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第6話 条件だらけの縁談と、計算ミスの胸さわぎ
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図書館のボランティアを始めてから、初めての「非・図書館の日」がやってきた。
その朝、アリアは父の執務室に呼ばれていた。
重厚な扉の前に立つと、すでに中からさまざまな人の気配が遠ざかっていく。
——会議終了。
——疲労度74。
父の頭上に浮かぶ数字は、今日も忙しさと責任感でぎゅうぎゅうだった。
「失礼いたします、お父さま」
「入れ、アリア」
執務机の向こう側で、エルネル侯爵は書類から顔を上げた。
いつもきちんと整えられた口髭。堅い目元。
——娘への情80。
——公的立場優先度90。
(あぁ、今日は“父親”より“侯爵さま”の顔ね)
アリアは、そっと扇を畳み、椅子に腰を下ろした。
「急に呼び立ててすまない。だが、そろそろ話しておかねばならないことがある」
来た。
あの舞踏会の夜、秘書官の頭上に浮かんでいた単語。
——打診予定・縁談。
——条件:好ましい。
「アリア。お前に、とある家から正式な申し入れが来ている」
父は、一枚の書類を軽く持ち上げた。
「公爵家の次男、レヴァン・クレイツ。聞いたことはあるか?」
「あぁ、少しだけ。学問にも武にも優れた方だと伺っておりますわ」
(そして、社交界の噂では——)
——人望65。
——真面目度75。
——浮つき度25。
アリアの中の数字帳には、すでに最低限の情報がメモされている。
「ふむ。お前の母上とも相談したが、条件としては申し分ない相手だ」
父は淡々と続けた。
「家格、財力、素行。どれも問題ない。何より、エルネル家の“数字を見る娘”を、面白がるでも怖がるでもなく、“能力のひとつ”として受け止めると書状に明記してきた」
「……わたくしの力のことを?」
アリアは、わずかに目を見開いた。
(そこまで調べているのね)
父は小さく頷く。
「お前のことを“ただの飾り”にしないつもりだろう。領地経営にも、王都の情報整理にも、その目を活かしたいと」
——打算度85。
——尊重しようとしている度40。
(ふうん)
アリアは、内心で計算を始めた。
クレイツ公爵家。
今後の政情を考えれば、エルネル家との繋がりは互いにとって悪くない。
次男という立場も、しがらみが少なくて動きやすい。
(わたくし個人で見ても、“悪くない”どころかかなりいいほう、ね)
感情を抜きにして数字だけ並べれば、満点に近い。
「一度、会ってみるか?」
父の問いに、アリアはゆっくりと瞬きをした。
(——最適解)
頭の中で、カチリと何かがはまる音がした気がした。
(ここで“嫌です”と言うほうが、よほど説明が難しい)
エルネル家の令嬢として。
これまで、最適解ばかりを選んできた自分として。
「……えぇ。もちろんですわ、お父さま」
アリアは、完璧な笑顔で頷いた。
「お相手の方にも、失礼のないように」
「そうか。助かる」
父の頭上に、「安心度50」「父親としての寂しさ15」が浮かんだ。
その数字を見て、アリアはそっと扇の陰で微笑みを深める。
(大丈夫。全部計算通り)
家のため。
自分の安定のため。
——幸福期待値72。
——リスク25。
(これなら、“人生は楽勝コース”のはず)
なのに、胸の奥で、ちいさな「?」が生まれてしまったことに——そのときのアリアは、気づかないふりをした。
*
数日後。
レヴァン・クレイツとの初顔合わせは、驚くほど滞りなく進んだ。
真っ直ぐな眼差し。
礼節をわきまえた物腰。
父の言った通り、条件面では申し分ない。
——誠実度68。
——責任感80。
——アリアへの好感度45(※初回補正込み)。
(悪くないわ)
アリアは、心の中で何度目かの評価を下す。
「数字が見える、というのは……」
庭園を歩きながら、レヴァンが少しだけ身を乗り出した。
「やはり、人の心を読むのに役立つのですか?」
「そうですわね。“完全に”読めるわけではありませんけれど、目安にはなりますわ」
「素晴らしい」
彼の頭上に、一瞬だけ「実用性評価75」が弾ける。
(あぁ、そうよね)
失望ではない。
ただ、そこに「面白い」も「怖い」もないのが、妙にくすぐったい。
「この先、もし本当に縁あって結ばれることになったなら——」
レヴァンは、真剣な顔で続けた。
「互いの力を尊重し、協力し合える関係でありたいと思っています」
——将来設計真面目度85。
——恋愛感情25(※まだ種)。
(悪くない)
何度繰り返しても、その結論しか出てこない。
ただひとつ、気になったことがあるとすれば。
「……わたくし個人については、どう思われます?」
アリアは、ほんの少し意地悪な問いを投げてみた。
「個人として?」
「えぇ。エルネル家の令嬢ではなく、“アリア”というひとりの人間として」
レヴァンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
その頭上で、「評価指標検索中」という見えない文字がくるくる回っているような気がする。
「……お会いしたばかりで軽々しく言うのは失礼ですが」
やがて彼は、慎重に言葉を紡いだ。
「聡明で、落ち着いておられて、周囲への目配りも行き届いている。理想的な、“侯爵家の奥方”になられる方だと思いました」
「……まぁ」
否定のしようがない。
的外れでもない。
ただ——。
——息苦しさ35。
(あれ?)
