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第3話 侍女たちの観察日誌「本日の甘さ」
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翌朝――公爵邸は、いつも通り完璧に静かだった。
完璧に、のはずだった。
廊下の角で、侍女たちが“完璧に静かな声”でひそひそと集まっている。
「……ねえ、見た?」
「見ました。椅子、ベッドの横に……」
「しかも、旦那さまが外套を奥さまに……」
「外套を……! あの、誰にも貸さないと噂の……!」
侍女長のエルザは、咳払いひとつで空気を凍らせた。
「あなたたち。噂話は廊下でしない。――が」
“が”。
その一言に、侍女たちの目が輝いた。
エルザはため息をつき、懐から小さな手帳を取り出す。表紙には小さく刻印。
《観察日誌》
侍女たちがざわめく。
「侍女長まで……!」
「これは公爵家の危機管理です」
エルザは即答した。表情は真面目。声も真面目。なのに手帳は、いかにも“趣味”のそれだった。
「業務として記録する。主の急な変化は、屋敷全体の安全に関わる」
「はい……!」
侍女たちは背筋を伸ばした。伸ばしたまま、目だけが好奇心で踊っている。
エルザはページを開き、昨日の日付に万年筆を走らせた。
*
《観察日誌:本日の甘さ》
・対象:レオンハルト公爵(通称:旦那さま)
・関連:奥さま(リリアさま)
①「護衛」発言:7回
(寝室/着替え/水差し/椅子移動/布団/カーテン/就寝)
②外套の貸与:前例なし
※備考:奥さまは“風邪によるもの”と解釈。
※備考:旦那さまは“君が寒い”を強調。本人の寒さは否定。
③就寝監視:実施
椅子をベッド横へ移動。
寝息の確認回数、推定多数。
総評:甘さ レベル「異常」
(冷徹公爵の名誉に関わるため取扱注意)
*
エルザがペンを置くと、侍女の一人が恐る恐る手を挙げた。
「侍女長……“甘さレベル”って……」
「尺度がないと現場が混乱する」
真顔で言い切るエルザ。侍女たちは、妙に納得したように頷いた。
「では、本日も観察を続行します!」
「続行します!」
侍女たちは静かに散った。完璧に静かな足取りで。
廊下の遠く、執務室へ向かう黒い影――公爵が見えた瞬間、侍女たちは息をひそめた。
レオンハルトはいつも通り、姿勢が良く、無駄がない。顔も冷たいほど整っている。
……が。
その歩みが、いつもより“急いでいる”ように見えた。
エルザは手帳を胸に抱き、静かに目を細める。
(朝から、行き先がひとつしか考えられませんね)
*
一方その頃。
リリアは、客間として整えられた“奥さまの朝支度室”で、侍女に髪を結ってもらっていた。
鏡の中の自分の頬が、ほんの少し赤い。
理由はわかっている。
昨夜、寝る直前に聞こえた声。
――離すつもりは、ない。
いや、違う。違う違う。
(熱だ。熱のせい)
そう思うのに、耳の奥に残る音が、やけにくっきりしている。
リリアは咳払いして、話題を探した。
「……公爵さま、今朝はお元気ですか?」
侍女は、ほんの一瞬だけ口角が揺れた。けれど即座に“完璧な侍女顔”に戻る。
「旦那さまは、いつも通りでございます」
「ほんとに? 昨日、変なこと言ってたんです」
「変なこと……?」
「“世界が危険”って」
侍女は目を伏せた。笑いを堪えている。確実に堪えている。
「……旦那さまらしいお言葉かと」
「そうなんだ……」
リリアは頷いた。公爵らしい、のだろうか。公爵の“らしさ”がわからない。
でも――
(世界が危険、って……ちょっと可愛かったな)
思ってしまった。
だめだ、と思いながら、思ってしまった。
その瞬間。
扉が、ノックもなく開いた。
「……リリア」
低い声。
