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第2話 ──「第三条は、呪いの“ほご句”」
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閉店時間を知らせる小さな札を、表から「CLOSE」にひっくり返すと、
店の中の空気が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
「じゃ、ここからは“ゆる解呪部”の新人研修タイムね」
店主がぱん、と軽く手を叩く。
カウンターの上には、“ゆる解呪マニュアル(仮)”と書かれた白い冊子。
その横で、わたしのマグカップが、なぜか誇らしげに鎮座していた。
「なんで、うちのマグカップが見守り役みたいになってるんですか」
「初案件だからね。先輩面したいんだよ」
「まだ一回しか来てないのに、先輩を名乗らないでほしいです」
冗談めかして言いながらも、
カップを見下ろすと、側面の文字が目に入る。
『どうせ私、またやらかします(けど、とりあえず今日も生きて帰る)』
括弧の部分を見るたびに、
胸の奥が、じん、と温かくなる。
(……この“かっこ”があるだけで、少しマシに思えるの、不思議だな)
店主は冊子を開きながら、わたしに視線を向けた。
「で。第三条」
「いきなり来ましたね」
「さっき言ったとおり、“現場からの声”を採用したいわけです。
自己否定仕分け係、初日の意見を、ここに」
紙とペンを差し出される。
白いページの一番上には、
すでにきれいな字で書かれた二行。
第一条 今日を終えることは、大事件である。
第二条 その大事件は、できれば何回も起こしてほしい。
このふざけているようで、でもちょっと刺さる二行に続く、第三条。
(なにを書けばいいんだろう)
ペン先を浮かせたまま、しばらく固まる。
すると、背後の棚から、聞き慣れたため息が聞こえた。
「だいたい、こういうとき、いい言葉なんて出てこないのよねえ……」
視線を向けると、欠けた取っ手の花瓶が、
相変わらず自虐モードで首(らしき部分)を傾けていた。
「出てこないからこそ、考えるんだよ。ね、新人さん?」
店主が、わたしに小さく微笑む。
「完璧な言葉じゃなくていい。
“今の自分が、少しだけラクになる逃げ道”みたいな条文で」
「逃げ道……」
その言い方が、少しだけ気持ちを軽くした。
呪いを一気に解く魔法の呪文じゃなくていい。
ただ、縛られすぎないようにするための、緩んだ結び目みたいなもの。
(逃げ道、逃げ道……)
頭の中で、日常的に口にしている自己否定のフレーズを、いくつか並べてみる。
どうせ。
わたしなんて。
またやっちゃった。
ほんとダメだなあ。
(……これ、ぜんぶ“言い切ってる”んだ)
「どうせそう」「わたしはこう」と、
逃げ場なく決めつけている。
そこで、ふと浮かんだ。
「……“と、今は思っている”って、付け足すのはどうでしょう」
自分で言いながら、少しだけ恥ずかしくなる。
店主が目を瞬いた。
「ほう」
「『わたしなんて』って言い切るんじゃなくて、
『わたしなんて……と、今は思っている』にするんです」
言葉を探り探り、続ける。
「そうしたら、“永久にそう”って決めつけるんじゃなくて、
あくまで“いま、この瞬間の気分”ってことになるかなと思って」
自分の声が、思ったよりも真面目で、
ちょっと笑えてしまう。
店主は、そんなわたしをじっと見てから、
ゆっくりとうなずいた。
「いいね、それ」
「いいんですか、こんな感じで」
「うん。“呪いのほご句”だ」
「ほご句?」
「保護するほうの“保護”ね。
言い切りの自己否定文に、その一文を挟むことで、
呪いの効力を少し弱める」
店主はペンを取り上げ、
マニュアルのページにさらさらと書き込む。
第三条 「わたしなんて」と思ったときは、
心の中で「……と、今は思っている」を付け足してよい。
“よい”というゆるい断定が、なんだかこの店らしい。
「禁止じゃなくて、“付け足していい”なんですね」
「うん。禁止すると、余計に自己否定したくなるからね。
とりあえず付け足しを許可するところから」
「……たしかに、禁止されると、逆に言いたくなりそうです」
思わず苦笑する。
棚の上の花瓶が、「ちょっと試してみようかしら」とつぶやいた。