自分の頭上に浮かんだ数字を、アリアは初めて「はっきり」と意識した。
いつも人の数字ばかり見てきたせいで、自分の数字には鈍感だった。
けれど今は、その「35」が、やけに目に刺さる。
(どうして、息苦しいのかしら)
条件は、悪くない。
むしろ、良い。
それなのに、胸の奥のどこかが、きゅっと縮こまっている。
レヴァンの頭上には、「期待度50」「慎重さ60」が浮かんでいる。
決して、悪い相手ではない。
(……あぁ、やっぱり)
アリアは、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます。身に余るお言葉ですわ」
完璧な、最適解の笑顔。
——息苦しさ40。
(数字が、上がってる)
その増加分の意味がわからないまま、アリアは半日をやり過ごした。
そして翌日。
アリアは、何事もなかった顔をして、王立図書館の扉を押した。
*
「……お顔色が、いつもより白いように見えます」
受付で挨拶を交わしたあと、ユリウスが、じっとアリアの顔を覗き込んだ。
「まぁ、そうかしら?」
「はい。少なくとも、僕にはそう見えます」
即答だった。
数字で測っているわけでもないのに。
(ほんと、こういうところだけ観察眼が鋭いのよね)
アリアは苦笑を飲み込み、扇を軽く振った。
「大丈夫ですわ。少し寝不足なだけですもの」
「寝不足ですか?」
「えぇ。昨日、少々考え事をしていて」
レヴァンとの会談。
父と母の表情。
「条件」と「理想的な奥方」という言葉。
——幸福期待値72。
——息苦しさ40。
数字と感覚が噛み合わない違和感が、脳裏でぐるぐる回っていた。
「本日は、軽めの作業にしましょう」
ユリウスが静かに言った。
「軽め?」
「閲覧室の“おすすめ棚”の入れ替えです。季節に合わせて、展示する本を替えるのですが……よろしければ、アリア様のお力をお借りしたくて」
「わたくしの?」
「えぇ。人を観察するのがお得意だと、以前おっしゃっていたので」
(……そう言ってたかしら、わたくし)
数字の話を打ち明けた日のことを思い出し、アリアは頬を少しだけ熱くした。
「おすすめ棚、ですわね。面白そうですわ」
*
閲覧室の一角にある、小さな棚。
そこには「今月のおすすめ」と書かれた札が立ち、数冊の本が並べられていた。
「季節や行事に合わせて選んだり、最近よく読まれている本を置いたりしています」
ユリウスは、少しだけ照れたように説明する。
「“本に会いに来る人”が、最初に声をかけやすい場所になればと思って」
(……サインもなく、棚も控えめなのに、考え方だけはやたらと素敵なのよね、この人)
アリアは、棚を眺めながら頷いた。
「今は、雨にまつわる物語を集めていましたが、そろそろ“初夏”へ変えたいと思いまして」
「初夏……」
アリアは、少し考えてから口を開く。
「でしたら、“始まり”に関する本など、いかがかしら?」
「始まり?」
「えぇ。新しい学期、新しい仕事、新しい出会い。……人は、何かを始めるたびに、少しだけ不安になりますもの」
アリアの頭上に、「自覚したくない不安45」がちらりと顔を出した。
「その不安と一緒に歩いてくれる本が、“初夏”には似合う気がいたしますわ」
ユリウスは、驚いたように目を瞬いた。
「とても、いいですね」
「そうかしら?」
「はい。“雨が上がったあと”というより、“雨を抱えたまま進んでいく”印象で。僕は、そういう本が好きです」
アリアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(“抱えたまま進んでいく”……か)
最適解ではないかもしれない。
それでも、手放せないものと一緒に歩いていくこと。
(わたくしは、何を抱えているのかしら)
数字と感情のズレ。
条件と、胸のざわめき。
「……ユリウス様」
「はい?」
「もし、“新しい出会い”が、最適解かどうかわからない場合は、どうされます?」
思わず、核心に触れる質問を投げてしまった。
ユリウスは、少しだけ考えるように視線を伏せ、それから静かに答えた。
「まずは、その出会いを“知る”ことから、だと思います」
「知る?」
「はい。数字や条件を並べる前に、“実際にどう笑う人か”を知りたいです」
アリアの心臓が、どくりと跳ねる。
「……もし、“理想的な条件”が全部揃っている人だったら?」
「それでも、やっぱり、“どう笑う人か”が気になります」
ユリウスの瞳は、どこか遠くを見るように柔らかくなった。
「僕は、理想の人を、条件で決めたくないので」
(理想の人……)
その言葉に、アリアの頭上に一瞬だけ数字が弾けかけて——
その前に、胸がきゅうっと締め付けられた。
——息苦しさ50。
——聞きたくない好奇心60。
「ユリウス様には、その……理想の人が、もういらっしゃるのかしら?」
訊かないほうが楽なのに。
気づけば、言葉が口からこぼれていた。
ユリウスは、わずかに肩を揺らした。
「そうですね……」
彼は、いつものようにすぐには答えなかった。
静かな沈黙が一拍、二拍。
「“こういう人が理想だ”という“条件”なら、昔はたくさん挙げられたかもしれません」
「昔は?」
「えぇ。穏やかな人、言葉を大切にする人、本を愛する人……色々と」
(……十分、条件だらけですわね)
アリアは内心でツッコミを入れつつ、続きを待った。
「でも、今はもう、“条件”よりも、“ある特定の人”のことを考えてしまうので」
「……っ」
胸のどこかが、ばちん、と音を立てた気がした。
——動揺度80。
——聞きたくない度65。
——知りたい度68。
「その方は、どんな方でして?」
自分の声が、少しだけ掠れているのがわかる。
ユリウスは、ほんの少しだけ笑った。
「……とても、忙しい人です」
「忙しい……?」
「いつも誰かのことを考えていて、自分よりも周りを優先してしまう。だから、きっと疲れてしまっているのに、それを当たり前だと思っているような」
アリアの喉が、ごくりと鳴った。
「人の数字を見ているとしたら、“好感度”とか“満足度”ばかり気にしているかもしれませんね」
「……」
「でも、本当は、“その人自身の幸福度”が一番気になってしまうタイプの人です」
アリアは、呼吸を忘れそうになった。
(ねぇ、ユリウス様)
それは——誰のこと?