侍女たちの動きが、ぴたりと止まる。
リリアも止まった。
鏡越しに、黒い影が立っている。
レオンハルト公爵が、朝の光の中で、いつも通り無表情で、いつも通り堂々と、そして――
なぜか、手に銀の皿を持っている。
皿の上には、湯気の立つカップがひとつ。
(え、なにそれ)
リリアが口を開くより先に、公爵は淡々と言った。
「白湯だ」
「……白湯?」
「飲め」
命令。
命令なのに、持ってきてくれている。
しかも、銀の皿。しかも、自分で。
侍女たちの目が一斉に輝きそうになったが、必死で“完璧な無”を保っている。プロだ。
リリアは戸惑いながらも、受け取ろうと立ち上がった。
その瞬間。
「動くな」
また。
リリアの足が止まる。
「え?」
「今日もーー」
公爵は言いかけた何かを飲み込んで、続けた。
「……冷える」
「私が?」
「そうだ」
公爵は、リリアの前まで来て、銀の皿を机に置く。
そして、なぜか――カップを自分の手で持ち、彼女の口元へ差し出した。
「飲め」
リリアは固まった。
侍女たちは息を止めた。エルザは手帳を出しそうになって、出さなかった。出したら終わる。
リリアは、目をぱちぱちさせる。
「え、あの……私、自分で……」
「火傷する」
「白湯で……?」
「火傷する」
断言。
まるで“火傷する世界線”が存在するかのように断言。
リリアは困り果て、結局、差し出されたまま白湯を一口飲んだ。
あたたかい。
白湯が、というより――この状況が、妙に。
飲み終えると、公爵はほんの少しだけカップを引いた。
そして、また呪いみたいに言葉が落ちる。
「……よし」
よし、って。
誰に対する、よし?
リリアの頬が、鏡の中でさらに赤くなった。
(熱だ……熱のせい……)
リリアは、ふと真面目に言ってみた。
「公爵さま、やっぱり医師を――」
「要らない」
「でも、昨日から――」
「要らない」
即答。二回目。
リリアはむぅ、と唇を尖らせた。
(頑固……)
侍女たちは見ないふりをしているが、空気は完全に“見ている”空気だ。
公爵は、その空気をまるで感じていないように、淡々と続けた。
「朝食は、私と」
「え?」
「食べろ」
命令。
その命令が落ちた瞬間、侍女たちの肩が、目に見えないくらい揺れた。
(耐えてる、みんな耐えてる)
リリアは、つい確認してしまう。
「……それ、契約にありましたっけ?」
公爵は少しだけ目を細めた。
そして、まっすぐ言った。
「必要だ」
必要。
必要って、何が?
何に対して?
リリアが答えに迷っていると、公爵はさらに言ってしまった。
「……一緒にいると落ち着く」
あ。
言った。
言ってしまった。
部屋の空気が、一瞬、固まる。
リリアも固まる。
侍女たちは、石像になった。
レオンハルトだけが、言ったあとに気づいたように、わずかに眉を寄せた。
その表情が、“悔しい”に近いのを、リリアは見逃さなかった。
(やっぱり、熱……)
そう結論づけようとしたのに。
公爵は、低い声で、追い打ちみたいに言う。
「……君は、私の妻だ」
形式のはずの言葉が、今日はやけに重い。
リリアは、白湯の温度で誤魔化すように、もう一口飲んだ。
そして、笑って言った。
「はい。……じゃあ朝食、ご一緒します」
その返事に、公爵の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
ほんの少しだけ。
けれどそれは、侍女たちにとっては大事件だった。
エルザの手が震えた。手帳を出したい。今すぐ出したい。
しかしエルザはプロであり、侍女長であり、そして何より“屋敷の秩序”だった。
彼女は無表情のまま、心の中でだけ書いた。
(甘さ、更新)
*
その頃、執務室では。
公爵の側近、書記官のカイルが、朝の報告書を読み上げていた。
「本日、北の関税の件ですが――」
