花

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甘々回(リナ視点)

後日談②「“よしよし”の意味が変わる夜」

夜は、静かだった。

市場の喧騒も、噂も、拍手も、祝福の大声も。
ぜんぶ扉の外に置いてきたみたいに。

部屋には、湯気と、花の匂いだけが残っている。

わたしは鍋を火にかけて、スープを温め直していた。
本当は、もう寝てもいい時間なのに――

眠る前に確認したいことがあった。

確認したい、というか。

逃げたくないのに、逃げたくなる感じ。

胸の真ん中がむずむずする。

その原因は、今、わたしの部屋にいる。

「……リナ」

背後から名前を呼ばれるだけで、肩が小さく跳ねる。

“当主様”の声じゃない。
市場で椅子に座って「えらい」って言う声でもない。

今の声は、家の中の声だ。

わたしだけの距離で届く声。

「……なにか飲みます?」
「……君が飲むなら」

それ、ずるい。

わたしが「飲む」って言ったら、「一緒」が確定する。
わたしが「飲まない」って言ったら、「遠い」が確定する。

どっちに転んでも、わたしの心臓が困る。

「……じゃあ、ハーブティーにします」
「……うん」

背後で、椅子が軋む音がした。
彼はいつも通り、静かに座って、わたしを見ているのだろう。

見られているのに、落ち着く。

それが、いちばん怖い。

・・・

カップを二つ並べる。

お湯を注ぐ。

香りが立つ。

“普通の夜”。

そう言い聞かせて、深呼吸する。

でも、今日は普通じゃない。

昼間――市場で、彼は言った。

「婚約を前提にする」

前提。

わたしの人生に、そんな言葉が出てくると思っていなかった。

しかも相手が、拾った年上侯爵。
甘え上手で、よしよしが必要で、わたしを見上げて「お願い」と言う人。

……なのに。

王都を支える人。

わたしの手で、あの人の表情が変わってしまうのが、現実。

カップを持って振り返ると、彼はソファの端に座っていた。

背筋は伸びている。
なのに、手だけが膝の上で少しだけ落ち着かない。

その仕草が、いつもより“人”だった。

「……今日、疲れました?」
わたしがそう聞くと、彼は少し考えてから言った。

「……疲れてない」
「じゃあ、緊張しました?」
「……した」

素直。

それがまた、ずるい。

「当主様でも緊張するんですね」
「……君の前だけ」

さらっと言わないで。

胸があたたかくなって、苦しくなる。

わたしはカップをテーブルに置いて、彼の向かいに座った。

近い。

近いけど、今夜は逃げないって決めた。

逃げたら、たぶん“よしよし”の意味が一生変わらない。

変わらないまま、わたしはこの人に捕まってしまう。

……もう捕まってるのに。

「……エドさん」
「……うん」

呼んだだけで、返事が優しい。

それだけで泣きそうになる。

「今日……市場で、すごく、たくさん言われました」
「……うん」
「奥さんって」
「……うん」
「やめてって言っても、止まらなくて」
「……止まらない」

エドさんが、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せた。

その顔を見ると、わたしの中の“守りたい”が勝手に立ち上がる。

(ずるい……。こういう顔、ずるい……)

わたしは視線を逸らして、指先を握った。

「……でも、嫌じゃなかったです」
「……うん」

エドさんが、目を細めた。
嬉しいのを隠す気がない顔。

「……嬉しい?」
「……嬉しい」

わたしは耐えきれず、ため息を吐いた。

「……ずるいです」
「……うん」
「認めるんですか」
「……君にだけ」

“君にだけ”が、胸に落ちる。

重い。

でも、あたたかい。

「……指輪」
わたしが胸元に手を当てると、エドさんの視線がそこに吸い寄せられた。

「……持ってる?」
「持ってます」
「……安心した」
「持ってるだけですよ」
「……うん。持ってるだけ」

その言い方は、ちゃんとわたしの言葉を守っている。

いつもは“今日だけ”が信用できないのに、
今夜の「うん」だけは、なぜか信じられる気がした。

わたしは小さく笑ってしまった。

「……不思議」
「……なにが?」
「エドさんの“うん”って、ずるいです」
「……うん」

また“うん”。

ずるい。

・・・

しばらく、沈黙が落ちた。

沈黙は怖いはずなのに、この人といると怖くない。

むしろ、言葉がある方が怖い。

言葉があると、心臓が追いつかないから。

わたしは、カップに口をつけて、少しだけ喉を潤した。

その間ずっと、彼の視線がある。

でも見られているというより――
“ここにいる”の確認みたいで、あたたかい。

「……リナ」
「はい」
「……よしよし、して」

来た。

いつものお願い。

でも今日は、いつもと違う。

わたしは逃げずに、聞き返した。

「……よしよしって、なんですか」
「……撫でる」
「それだけ?」
「……それだけじゃない」

エドさんが、少しだけ言葉に迷った。

迷っている顔を見るのは、初めてかもしれない。

「……君が、僕をここに置いてくれること」
「……ここ?」
「……君の隣」

隣。

その言葉が、耳の奥で溶けた。

わたしはそっと立ち上がって、彼の横に座った。

向かいじゃなくて、隣。

背筋を伸ばしながらも、心臓が騒がしい。

「……はい」
そう言って、わたしはそっと手を伸ばす。

彼の髪に触れる。

いつも通りのはずなのに、
指先が触れた瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。

……あ。

この感覚。

看病じゃない。

“かわいそう”でも“放っておけない”でもない。

わたしは、撫でながら気づいてしまう。

(……好きになってる)