「『どうせわたしなんて、欠けてる花瓶だわ』……と、今は思っている」
最後の部分だけ、少し照れくさそうな声になっている。
店主が、ぱちぱちと拍手をした。
「はい、いいですね。“今は”ってことは、
いつか“そうじゃない自分”もありうるってことだから」
「……なんだか、くすぐったいわね」
花瓶は小さく揺れて、
その表面のヒビが、ほんの少しだけやわらかく見えた気がした。
(気のせい、かな)
魔法らしい魔法は、何も起きていない。
光ったり、音が鳴ったりするわけでもない。
ただ、言葉ひとつで、空気の密度が変わったような。
そんな、さざ波みたいな変化。
店主が、こちらを振り返る。
「じゃ、新人さん。第三条も決まったところで、初実務」
「実務……」
その響きに、会社のエクセル画面が一瞬よぎる。
反射的に胃がきゅっとした。
店主は、「そんな顔しない」と笑いながら、
奥の棚から、小さな木箱を抱えてきた。
「まずは、“軽めコーナー”担当からね」
「軽めコーナー?」
「うん。“軽め自己否定ゾーン”。入口から二列目の棚まで」
言われて見れば、店の中央あたりの棚に、
小さな紙札がぶら下がっている。
そこには、ボールペンでゆるい字が並んでいた。
『本日の入荷品:
・つい謝りすぎるハンカチ
・何度も消されては書かれるメモ帳
・「どうせ似合わない」と言われた髪飾り など』
「ゆるいポップですね……」
「うちはそういう店だから」
木箱の中には、いろいろな雑貨がぎゅっと詰まっていた。
水玉模様のハンカチ。
ちょっとヨレた付箋の束。
色あせたキーホルダー。
近づいただけで、かすかに声が聞こえてくる。
「また汚されちゃった、ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうせ忘れられるメモだし」
「似合わないって言われたけど、やっぱりそうよねえ」
ざわざわと、弱音と自虐の合唱だ。
正直、少しめまいがした。
店主は、そんなわたしの様子を見て、
首をかしげる。
「大丈夫?」
「……なんだか、“自分の頭の中”を外から聞かされているみたいで」
「うん。最初はみんな、そう言う」
店主はあっさりと頷いた。
「ここに来る雑貨たちの声は、だいたい持ち主の脳内再生そのまんまだからね。
“いつも聞いてるもの”を、改めて外から聞かされると、ちょっとしんどい」
「ちょっと、どころじゃない気がします」
けれど、その“しんどさ”の正体を知るには、
もしかしたら、ここにいるのが一番いいのかもしれない。
店主は木箱から、一枚のハンカチを取り出した。
パステルブルー地に、白い小さな鳥の刺繍。
可愛いのに、どこかしょんぼりして見える。
「これ、“つい謝りすぎるハンカチさん”。今日の研修案件」
「ハンカチさん……」
名前(?)の付け方もゆるい。
ハンカチは、店主の手の中で小さく震えた。
「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……」
「まだ何もしてませんけど」
思わずツッコんでしまうと、
布地がぴくっと動いた。
「だって、どうせわたし、すぐ汚されるし……。
鼻水とか、涙とか、汗とか拭かれて……汚いわよね、ごめんなさい」
自分で自分を“汚い”と決めつけて、
勝手に謝り続けている。
なんだか、見ていてつらくなるタイプだ。
「こういうのは、“軽め”なんですか?」
つい問いかけると、店主は肩をすくめた。
「表面上はね。
“ごめんなさい”“汚くてごめんなさい”は、一見ライトな自己否定ワードに見える」
「一見……?」
「本当に重いやつは、“存在そのものの否定”になってくる。
“生きててごめんなさい”とか、“いないほうがいい”とか」
言葉の温度が、一瞬だけ下がった。
ハンカチさんがびくっと震える。
「わ、わたし、そこまでは言ってない……はず」
「うん。だから、君は“軽めゾーン”。
ただ、“軽いふりした重さ”が混ざりやすいタイプではある」
店主はやさしく布地を撫でながら言う。
「“汚いからごめん”って、自分で自分に言い続けてると、
いつの間にか“汚いわたしは、ここにいちゃいけない”に変わっていくから」
「…………」
その言葉が、ぐさりと刺さる。
「どうせ」や「わたしなんて」を、
笑いに紛らせて使ってきた自分。
(もしかして、わたしも、似たようなことしてる……?)
