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第4話 縁結び祠、封印のほころびと「冷徹公爵がデレた」事件
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馬車は、いつもより早く走っていた。
速いのに揺れが少ないのは、公爵家の馬車が“無駄な不快”を許さない作りだからだろう。リリアは座席の端に手を添え、窓の外を見た。王都の朝は賑やかで、露店の準備をする人、通学する子ども、パン屋の香り――いつもの日常が、きちんと流れている。
その日常の中に、今の自分がいるのが少し不思議だった。
「祠って、縁結びの……あの有名な?」
リリアが問いかけると、向かいに座るレオンハルトは、短く頷いた。
「そうだ」
「封印がほころんだって……危ないんですか?」
「危ない」
即答。
そして、また“危ない”が万能すぎるので、リリアは補足を求める。
「何が危ないんですか?」
レオンハルトは少しだけ黙った。言葉を選んでいるように見える。けれど結局、選べないまま落ちる。
「……君が」
リリアは、心の中で小さく頭を抱えた。
(またそれ……)
熱だ。熱のせい。そう思う。
思うけれど、馬車の中で向かい合っているだけで、彼の視線が“守る”に寄っていて落ち着かない。
しかも、馬車が少し揺れただけで。
レオンハルトの手が、反射でリリアの膝の前に出た。
――ぶつかる前に、空気を受け止めるみたいに。
「……っ」
リリアは目を瞬いた。
「今の、なに……」
「揺れた」
「揺れましたね」
「転ぶ」
「転びませんよ、座ってますし」
レオンハルトは、眉ひとつ動かさず言う。
「転ぶ」
転ぶ世界線が、彼の中では常に存在しているらしい。
リリアは、つい笑ってしまった。
その笑いを見たレオンハルトの目が、ほんのわずか、柔らかくなる。
そして柔らかくなったぶん、彼は“言ってはいけない言葉”を口に出しそうになって、ぐっと飲み込む。
飲み込んで、代わりに言う。
「……着いてから離れるな」
「はい」
リリアは素直に返事をした。
返事をした瞬間、自分の胸の奥が、少しだけ軽くなるのがわかった。
(え、なんで……)
その疑問を、彼の次の言葉が吹き飛ばす。
「手」
「え?」
「……繋ぐ」
命令でもなく、お願いでもなく、宣言みたいな声だった。
リリアは瞬きを二回してから、やっと言葉が出る。
「えっと……祠まで?」
「ずっとだ」
ずっと。
ずっと……?
リリアが答えに迷っている間に、レオンハルトは自分の手袋を外した。
革の手袋が、静かに膝の上に置かれる。その動作がやたら丁寧で、まるで“儀式”みたいだった。
そして、素手の手が差し出される。
リリアは、もう負けた。
(熱だ。熱のせい。これも看病の一環)
そう言い訳を作って、そっと手を置いた。
温かい。
思ったよりずっと。
レオンハルトの指が、迷いなく絡む。
迷いがないのが、いちばんずるい。
「……よし」
また“よし”。
リリアは、白湯の時と同じ種類の恥ずかしさに襲われた。
*
縁結び祠は、王都の端、古い森の入り口にあった。
石段は苔むしていて、鳥の声が少し遠い。空気が澄んでいるのに、どこか“張り詰めた匂い”がする。
ここが、縁の力を祀る場所。
――そして、公爵家に関わる何かが動いた場所。
馬車を降りた瞬間から、レオンハルトの“護衛モード”が濃くなった。
濃くなる、というより、もう行動が全部そうなる。
石段を上がるとき、リリアの足元の小石を、彼が無言で蹴り飛ばした。
(それ、今……蹴った? 私が踏まないように?)
木の枝が視界に入った瞬間、彼が腕でそっと払った。
(それ、今……払った? 私の顔に当たらないように?)
鳥が飛び立つ音にリリアが少しだけ肩を揺らした瞬間、彼が前に出た。
(え、鳥に……警戒……?)