口に出しかけたその瞬間。
「……っと、すみません。話しすぎました」
ユリウスは、自分で話を切ってしまった。
「おすすめ棚の本を選びましょうか。アリア様の“初夏の始まり本”、とても気になります」
話題が、ふわりと逸らされる。
その器用さに、アリアは少しだけ口を尖らせた。
(ずるいわ)
でも、何も言えない。
彼の頭上には、相変わらず数字が浮かんでいないのだから。
(今の話に、“わたくし”が含まれているかどうかも、わからない)
だからこそ、胸のざわめきは、さらに増した。
——息苦しさ55。
——期待度35。
(ほんとに、計算が合わない)
最適解からはどんどん遠ざかっているのに、図書館に来るたび、“楽しみ度”が上がってしまう自分。
数字だらけの世界の中で、唯一数字の見えない人を、こんなにも気にしている自分。
(これはもう、“計算ミス”なんて可愛いものじゃないわね)
アリアは、棚に並ぶ本の背表紙を撫でながら、そっと胸の前で手を組んだ。
(わたくし……どうなってしまうのかしら)
初夏の光が差し込む窓辺で、誰にも見えない「誤差グラフ」は、今日も静かに線を伸ばしていくのだった。
その朝、アリアは父の執務室に呼ばれていた。
重厚な扉の前に立つと、すでに中からさまざまな人の気配が遠ざかっていく。
——会議終了。
——疲労度74。
父の頭上に浮かぶ数字は、今日も忙しさと責任感でぎゅうぎゅうだった。
「失礼いたします、お父さま」
「入れ、アリア」
執務机の向こう側で、エルネル侯爵は書類から顔を上げた。
いつもきちんと整えられた口髭。堅い目元。
——娘への情80。
——公的立場優先度90。
(あぁ、今日は“父親”より“侯爵さま”の顔ね)
アリアは、そっと扇を畳み、椅子に腰を下ろした。
「急に呼び立ててすまない。だが、そろそろ話しておかねばならないことがある」
来た。
あの舞踏会の夜、秘書官の頭上に浮かんでいた単語。
——打診予定・縁談。
——条件:好ましい。
「アリア。お前に、とある家から正式な申し入れが来ている」
父は、一枚の書類を軽く持ち上げた。
「公爵家の次男、レヴァン・クレイツ。聞いたことはあるか?」
「あぁ、少しだけ。学問にも武にも優れた方だと伺っておりますわ」
(そして、社交界の噂では——)
——人望65。
——真面目度75。
——浮つき度25。
アリアの中の数字帳には、すでに最低限の情報がメモされている。
「ふむ。お前の母上とも相談したが、条件としては申し分ない相手だ」
父は淡々と続けた。
「家格、財力、素行。どれも問題ない。何より、エルネル家の“数字を見る娘”を、面白がるでも怖がるでもなく、“能力のひとつ”として受け止めると書状に明記してきた」
「……わたくしの力のことを?」
アリアは、わずかに目を見開いた。
(そこまで調べているのね)
父は小さく頷く。
「お前のことを“ただの飾り”にしないつもりだろう。領地経営にも、王都の情報整理にも、その目を活かしたいと」
——打算度85。
——尊重しようとしている度40。
(ふうん)
アリアは、内心で計算を始めた。
クレイツ公爵家。
今後の政情を考えれば、エルネル家との繋がりは互いにとって悪くない。