店主が、わたしにハンカチを差し出した。
「新人さん。第三条、試してみる?」
「第三条……」
さっき決めたばかりの、“呪いのほご句”。
わたしは、おそるおそるハンカチを受け取り、
そっと包み込むように両手で握った。
「えっと……」
声の出し方がわからず、
とりあえず、話しかけてみる。
「あなたは、今、“汚くてごめんなさい”って思ってる?」
「思ってる……。だって、汚されるためにここにいるみたいなものだもの」
「……そう思ってる、今はね」
自分でも意外なくらい、すんなり言葉が出た。
「でも、それって、“汚くなる”ってことは、
誰かの涙とか鼻水とか汗を受け止めてるってことですよね。
それって、けっこう……勇気のいる仕事だと思うんです」
会社の雑巾係や、汚れ仕事を引き受けてくれる人たちの顔が浮かぶ。
自分はいつも「すみません」と言いながら任せてしまうのに、
その人たちを“汚い”とは思ったことがない。
「だから、“汚くてごめんなさい”の前に、
“受け止めてえらいけど”って付け足しませんか」
「う、受け止めてえらい……?」
ハンカチさんの声が、そわそわと揺れる。
「第三条、活用するとしたら、こんな感じです」
自分に言い聞かせるように、
ゆっくりと言葉を区切る。
「『汚くてごめんなさい。……と、今は思っている。
でも、それくらい受け止めたわたし、ちょっとえらい』」
最後の“ちょっとえらい”は、小さな声になった。
言いながら、頬が熱くなる。
自分に言っているようで、くすぐったい。
店主が、横でこっそりとにやりとした。
「いいね、それ。
ほご句に、さりげなく“ほめ句”を混ぜるの、ポイント高い」
「ほめ句……」
どこまで冗談で、どこから本気なのか、相変わらず読めない。
でも、ほんの少しだけ、ハンカチの布地が柔らかくなった気がした。
「……変な感じ」
ハンカチさんが、小さな声でつぶやく。
「“汚くてごめんなさい”って言いながら、
“でも、ちょっとえらいかも”って思うなんて。
そんな贅沢、許されるのかしら」
「許されます。マニュアル第三条で許可しました」
きっぱりと言うと、
店主が「はい、ここテストに出ます」と真顔で頷いた。
「……ぷっ」
笑いをこらえきれず、吹き出してしまう。
その笑いに連動するみたいに、
ハンカチの刺繍の小鳥が、ちょっとだけ胸を張ったように見えた。
(気のせい、だよね。たぶん)
それでもいい。
言葉ひとつで、ほんの少しでも空気が変わるなら、
その「気のせい」を、何度でも積み重ねていけばいい。
店主が、満足そうに腕を組んだ。
「よし。新人さんの初案件、“軽め自己否定一枚分”、
ゆるっと解呪完了ってことで」
「そんなカウントの仕方なんですか」
「うん。今日はこのくらいにしておこう」
「え、もう仕事終わりですか?」
「最初から飛ばしすぎると、解呪する側がバテるからね。
君、今けっこうエネルギー使ってるよ」
言われて改めて、自分の胸に手を当てると、
どっと疲れが押し寄せてくるのがわかった。
「……たしかに、ちょっとぐったりしてます」
「でしょ。自己否定って、聞くだけでも体力食うから。
今日は“第三条を決めた記念日”ってことで、これくらいがちょうどいい」
店主は、ハンカチを丁寧に畳んで、
木箱の一番上に戻した。
「この子には、次に持ち主さんが来たとき、
新しいラベルを提案してみるよ」
「新しいラベル……?」
「“なんでも受け止める、タフなハンカチ”とかね」
「それ、かなり印象変わりますね」
「ラベルってそんなもんだよ」
店主の言葉に、
自分の胸の内に貼ってきたラベルたちが、
一枚一枚、頭の中に浮かんでくる。
ドジ。
要領が悪い。
空気を読むのが下手。
役に立たない。
(……“と、今は思っている”)
小さく、第三条を心の中で付け足してみる。
すると、そのラベルたちは、
さっきよりも粘着力が弱まったように感じられた。
「……なんか、ずるいですね」
「なにが?」
「第三条、考えた本人がいちばん救われてる気がします」
「それが一番いい使い方だよ」
店主は、ふっと笑って、
マニュアルのページをトントンと指で叩いた。
「ここは、“自分の呪いを他人の呪いで相殺する場所”じゃなくて、
“みんなで少しずつ薄め合う場所”だから」