「後だ」
「……はい?」
カイルは読み上げを止めた。
止めたまま、公爵の顔を見た。
相変わらず無表情。相変わらず冷たい目。
……なのに。
机の端に置かれた“白湯の皿”が、すべてを裏切っている。
カイルは慎重に言った。
「旦那さま……まさか、ご自身で?」
「……」
公爵は返事をしない。
返事をしないが、否定もしない。
カイルは確信した。
(呪いが、始まったな)
彼は喉の奥でため息をつき、心の中で神に祈った。
どうか、屋敷が燃えませんように。社交界が燃えませんように。あと、僕の胃が燃えませんように。
そして、公爵が淡々と命じた。
「医師を呼べ」
カイルは目を見開く。
「えっ、旦那さまがついに体調を――」
「違う」
即答。
「妻のためだ」
違わない。
カイルの中の何かが、静かに崩れた。
(ああ……これはもう……)
公爵は、まるで最重要案件のように言う。
「“奥さまが熱を出した時の対処”を確認しろ」
「……奥さまが、熱を出した時?」
「そうだ」
「旦那さまではなく?」
「……私は鍛えている」
出た。
いつものやつ。
カイルは口角を引きつらせたまま、深々と頭を下げた。
「承知いたしました」
(誰が熱出してるか、分かってないの、あなただけです)
そう心でツッコミながら。
*
朝食の席は、長いテーブルの端と端ではなく。
なぜか、“近い方の端”に用意されていた。
リリアが席につく前から、椅子の位置が調整されている。距離が近い。
近い、というより……逃げ道がない。
レオンハルトは、いつも通り無表情で座る。
そして、いつも通り淡々と、パンを取る。
……取って、リリアの皿に置いた。
「食べろ」
「え、ありがとうございます」
次に、スープ。
次に、果物。
次に、なぜか――蜂蜜。
「これも」
「蜂蜜……?」
「喉にいい」
リリアは、つい笑ってしまった。
「公爵さま、私、喉は痛くないですよ?」
「……予防だ」
予防。
予防で蜂蜜。
リリアは蜂蜜をスープに少し垂らして、飲んだ。
甘い。
甘くて、あたたかい。
(まるで――)
リリアは、考えそうになって、やめた。
考えると、心が勝手に柔らかくなる。
それは、契約結婚の“正解”からずれてしまう気がして。
リリアが黙っていると、公爵がふいに言った。
「……今日、外出するな」
「え?」
「危険だ」
また世界が危険。
リリアは首をかしげる。
「屋敷の中でも危険なんですか?」
「……屋敷の外が、もっと危険だ」
「じゃあ、屋敷の中は?」
公爵は一瞬だけ黙り、静かに言った。
「……私がいる」
それは答えになっているようで、なっていない。
でも、“安心”の意味だけは、やけに明確だった。
リリアは、困ったように笑って頷く。
「わかりました。今日は屋敷で、のんびりします」
その返事に、公爵がわずかに息を吐く。
ほっとした、ように見えた。
(……やっぱり熱だ)
リリアは、そう結論づけた。
その結論づけの直後。
廊下の向こうから、侍女が慌てた足取りで駆け込んできた。
「旦那さま! 奥さま! たいへんです!」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「何があった」
侍女は息を整えながら言った。
「王都の……縁結び祠の、封印が――」
その言葉に、公爵の指がぴくりと動いた。
リリアは目を瞬いた。
「縁結び……祠?」
侍女は頷く。
「はい。公爵家に関わる古い“縁”の呪……いえ、伝承が――動いたと」
呪い。
今、呪いと言いかけた。
リリアの背筋が、すうっと冷える。
(え、呪い?)
その横で、レオンハルト公爵が、完璧に無表情のまま、完璧に小さく舌打ちした。
そして、誰にも聞こえないくらい低く言った。
「……始まったか」
リリアは、初めて思った。
――これ、ただの風邪じゃない?