次男という立場も、しがらみが少なくて動きやすい。
(わたくし個人で見ても、“悪くない”どころかかなりいいほう、ね)
感情を抜きにして数字だけ並べれば、満点に近い。
「一度、会ってみるか?」
父の問いに、アリアはゆっくりと瞬きをした。
(——最適解)
頭の中で、カチリと何かがはまる音がした気がした。
(ここで“嫌です”と言うほうが、よほど説明が難しい)
エルネル家の令嬢として。
これまで、最適解ばかりを選んできた自分として。
「……えぇ。もちろんですわ、お父さま」
アリアは、完璧な笑顔で頷いた。
「お相手の方にも、失礼のないように」
「そうか。助かる」
父の頭上に、「安心度50」「父親としての寂しさ15」が浮かんだ。
その数字を見て、アリアはそっと扇の陰で微笑みを深める。
(大丈夫。全部計算通り)
家のため。
自分の安定のため。
——幸福期待値72。
——リスク25。
(これなら、“人生は楽勝コース”のはず)
なのに、胸の奥で、ちいさな「?」が生まれてしまったことに——そのときのアリアは、気づかないふりをした。
*
数日後。
レヴァン・クレイツとの初顔合わせは、驚くほど滞りなく進んだ。
真っ直ぐな眼差し。
礼節をわきまえた物腰。
父の言った通り、条件面では申し分ない。
——誠実度68。
——責任感80。
——アリアへの好感度45(※初回補正込み)。
(悪くないわ)
アリアは、心の中で何度目かの評価を下す。
「数字が見える、というのは……」
庭園を歩きながら、レヴァンが少しだけ身を乗り出した。
「やはり、人の心を読むのに役立つのですか?」
「そうですわね。“完全に”読めるわけではありませんけれど、目安にはなりますわ」
「素晴らしい」
彼の頭上に、一瞬だけ「実用性評価75」が弾ける。
(あぁ、そうよね)
失望ではない。
ただ、そこに「面白い」も「怖い」もないのが、妙にくすぐったい。
「この先、もし本当に縁あって結ばれることになったなら——」
レヴァンは、真剣な顔で続けた。
「互いの力を尊重し、協力し合える関係でありたいと思っています」
——将来設計真面目度85。
——恋愛感情25(※まだ種)。
(悪くない)
何度繰り返しても、その結論しか出てこない。
ただひとつ、気になったことがあるとすれば。
「……わたくし個人については、どう思われます?」
アリアは、ほんの少し意地悪な問いを投げてみた。
「個人として?」
「えぇ。エルネル家の令嬢ではなく、“アリア”というひとりの人間として」
レヴァンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
その頭上で、「評価指標検索中」という見えない文字がくるくる回っているような気がする。
「……お会いしたばかりで軽々しく言うのは失礼ですが」
やがて彼は、慎重に言葉を紡いだ。
「聡明で、落ち着いておられて、周囲への目配りも行き届いている。理想的な、“侯爵家の奥方”になられる方だと思いました」
「……まぁ」
否定のしようがない。
的外れでもない。
ただ——。
——息苦しさ35。
(あれ?)