「公爵さま、森が危険すぎません?」
「危険だ」
「全部危険……?」
「世界は危険だ」
言い切った。
昨日の“世界が危険”は、熱ではなく常識なのかもしれない。
そう思いかけた時、祠の前に白い衣の老人が現れた。
神官長だろう。背は小さいのに、目が光っている。視線が、レオンハルトとリリアの手――繋がれたままの手に落ちた瞬間、老人の口角が上がった。
「ああ……来ましたか。ヴァルデン公爵。――そして、奥方」
レオンハルトが一礼する。
「状況は」
「封印が、薄くなっています。祠の“縁”が……再び働き始めた」
神官長は、まるで嬉しそうに言った。
嬉しそうなのが怖い。
リリアはそっと手を引こうとした。引こうとしたのに。
引けない。
レオンハルトの指が、わずかに強く絡む。
「離れるな」
低い声。
リリアは小さく「はい」と言ってしまう。
(言っちゃった……)
神官長が、ふむ、と頷いた。
「なるほど。既に症状が」
「症状……?」
リリアが聞き返すと、神官長は当たり前みたいに言う。
「愛妻家の呪いです」
リリアは、止まった。
「え?」
神官長は、穏やかに説明する。
「ヴァルデン家の“縁”は古い。守護のための縁。けれど、時代とともに歪み、本人の意思と関係なく“守る相手”を固定する。――それが、愛妻家の呪い」
リリアは、目をぱちぱちさせた。
(愛妻家の呪い……? そんな、名前……)
神官長は続ける。
「発動条件は単純です。公爵が奥方を“守るべき存在”として強く認識したとき」
リリアは、そっと隣を見る。
レオンハルトは無表情だ。無表情なのに、指先だけがリリアを確保している。
神官長が、さらに穏やかに言う。
「症状は――過保護。距離が近い。言葉が甘くなる。本人が否定しても勝手に出る」
リリアは、昨日からの出来事を思い出してしまう。
「君を愛している」
「笑っている方が好きだ」
「離すつもりはない」
(全部……症状……?)
レオンハルトが、低い声で言った。
「解除は」
神官長はにこやかに言う。
「簡単ですよ」
リリアは内心でホッとした。
(簡単なんだ、よかった)
神官長は、息を吸って――
「公爵が、自分の意思で奥方を愛していると認め、口に出すだけです」
リリアのホッとが、凍った。
隣のレオンハルトが、わずかに呼吸を止めたのがわかった。
「……」
沈黙が、祠の空気より冷たい。
リリアは、ゆっくり神官長を見る。
「えっと……それ、簡単……ですか?」
神官長は頷く。
「簡単です」
レオンハルトは、頑なに口を閉ざした。
その閉ざし方が、まるで“要塞”だ。
リリアは、思った。
(これは……簡単じゃない)
なぜなら。
この人は、“冷徹を名乗る”ことが仕事で、矜持で、鎧だから。
その鎧を自分で外して「愛してる」と言うのは、多分――戦に出るより難しい。
神官長は、さらに追い打ちみたいに言う。
「なお、解除しないまま放置すると……」
リリアが身構える。
「……過保護が強まります」
「それだけ……?」
「言葉もさらに甘くなります」
リリアの頬が熱くなる。
神官長は優しく付け加えた。
「奥方への執着も強まります」
執着。
その単語が、妙にリアルで怖い。
リリアは思わず隣の手を見た。
指が、しっかり絡んでいる。
(え、これ以上……?)
その瞬間。
祠の奥から、ふわりと風が吹いた。
空気が、甘い香りを含む。花の香り、蜂蜜の香り、春の匂い。
リリアの背筋がぞくりとする。
神官長が目を細めた。
「……始まっていますね」
レオンハルトの声が硬くなる。
「何が」
「祠の縁が、奥方を“印”として認識し始めた」
「印……?」
神官長は、リリアの手元を見る。
「奥方、手を」
リリアが手を差し出す。
その瞬間、レオンハルトの指が抵抗した。
抵抗して――でも、リリアが「大丈夫です」と言うと、少しだけ緩む。
リリアは思わず心の中でメモした。
(この人、“大丈夫です”に弱い)
神官長がリリアの手首に触れると、そこに淡く光る糸のようなものが見えた。
ほんの一瞬、金色。
「縁の糸です。公爵が守る対象を固定し始めた証」
リリアは呆然とした。
「見える……」
神官長が頷く。
「公爵には、もっと強く見えているはず」
リリアがレオンハルトを見ると、彼は唇を結んでいる。
結びながら、やっと吐き出すように言った。
「……見える」
短い声が、悔しそうだった。
神官長は満足げに言う。
「よろしい。では、対処法を」
リリアが身を乗り出した瞬間。
祠の外で、どよめきが起きた。
ざわざわ、ざわざわ――森の入り口に人だかりができている。
「え、なに……?」