「薄め合う……」
それは、ひどく優しい響きだった。
重いものをひとりで抱えるんじゃなくて、
少しずつ分け合って、薄めて、飲み込みやすくする。
そんなイメージが、頭の中にふわりと浮かぶ。
――そのとき。
店の奥、いちばん暗い棚のほうから、
かすかな気配が流れてきた。
ぞわ、と、空気が肌を撫でる。
「……店長」
さっきまで黙っていた花瓶が、
低い声で店主を呼んだ。
「奥のほう、ちょっとざわついてるわよ」
店主の表情が、一瞬だけ引き締まる。
彼は、ちらりと私を見てから、
冗談めかして言った。
「今日は、あっちは見に行かない。新人さんには刺激が強いから」
「あっち……?」
視線だけ、奥の棚のほうへ向ける。
さっきまで気づかなかったけれど、
そこには、黒っぽいコートや、色の抜けた傘、
古びた箱などが、ぎゅっと身を寄せ合って並んでいた。
遠くからでも、微妙な重さが伝わってくる。
「……あの棚は、“重たいゾーン”」
店主は、穏やかな声で説明した。
「『生きててごめんなさい』とか、『いなくなりたい』とか、
そういう言葉が染み込んだ子たちの場所。
あそこを扱うのは、僕の仕事」
「わたしは……?」
「君は、しばらく“軽めゾーン”担当。
第三条の練習には、こっちで十分」
そう言って、店主はにっこり笑った。
その笑顔に、
「全部を見ようとしなくていい」と言われているような気がした。
ほっとすると同時に、
奥の棚から漂う重たい気配が、
どこか他人事ではいられない自分にも気づく。
(いつか、あっちにも、目を向けることになるのかな)
怖いような。
でも、少しだけ、知りたいような。
そんな揺れを抱えたまま、
わたしは、マグカップをカウンターからそっと引き寄せた。
『どうせ私、またやらかします(けど、とりあえず今日も生きて帰る)』
その括弧の中に、
小さく一文を足してみる。
(……と、今は思っている)
――それだけで、世界の輪郭が、
ほんの少しだけ柔らかくなる。
ちいさな呪われ雑貨店での今日は、
こうして、“第三条”に印をつけながら静かに終わっていった。
店の中の空気が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
「じゃ、ここからは“ゆる解呪部”の新人研修タイムね」
店主がぱん、と軽く手を叩く。
カウンターの上には、“ゆる解呪マニュアル(仮)”と書かれた白い冊子。
その横で、わたしのマグカップが、なぜか誇らしげに鎮座していた。
「なんで、うちのマグカップが見守り役みたいになってるんですか」
「初案件だからね。先輩面したいんだよ」
「まだ一回しか来てないのに、先輩を名乗らないでほしいです」
冗談めかして言いながらも、
カップを見下ろすと、側面の文字が目に入る。
『どうせ私、またやらかします(けど、とりあえず今日も生きて帰る)』
括弧の部分を見るたびに、
胸の奥が、じん、と温かくなる。
(……この“かっこ”があるだけで、少しマシに思えるの、不思議だな)
店主は冊子を開きながら、わたしに視線を向けた。
「で。第三条」
「いきなり来ましたね」
「さっき言ったとおり、“現場からの声”を採用したいわけです。
自己否定仕分け係、初日の意見を、ここに」
紙とペンを差し出される。
白いページの一番上には、
すでにきれいな字で書かれた二行。
第一条 今日を終えることは、大事件である。
第二条 その大事件は、できれば何回も起こしてほしい。
このふざけているようで、でもちょっと刺さる二行に続く、第三条。
(なにを書けばいいんだろう)
ペン先を浮かせたまま、しばらく固まる。
すると、背後の棚から、聞き慣れたため息が聞こえた。
「だいたい、こういうとき、いい言葉なんて出てこないのよねえ……」
視線を向けると、欠けた取っ手の花瓶が、
相変わらず自虐モードで首(らしき部分)を傾けていた。
「出てこないからこそ、考えるんだよ。ね、新人さん?」
店主が、わたしに小さく微笑む。
「完璧な言葉じゃなくていい。
“今の自分が、少しだけラクになる逃げ道”みたいな条文で」
「逃げ道……」
その言い方が、少しだけ気持ちを軽くした。
呪いを一気に解く魔法の呪文じゃなくていい。