その瞬間、公爵が立ち上がる。
「支度しろ」
「どこへ……?」
「祠だ」
そして、言ってしまう。
「……君を、離せない」
リリアの心臓が、また跳ねた。
侍女たちの目が、また輝きかけた。
エルザの手帳が、ついに開きかけた。
そんな朝だった。
(つづく)
完璧に、のはずだった。
廊下の角で、侍女たちが“完璧に静かな声”でひそひそと集まっている。
「……ねえ、見た?」
「見ました。椅子、ベッドの横に……」
「しかも、旦那さまが外套を奥さまに……」
「外套を……! あの、誰にも貸さないと噂の……!」
侍女長のエルザは、咳払いひとつで空気を凍らせた。
「あなたたち。噂話は廊下でしない。――が」
“が”。
その一言に、侍女たちの目が輝いた。
エルザはため息をつき、懐から小さな手帳を取り出す。表紙には小さく刻印。
《観察日誌》
侍女たちがざわめく。
「侍女長まで……!」
「これは公爵家の危機管理です」
エルザは即答した。表情は真面目。声も真面目。なのに手帳は、いかにも“趣味”のそれだった。
「業務として記録する。主の急な変化は、屋敷全体の安全に関わる」
「はい……!」
侍女たちは背筋を伸ばした。伸ばしたまま、目だけが好奇心で踊っている。
エルザはページを開き、昨日の日付に万年筆を走らせた。
*
《観察日誌:本日の甘さ》
・対象:レオンハルト公爵(通称:旦那さま)
・関連:奥さま(リリアさま)
①「護衛」発言:7回
(寝室/着替え/水差し/椅子移動/布団/カーテン/就寝)
②外套の貸与:前例なし
※備考:奥さまは“風邪によるもの”と解釈。
※備考:旦那さまは“君が寒い”を強調。本人の寒さは否定。
③就寝監視:実施
椅子をベッド横へ移動。
寝息の確認回数、推定多数。
総評:甘さ レベル「異常」
(冷徹公爵の名誉に関わるため取扱注意)
*
エルザがペンを置くと、侍女の一人が恐る恐る手を挙げた。
「侍女長……“甘さレベル”って……」
「尺度がないと現場が混乱する」
真顔で言い切るエルザ。侍女たちは、妙に納得したように頷いた。
「では、本日も観察を続行します!」
「続行します!」
侍女たちは静かに散った。完璧に静かな足取りで。
廊下の遠く、執務室へ向かう黒い影――公爵が見えた瞬間、侍女たちは息をひそめた。
レオンハルトはいつも通り、姿勢が良く、無駄がない。顔も冷たいほど整っている。
……が。
その歩みが、いつもより“急いでいる”ように見えた。
エルザは手帳を胸に抱き、静かに目を細める。
(朝から、行き先がひとつしか考えられませんね)
*
一方その頃。
リリアは、客間として整えられた“奥さまの朝支度室”で、侍女に髪を結ってもらっていた。
鏡の中の自分の頬が、ほんの少し赤い。
理由はわかっている。
昨夜、寝る直前に聞こえた声。
――離すつもりは、ない。
いや、違う。違う違う。
(熱だ。熱のせい)
そう思うのに、耳の奥に残る音が、やけにくっきりしている。
リリアは咳払いして、話題を探した。
「……公爵さま、今朝はお元気ですか?」
侍女は、ほんの一瞬だけ口角が揺れた。けれど即座に“完璧な侍女顔”に戻る。
「旦那さまは、いつも通りでございます」
「ほんとに? 昨日、変なこと言ってたんです」
「変なこと……?」
「“世界が危険”って」
侍女は目を伏せた。笑いを堪えている。確実に堪えている。
「……旦那さまらしいお言葉かと」
「そうなんだ……」
リリアは頷いた。公爵らしい、のだろうか。公爵の“らしさ”がわからない。
でも――
(世界が危険、って……ちょっと可愛かったな)
思ってしまった。
だめだ、と思いながら、思ってしまった。
その瞬間。
扉が、ノックもなく開いた。
「……リリア」
低い声。
侍女たちの動きが、ぴたりと止まる。
リリアも止まった。
鏡越しに、黒い影が立っている。
レオンハルト公爵が、朝の光の中で、いつも通り無表情で、いつも通り堂々と、そして――