よしよしが、好きの形になってる。

なで。

なで。

エドさんは目を閉じて、深く息を吐いた。

「……安心」
「……うん」
「……君の手、好き」

その言葉に、わたしの手が止まりそうになる。

止めたら、この夜が終わる気がして――
わたしは、ゆっくり続けた。

「……手だけじゃないです」
「……?」
「……エドさんが、安心してる顔」

言ってしまった。

恥ずかしくて死にそう。

でもエドさんは、目を開けてわたしを見た。

まっすぐ。

近い距離で。

「……それ、僕のこと好きってこと?」
「……っ」

言葉にされるとだめだ。

わたしの心臓が、音を立ててしまう。

「……分かりません」
「……分かるまで待つ」
「……待つんですね」
「……待てる」

その声が、静かで。

強くないのに、確かに強くて。

わたしは、胸がいっぱいになってしまった。

「……じゃあ」
わたしは声を落として言う。

「待ってる間……よしよし、します」
「……うん」

彼の表情が、ふわっとほどけた。

わたしが知っている、いちばん安心した顔。

でも今日は、そこに別のものが混ざっている。

“嬉しい”と、“好き”が。

・・・

よしよしを続けるうちに、エドさんが小さくわたしの袖をつまんだ。

いつもの癖。

でも今日は、逃げない。

「……逃げない?」
「逃げません」
「……じゃあ、捕まえる」
「捕まえないでください」
「……捕まえたい」

わたしは笑ってしまった。

「……エドさん、ほんとに子どもみたい」
「……君の前だけ」
「またそれ」
「……うん」

ずるい“うん”。

わたしは彼の髪を梳きながら、そっと言った。

「……ねえ、エドさん」
「……うん」
「私、怖いです」
「……なにが?」
「このまま、当たり前みたいに……隣にいるのが」

当たり前になるのが怖い。

当たり前になったら、きっと離れられなくなる。

エドさんは、わたしの手をそっと取って、手の甲に触れた。

触れるだけ。

でも、それだけで十分だった。

「……当たり前にしたい」
「……」
「……君が嫌なら、しない」
「……ずるいです」
「……うん」

認めるな。

でも、わたしは小さく息を吐いて、負けた。

「……嫌じゃないです」
「……うん」

その瞬間、エドさんの目が少しだけ潤んだ。

泣くほどじゃない。
でも、こぼれそうな光。

わたしは急に胸がきゅっとして、つい言ってしまった。

「……大丈夫ですか」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない顔です」
「……嬉しいだけ」

その言葉が、わたしの胸をほどいた。

わたしはもう一度、彼の髪に触れる。

「……よしよし」
「……うん」

そして、気づく。

今夜の“よしよし”は、
看病でも、回復でも、国家でもない。

ただの――

わたしの好きの形だ。

・・・

眠る前。

エドさんが玄関へ向かう……と思ったのに、足を止めた。

「……今日は、帰らない?」
わたしが聞くと、彼は少しだけ躊躇ってから言った。

「……帰ってほしい?」
「……帰って、ほしくないです」

言った。

言ってしまった。

恥ずかしい。

でもエドさんは、ゆっくり笑った。

「……じゃあ、ここにいる」

そう言って、毛布を手に取る。

いつもの、わたしの部屋の毛布。

それを抱えた彼は、当主じゃなくなる。

ただの、甘え上手な年上の人になる。

そして、わたしの隣に座って、そっと言った。

「……今日のよしよし、ありがとう」
「……こちらこそ」

エドさんは小さく首を傾げる。

「……僕、君のこと大事にする」
「……国のために?」
「……君のために」

その言葉が、胸に落ちた。

わたしは毛布越しに、彼の肩に触れた。

「……じゃあ、私も」
「……うん」
「エドさんを大事にします」

言った瞬間、彼の息が止まった。

そして、困ったみたいに笑った。

「……それ、反則」
「反則ですか?」
「……嬉しすぎる」

わたしはふふっと笑って、最後に一回だけ。

「……よしよし」
「……うん」

彼の目が閉じる。

安心してる顔。

わたしが好きな顔。

その顔を見ながら、わたしは思った。

(……よしよしの意味、変わっちゃった)

もう戻れない。

でも、戻りたくない。

わたしの心が、そう言っている。



ーーーーー
つづく(そして、もっと甘くなる)
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