ただ、縛られすぎないようにするための、緩んだ結び目みたいなもの。
(逃げ道、逃げ道……)
頭の中で、日常的に口にしている自己否定のフレーズを、いくつか並べてみる。
どうせ。
わたしなんて。
またやっちゃった。
ほんとダメだなあ。
(……これ、ぜんぶ“言い切ってる”んだ)
「どうせそう」「わたしはこう」と、
逃げ場なく決めつけている。
そこで、ふと浮かんだ。
「……“と、今は思っている”って、付け足すのはどうでしょう」
自分で言いながら、少しだけ恥ずかしくなる。
店主が目を瞬いた。
「ほう」
「『わたしなんて』って言い切るんじゃなくて、
『わたしなんて……と、今は思っている』にするんです」
言葉を探り探り、続ける。
「そうしたら、“永久にそう”って決めつけるんじゃなくて、
あくまで“いま、この瞬間の気分”ってことになるかなと思って」
自分の声が、思ったよりも真面目で、
ちょっと笑えてしまう。
店主は、そんなわたしをじっと見てから、
ゆっくりとうなずいた。
「いいね、それ」
「いいんですか、こんな感じで」
「うん。“呪いのほご句”だ」
「ほご句?」
「保護するほうの“保護”ね。
言い切りの自己否定文に、その一文を挟むことで、
呪いの効力を少し弱める」
店主はペンを取り上げ、
マニュアルのページにさらさらと書き込む。
第三条 「わたしなんて」と思ったときは、
心の中で「……と、今は思っている」を付け足してよい。
“よい”というゆるい断定が、なんだかこの店らしい。
「禁止じゃなくて、“付け足していい”なんですね」
「うん。禁止すると、余計に自己否定したくなるからね。
とりあえず付け足しを許可するところから」
「……たしかに、禁止されると、逆に言いたくなりそうです」
思わず苦笑する。
棚の上の花瓶が、「ちょっと試してみようかしら」とつぶやいた。
「『どうせわたしなんて、欠けてる花瓶だわ』……と、今は思っている」
最後の部分だけ、少し照れくさそうな声になっている。
店主が、ぱちぱちと拍手をした。
「はい、いいですね。“今は”ってことは、
いつか“そうじゃない自分”もありうるってことだから」
「……なんだか、くすぐったいわね」
花瓶は小さく揺れて、
その表面のヒビが、ほんの少しだけやわらかく見えた気がした。
(気のせい、かな)
魔法らしい魔法は、何も起きていない。
光ったり、音が鳴ったりするわけでもない。
ただ、言葉ひとつで、空気の密度が変わったような。
そんな、さざ波みたいな変化。
店主が、こちらを振り返る。
「じゃ、新人さん。第三条も決まったところで、初実務」
「実務……」
その響きに、会社のエクセル画面が一瞬よぎる。
反射的に胃がきゅっとした。
店主は、「そんな顔しない」と笑いながら、
奥の棚から、小さな木箱を抱えてきた。
「まずは、“軽めコーナー”担当からね」
「軽めコーナー?」
「うん。“軽め自己否定ゾーン”。入口から二列目の棚まで」
言われて見れば、店の中央あたりの棚に、
小さな紙札がぶら下がっている。
そこには、ボールペンでゆるい字が並んでいた。
『本日の入荷品:
・つい謝りすぎるハンカチ
・何度も消されては書かれるメモ帳
・「どうせ似合わない」と言われた髪飾り など』
「ゆるいポップですね……」
「うちはそういう店だから」
木箱の中には、いろいろな雑貨がぎゅっと詰まっていた。
水玉模様のハンカチ。
ちょっとヨレた付箋の束。
色あせたキーホルダー。
近づいただけで、かすかに声が聞こえてくる。
「また汚されちゃった、ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうせ忘れられるメモだし」
「似合わないって言われたけど、やっぱりそうよねえ」
ざわざわと、弱音と自虐の合唱だ。
正直、少しめまいがした。
店主は、そんなわたしの様子を見て、
首をかしげる。
「大丈夫?」
「……なんだか、“自分の頭の中”を外から聞かされているみたいで」
「うん。最初はみんな、そう言う」
店主はあっさりと頷いた。
「ここに来る雑貨たちの声は、だいたい持ち主の脳内再生そのまんまだからね。
“いつも聞いてるもの”を、改めて外から聞かされると、ちょっとしんどい」