なぜか、手に銀の皿を持っている。
皿の上には、湯気の立つカップがひとつ。
(え、なにそれ)
リリアが口を開くより先に、公爵は淡々と言った。
「白湯だ」
「……白湯?」
「飲め」
命令。
命令なのに、持ってきてくれている。
しかも、銀の皿。しかも、自分で。
侍女たちの目が一斉に輝きそうになったが、必死で“完璧な無”を保っている。プロだ。
リリアは戸惑いながらも、受け取ろうと立ち上がった。
その瞬間。
「動くな」
また。
リリアの足が止まる。
「え?」
「今日もーー」
公爵は言いかけた何かを飲み込んで、続けた。
「……冷える」
「私が?」
「そうだ」
公爵は、リリアの前まで来て、銀の皿を机に置く。
そして、なぜか――カップを自分の手で持ち、彼女の口元へ差し出した。
「飲め」
リリアは固まった。
侍女たちは息を止めた。エルザは手帳を出しそうになって、出さなかった。出したら終わる。
リリアは、目をぱちぱちさせる。
「え、あの……私、自分で……」
「火傷する」
「白湯で……?」
「火傷する」
断言。
まるで“火傷する世界線”が存在するかのように断言。
リリアは困り果て、結局、差し出されたまま白湯を一口飲んだ。
あたたかい。
白湯が、というより――この状況が、妙に。
飲み終えると、公爵はほんの少しだけカップを引いた。
そして、また呪いみたいに言葉が落ちる。
「……よし」
よし、って。
誰に対する、よし?
リリアの頬が、鏡の中でさらに赤くなった。
(熱だ……熱のせい……)
リリアは、ふと真面目に言ってみた。
「公爵さま、やっぱり医師を――」
「要らない」
「でも、昨日から――」
「要らない」
即答。二回目。
リリアはむぅ、と唇を尖らせた。
(頑固……)
侍女たちは見ないふりをしているが、空気は完全に“見ている”空気だ。
公爵は、その空気をまるで感じていないように、淡々と続けた。
「朝食は、私と」
「え?」
「食べろ」
命令。
その命令が落ちた瞬間、侍女たちの肩が、目に見えないくらい揺れた。
(耐えてる、みんな耐えてる)
リリアは、つい確認してしまう。
「……それ、契約にありましたっけ?」
公爵は少しだけ目を細めた。
そして、まっすぐ言った。
「必要だ」
必要。
必要って、何が?
何に対して?
リリアが答えに迷っていると、公爵はさらに言ってしまった。
「……一緒にいると落ち着く」
あ。
言った。
言ってしまった。
部屋の空気が、一瞬、固まる。
リリアも固まる。
侍女たちは、石像になった。
レオンハルトだけが、言ったあとに気づいたように、わずかに眉を寄せた。
その表情が、“悔しい”に近いのを、リリアは見逃さなかった。
(やっぱり、熱……)
そう結論づけようとしたのに。
公爵は、低い声で、追い打ちみたいに言う。
「……君は、私の妻だ」
形式のはずの言葉が、今日はやけに重い。
リリアは、白湯の温度で誤魔化すように、もう一口飲んだ。
そして、笑って言った。
「はい。……じゃあ朝食、ご一緒します」
その返事に、公爵の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
ほんの少しだけ。
けれどそれは、侍女たちにとっては大事件だった。
エルザの手が震えた。手帳を出したい。今すぐ出したい。
しかしエルザはプロであり、侍女長であり、そして何より“屋敷の秩序”だった。
彼女は無表情のまま、心の中でだけ書いた。
(甘さ、更新)
*
その頃、執務室では。
公爵の側近、書記官のカイルが、朝の報告書を読み上げていた。
「本日、北の関税の件ですが――」
「後だ」
「……はい?」
カイルは読み上げを止めた。
止めたまま、公爵の顔を見た。
相変わらず無表情。相変わらず冷たい目。
……なのに。
机の端に置かれた“白湯の皿”が、すべてを裏切っている。
カイルは慎重に言った。
「旦那さま……まさか、ご自身で?」