自分の頭上に浮かんだ数字を、アリアは初めて「はっきり」と意識した。
いつも人の数字ばかり見てきたせいで、自分の数字には鈍感だった。
けれど今は、その「35」が、やけに目に刺さる。
(どうして、息苦しいのかしら)
条件は、悪くない。
むしろ、良い。
それなのに、胸の奥のどこかが、きゅっと縮こまっている。
レヴァンの頭上には、「期待度50」「慎重さ60」が浮かんでいる。
決して、悪い相手ではない。
(……あぁ、やっぱり)
アリアは、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます。身に余るお言葉ですわ」
完璧な、最適解の笑顔。
——息苦しさ40。
(数字が、上がってる)
その増加分の意味がわからないまま、アリアは半日をやり過ごした。
そして翌日。
アリアは、何事もなかった顔をして、王立図書館の扉を押した。
*
「……お顔色が、いつもより白いように見えます」
受付で挨拶を交わしたあと、ユリウスが、じっとアリアの顔を覗き込んだ。
「まぁ、そうかしら?」
「はい。少なくとも、僕にはそう見えます」
即答だった。
数字で測っているわけでもないのに。
(ほんと、こういうところだけ観察眼が鋭いのよね)
アリアは苦笑を飲み込み、扇を軽く振った。
「大丈夫ですわ。少し寝不足なだけですもの」
「寝不足ですか?」
「えぇ。昨日、少々考え事をしていて」
レヴァンとの会談。
父と母の表情。
「条件」と「理想的な奥方」という言葉。
——幸福期待値72。
——息苦しさ40。
数字と感覚が噛み合わない違和感が、脳裏でぐるぐる回っていた。
「本日は、軽めの作業にしましょう」
ユリウスが静かに言った。
「軽め?」
「閲覧室の“おすすめ棚”の入れ替えです。季節に合わせて、展示する本を替えるのですが……よろしければ、アリア様のお力をお借りしたくて」
「わたくしの?」
「えぇ。人を観察するのがお得意だと、以前おっしゃっていたので」
(……そう言ってたかしら、わたくし)
数字の話を打ち明けた日のことを思い出し、アリアは頬を少しだけ熱くした。
「おすすめ棚、ですわね。面白そうですわ」
*
閲覧室の一角にある、小さな棚。
そこには「今月のおすすめ」と書かれた札が立ち、数冊の本が並べられていた。
「季節や行事に合わせて選んだり、最近よく読まれている本を置いたりしています」
ユリウスは、少しだけ照れたように説明する。
「“本に会いに来る人”が、最初に声をかけやすい場所になればと思って」
(……サインもなく、棚も控えめなのに、考え方だけはやたらと素敵なのよね、この人)
アリアは、棚を眺めながら頷いた。
「今は、雨にまつわる物語を集めていましたが、そろそろ“初夏”へ変えたいと思いまして」
「初夏……」
アリアは、少し考えてから口を開く。
「でしたら、“始まり”に関する本など、いかがかしら?」
「始まり?」
「えぇ。新しい学期、新しい仕事、新しい出会い。……人は、何かを始めるたびに、少しだけ不安になりますもの」
アリアの頭上に、「自覚したくない不安45」がちらりと顔を出した。
「その不安と一緒に歩いてくれる本が、“初夏”には似合う気がいたしますわ」
ユリウスは、驚いたように目を瞬いた。
「とても、いいですね」
「そうかしら?」
「はい。“雨が上がったあと”というより、“雨を抱えたまま進んでいく”印象で。僕は、そういう本が好きです」
アリアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(“抱えたまま進んでいく”……か)
最適解ではないかもしれない。
それでも、手放せないものと一緒に歩いていくこと。