「ちょっと、どころじゃない気がします」
けれど、その“しんどさ”の正体を知るには、
もしかしたら、ここにいるのが一番いいのかもしれない。
店主は木箱から、一枚のハンカチを取り出した。
パステルブルー地に、白い小さな鳥の刺繍。
可愛いのに、どこかしょんぼりして見える。
「これ、“つい謝りすぎるハンカチさん”。今日の研修案件」
「ハンカチさん……」
名前(?)の付け方もゆるい。
ハンカチは、店主の手の中で小さく震えた。
「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……」
「まだ何もしてませんけど」
思わずツッコんでしまうと、
布地がぴくっと動いた。
「だって、どうせわたし、すぐ汚されるし……。
鼻水とか、涙とか、汗とか拭かれて……汚いわよね、ごめんなさい」
自分で自分を“汚い”と決めつけて、
勝手に謝り続けている。
なんだか、見ていてつらくなるタイプだ。
「こういうのは、“軽め”なんですか?」
つい問いかけると、店主は肩をすくめた。
「表面上はね。
“ごめんなさい”“汚くてごめんなさい”は、一見ライトな自己否定ワードに見える」
「一見……?」
「本当に重いやつは、“存在そのものの否定”になってくる。
“生きててごめんなさい”とか、“いないほうがいい”とか」
言葉の温度が、一瞬だけ下がった。
ハンカチさんがびくっと震える。
「わ、わたし、そこまでは言ってない……はず」
「うん。だから、君は“軽めゾーン”。
ただ、“軽いふりした重さ”が混ざりやすいタイプではある」
店主はやさしく布地を撫でながら言う。
「“汚いからごめん”って、自分で自分に言い続けてると、
いつの間にか“汚いわたしは、ここにいちゃいけない”に変わっていくから」
「…………」
その言葉が、ぐさりと刺さる。
「どうせ」や「わたしなんて」を、
笑いに紛らせて使ってきた自分。
(もしかして、わたしも、似たようなことしてる……?)
店主が、わたしにハンカチを差し出した。
「新人さん。第三条、試してみる?」
「第三条……」
さっき決めたばかりの、“呪いのほご句”。
わたしは、おそるおそるハンカチを受け取り、
そっと包み込むように両手で握った。
「えっと……」
声の出し方がわからず、
とりあえず、話しかけてみる。
「あなたは、今、“汚くてごめんなさい”って思ってる?」
「思ってる……。だって、汚されるためにここにいるみたいなものだもの」
「……そう思ってる、今はね」
自分でも意外なくらい、すんなり言葉が出た。
「でも、それって、“汚くなる”ってことは、
誰かの涙とか鼻水とか汗を受け止めてるってことですよね。
それって、けっこう……勇気のいる仕事だと思うんです」
会社の雑巾係や、汚れ仕事を引き受けてくれる人たちの顔が浮かぶ。
自分はいつも「すみません」と言いながら任せてしまうのに、
その人たちを“汚い”とは思ったことがない。
「だから、“汚くてごめんなさい”の前に、
“受け止めてえらいけど”って付け足しませんか」
「う、受け止めてえらい……?」
ハンカチさんの声が、そわそわと揺れる。
「第三条、活用するとしたら、こんな感じです」
自分に言い聞かせるように、
ゆっくりと言葉を区切る。
「『汚くてごめんなさい。……と、今は思っている。
でも、それくらい受け止めたわたし、ちょっとえらい』」
最後の“ちょっとえらい”は、小さな声になった。
言いながら、頬が熱くなる。
自分に言っているようで、くすぐったい。
店主が、横でこっそりとにやりとした。
「いいね、それ。
ほご句に、さりげなく“ほめ句”を混ぜるの、ポイント高い」
「ほめ句……」
どこまで冗談で、どこから本気なのか、相変わらず読めない。
でも、ほんの少しだけ、ハンカチの布地が柔らかくなった気がした。
「……変な感じ」
ハンカチさんが、小さな声でつぶやく。
「“汚くてごめんなさい”って言いながら、
“でも、ちょっとえらいかも”って思うなんて。
そんな贅沢、許されるのかしら」
「許されます。マニュアル第三条で許可しました」
きっぱりと言うと、
店主が「はい、ここテストに出ます」と真顔で頷いた。
「……ぷっ」
笑いをこらえきれず、吹き出してしまう。