「……」
公爵は返事をしない。
返事をしないが、否定もしない。
カイルは確信した。
(呪いが、始まったな)
彼は喉の奥でため息をつき、心の中で神に祈った。
どうか、屋敷が燃えませんように。社交界が燃えませんように。あと、僕の胃が燃えませんように。
そして、公爵が淡々と命じた。
「医師を呼べ」
カイルは目を見開く。
「えっ、旦那さまがついに体調を――」
「違う」
即答。
「妻のためだ」
違わない。
カイルの中の何かが、静かに崩れた。
(ああ……これはもう……)
公爵は、まるで最重要案件のように言う。
「“奥さまが熱を出した時の対処”を確認しろ」
「……奥さまが、熱を出した時?」
「そうだ」
「旦那さまではなく?」
「……私は鍛えている」
出た。
いつものやつ。
カイルは口角を引きつらせたまま、深々と頭を下げた。
「承知いたしました」
(誰が熱出してるか、分かってないの、あなただけです)
そう心でツッコミながら。
*
朝食の席は、長いテーブルの端と端ではなく。
なぜか、“近い方の端”に用意されていた。
リリアが席につく前から、椅子の位置が調整されている。距離が近い。
近い、というより……逃げ道がない。
レオンハルトは、いつも通り無表情で座る。
そして、いつも通り淡々と、パンを取る。
……取って、リリアの皿に置いた。
「食べろ」
「え、ありがとうございます」
次に、スープ。
次に、果物。
次に、なぜか――蜂蜜。
「これも」
「蜂蜜……?」
「喉にいい」
リリアは、つい笑ってしまった。
「公爵さま、私、喉は痛くないですよ?」
「……予防だ」
予防。
予防で蜂蜜。
リリアは蜂蜜をスープに少し垂らして、飲んだ。
甘い。
甘くて、あたたかい。
(まるで――)
リリアは、考えそうになって、やめた。
考えると、心が勝手に柔らかくなる。
それは、契約結婚の“正解”からずれてしまう気がして。
リリアが黙っていると、公爵がふいに言った。
「……今日、外出するな」
「え?」
「危険だ」
また世界が危険。
リリアは首をかしげる。
「屋敷の中でも危険なんですか?」
「……屋敷の外が、もっと危険だ」
「じゃあ、屋敷の中は?」
公爵は一瞬だけ黙り、静かに言った。
「……私がいる」
それは答えになっているようで、なっていない。
でも、“安心”の意味だけは、やけに明確だった。
リリアは、困ったように笑って頷く。
「わかりました。今日は屋敷で、のんびりします」
その返事に、公爵がわずかに息を吐く。
ほっとした、ように見えた。
(……やっぱり熱だ)
リリアは、そう結論づけた。
その結論づけの直後。
廊下の向こうから、侍女が慌てた足取りで駆け込んできた。
「旦那さま! 奥さま! たいへんです!」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「何があった」
侍女は息を整えながら言った。
「王都の……縁結び祠の、封印が――」
その言葉に、公爵の指がぴくりと動いた。
リリアは目を瞬いた。
「縁結び……祠?」
侍女は頷く。
「はい。公爵家に関わる古い“縁”の呪……いえ、伝承が――動いたと」
呪い。
今、呪いと言いかけた。
リリアの背筋が、すうっと冷える。
(え、呪い?)
その横で、レオンハルト公爵が、完璧に無表情のまま、完璧に小さく舌打ちした。
そして、誰にも聞こえないくらい低く言った。
「……始まったか」
リリアは、初めて思った。
――これ、ただの風邪じゃない?
その瞬間、公爵が立ち上がる。
「支度しろ」
「どこへ……?」
「祠だ」
そして、言ってしまう。
「……君を、離せない」
リリアの心臓が、また跳ねた。
侍女たちの目が、また輝きかけた。
エルザの手帳が、ついに開きかけた。
そんな朝だった。
(つづく)
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