(わたくしは、何を抱えているのかしら)
数字と感情のズレ。
条件と、胸のざわめき。
「……ユリウス様」
「はい?」
「もし、“新しい出会い”が、最適解かどうかわからない場合は、どうされます?」
思わず、核心に触れる質問を投げてしまった。
ユリウスは、少しだけ考えるように視線を伏せ、それから静かに答えた。
「まずは、その出会いを“知る”ことから、だと思います」
「知る?」
「はい。数字や条件を並べる前に、“実際にどう笑う人か”を知りたいです」
アリアの心臓が、どくりと跳ねる。
「……もし、“理想的な条件”が全部揃っている人だったら?」
「それでも、やっぱり、“どう笑う人か”が気になります」
ユリウスの瞳は、どこか遠くを見るように柔らかくなった。
「僕は、理想の人を、条件で決めたくないので」
(理想の人……)
その言葉に、アリアの頭上に一瞬だけ数字が弾けかけて——
その前に、胸がきゅうっと締め付けられた。
——息苦しさ50。
——聞きたくない好奇心60。
「ユリウス様には、その……理想の人が、もういらっしゃるのかしら?」
訊かないほうが楽なのに。
気づけば、言葉が口からこぼれていた。
ユリウスは、わずかに肩を揺らした。
「そうですね……」
彼は、いつものようにすぐには答えなかった。
静かな沈黙が一拍、二拍。
「“こういう人が理想だ”という“条件”なら、昔はたくさん挙げられたかもしれません」
「昔は?」
「えぇ。穏やかな人、言葉を大切にする人、本を愛する人……色々と」
(……十分、条件だらけですわね)
アリアは内心でツッコミを入れつつ、続きを待った。
「でも、今はもう、“条件”よりも、“ある特定の人”のことを考えてしまうので」
「……っ」
胸のどこかが、ばちん、と音を立てた気がした。
——動揺度80。
——聞きたくない度65。
——知りたい度68。
「その方は、どんな方でして?」
自分の声が、少しだけ掠れているのがわかる。
ユリウスは、ほんの少しだけ笑った。
「……とても、忙しい人です」
「忙しい……?」
「いつも誰かのことを考えていて、自分よりも周りを優先してしまう。だから、きっと疲れてしまっているのに、それを当たり前だと思っているような」
アリアの喉が、ごくりと鳴った。
「人の数字を見ているとしたら、“好感度”とか“満足度”ばかり気にしているかもしれませんね」
「……」
「でも、本当は、“その人自身の幸福度”が一番気になってしまうタイプの人です」
アリアは、呼吸を忘れそうになった。
(ねぇ、ユリウス様)
それは——誰のこと?
口に出しかけたその瞬間。
「……っと、すみません。話しすぎました」
ユリウスは、自分で話を切ってしまった。
「おすすめ棚の本を選びましょうか。アリア様の“初夏の始まり本”、とても気になります」
話題が、ふわりと逸らされる。
その器用さに、アリアは少しだけ口を尖らせた。
(ずるいわ)
でも、何も言えない。
彼の頭上には、相変わらず数字が浮かんでいないのだから。
(今の話に、“わたくし”が含まれているかどうかも、わからない)
だからこそ、胸のざわめきは、さらに増した。
——息苦しさ55。
——期待度35。
(ほんとに、計算が合わない)
最適解からはどんどん遠ざかっているのに、図書館に来るたび、“楽しみ度”が上がってしまう自分。
数字だらけの世界の中で、唯一数字の見えない人を、こんなにも気にしている自分。
(これはもう、“計算ミス”なんて可愛いものじゃないわね)
アリアは、棚に並ぶ本の背表紙を撫でながら、そっと胸の前で手を組んだ。
(わたくし……どうなってしまうのかしら)
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