その笑いに連動するみたいに、
ハンカチの刺繍の小鳥が、ちょっとだけ胸を張ったように見えた。
(気のせい、だよね。たぶん)
それでもいい。
言葉ひとつで、ほんの少しでも空気が変わるなら、
その「気のせい」を、何度でも積み重ねていけばいい。
店主が、満足そうに腕を組んだ。
「よし。新人さんの初案件、“軽め自己否定一枚分”、
ゆるっと解呪完了ってことで」
「そんなカウントの仕方なんですか」
「うん。今日はこのくらいにしておこう」
「え、もう仕事終わりですか?」
「最初から飛ばしすぎると、解呪する側がバテるからね。
君、今けっこうエネルギー使ってるよ」
言われて改めて、自分の胸に手を当てると、
どっと疲れが押し寄せてくるのがわかった。
「……たしかに、ちょっとぐったりしてます」
「でしょ。自己否定って、聞くだけでも体力食うから。
今日は“第三条を決めた記念日”ってことで、これくらいがちょうどいい」
店主は、ハンカチを丁寧に畳んで、
木箱の一番上に戻した。
「この子には、次に持ち主さんが来たとき、
新しいラベルを提案してみるよ」
「新しいラベル……?」
「“なんでも受け止める、タフなハンカチ”とかね」
「それ、かなり印象変わりますね」
「ラベルってそんなもんだよ」
店主の言葉に、
自分の胸の内に貼ってきたラベルたちが、
一枚一枚、頭の中に浮かんでくる。
ドジ。
要領が悪い。
空気を読むのが下手。
役に立たない。
(……“と、今は思っている”)
小さく、第三条を心の中で付け足してみる。
すると、そのラベルたちは、
さっきよりも粘着力が弱まったように感じられた。
「……なんか、ずるいですね」
「なにが?」
「第三条、考えた本人がいちばん救われてる気がします」
「それが一番いい使い方だよ」
店主は、ふっと笑って、
マニュアルのページをトントンと指で叩いた。
「ここは、“自分の呪いを他人の呪いで相殺する場所”じゃなくて、
“みんなで少しずつ薄め合う場所”だから」
「薄め合う……」
それは、ひどく優しい響きだった。
重いものをひとりで抱えるんじゃなくて、
少しずつ分け合って、薄めて、飲み込みやすくする。
そんなイメージが、頭の中にふわりと浮かぶ。
――そのとき。
店の奥、いちばん暗い棚のほうから、
かすかな気配が流れてきた。
ぞわ、と、空気が肌を撫でる。
「……店長」
さっきまで黙っていた花瓶が、
低い声で店主を呼んだ。
「奥のほう、ちょっとざわついてるわよ」
店主の表情が、一瞬だけ引き締まる。
彼は、ちらりと私を見てから、
冗談めかして言った。
「今日は、あっちは見に行かない。新人さんには刺激が強いから」
「あっち……?」
視線だけ、奥の棚のほうへ向ける。
さっきまで気づかなかったけれど、
そこには、黒っぽいコートや、色の抜けた傘、
古びた箱などが、ぎゅっと身を寄せ合って並んでいた。
遠くからでも、微妙な重さが伝わってくる。
「……あの棚は、“重たいゾーン”」
店主は、穏やかな声で説明した。
「『生きててごめんなさい』とか、『いなくなりたい』とか、
そういう言葉が染み込んだ子たちの場所。
あそこを扱うのは、僕の仕事」
「わたしは……?」
「君は、しばらく“軽めゾーン”担当。
第三条の練習には、こっちで十分」
そう言って、店主はにっこり笑った。
その笑顔に、
「全部を見ようとしなくていい」と言われているような気がした。
ほっとすると同時に、
奥の棚から漂う重たい気配が、
どこか他人事ではいられない自分にも気づく。
(いつか、あっちにも、目を向けることになるのかな)
怖いような。
でも、少しだけ、知りたいような。
そんな揺れを抱えたまま、
わたしは、マグカップをカウンターからそっと引き寄せた。
『どうせ私、またやらかします(けど、とりあえず今日も生きて帰る)』
その括弧の中に、
小さく一文を足してみる。
(……と、今は思っている)
――それだけで、世界の輪郭が、
ほんの少しだけ柔らかくなる。
ちいさな呪われ雑貨店での今日は、
こうして、“第三条”に印をつけながら静かに終わっていった。
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