神官長が扉の隙間から覗き、眉を上げた。
「……社交界の方々ですね。早い」
リリアは首をかしげる。
「社交界?」
そして、外から聞こえてくる声。
「見た!? 冷徹公爵が奥さまと手を繋いで……!」
「外套を貸したって!?」
「朝食を一緒に!?」
「もう……デレたのよ……!」
リリアの顔が真っ赤になった。
(え、情報が速い)
隣でレオンハルトが、目だけで人だかりを睨んだ。
睨んだだけで、空気が一段冷える。
なのに。
その冷えた空気の中で、彼はリリアの手を、さらに強く握った。
――逃がさないみたいに。
神官長が、困ったように笑う。
「噂は縁より早い。これも“縁の力”かもしれませんな」
レオンハルトが低く言った。
「追い払え」
「神域に入った者を追い払うのは難しい」
神官長はのんびり言い、そして、悪びれずに続けた。
「ですが――公爵が奥方を愛していると認めれば、呪いは解けます」
レオンハルトは、ぴたりと黙った。
黙ったまま、リリアの背中側に立つ。
庇う位置。
外の視線から隠す位置。
そして、淡々と命じた。
「顔を上げるな」
「え、でも……」
「見られる」
「見られる……?」
「君が」
またそれ。
リリアは顔を覆いたくなった。
でも――その“またそれ”が、今は少しだけありがたい。
恥ずかしさでどうにかなりそうな自分を、彼の言葉が“守る”の形にしてくれるから。
神官長が最後に言った。
「本日は糸を落ち着かせる儀式だけしておきましょう。解除は――公爵次第」
レオンハルトの指が、わずかに震えた。
リリアは、その震えに気づいてしまった。
(怖いんだ)
この人も。
“守る”が勝手に増していくのが怖い。
“愛している”を自らの意思で口にするのが怖い。
そして、そのどちらも――きっと、同じ場所につながっている。
リリアは、小さく息を吸って、神官長に向き直った。
「儀式、お願いします」
神官長は頷く。
「では――奥方。公爵の手を、離さずに」
リリアは一瞬だけ目を丸くした。
離さずに。
神官長はにっこり。
「縁の糸が暴れますから」
リリアは、隣の手を見た。
レオンハルトの手は、最初から離すつもりなんてなかったみたいに、そこにあった。
リリアは少しだけ笑って、指を絡め直した。
「……はい」
その返事に、レオンハルトの目が、ほんの少しだけ緩む。
そして、聞こえるか聞こえないかの声で、また“症状”が落ちた。
「……いい子だ」
リリアは、心の中で叫んだ。
(公爵さま、それ、甘すぎます!)
外では社交界のざわめきが増している。
祠の中では縁の糸が淡く光っている。
そしてレオンハルトは、“冷徹”を名乗る顔のまま、愛妻家の呪いに着実に負けていく。
――今日も、名乗れない。
そんな、始まりの一日だった。
速いのに揺れが少ないのは、公爵家の馬車が“無駄な不快”を許さない作りだからだろう。リリアは座席の端に手を添え、窓の外を見た。王都の朝は賑やかで、露店の準備をする人、通学する子ども、パン屋の香り――いつもの日常が、きちんと流れている。
その日常の中に、今の自分がいるのが少し不思議だった。
「祠って、縁結びの……あの有名な?」
リリアが問いかけると、向かいに座るレオンハルトは、短く頷いた。
「そうだ」
「封印がほころんだって……危ないんですか?」
「危ない」
即答。
そして、また“危ない”が万能すぎるので、リリアは補足を求める。
「何が危ないんですか?」
レオンハルトは少しだけ黙った。言葉を選んでいるように見える。けれど結局、選べないまま落ちる。
「……君が」
リリアは、心の中で小さく頭を抱えた。
(またそれ……)
熱だ。熱のせい。そう思う。
思うけれど、馬車の中で向かい合っているだけで、彼の視線が“守る”に寄っていて落ち着かない。
しかも、馬車が少し揺れただけで。
レオンハルトの手が、反射でリリアの膝の前に出た。
――ぶつかる前に、空気を受け止めるみたいに。
「……っ」
リリアは目を瞬いた。
「今の、なに……」
「揺れた」
「揺れましたね」
「転ぶ」
「転びませんよ、座ってますし」
レオンハルトは、眉ひとつ動かさず言う。
「転ぶ」
転ぶ世界線が、彼の中では常に存在しているらしい。
リリアは、つい笑ってしまった。
その笑いを見たレオンハルトの目が、ほんのわずか、柔らかくなる。
そして柔らかくなったぶん、彼は“言ってはいけない言葉”を口に出しそうになって、ぐっと飲み込む。
飲み込んで、代わりに言う。
「……着いてから離れるな」
「はい」
リリアは素直に返事をした。
返事をした瞬間、自分の胸の奥が、少しだけ軽くなるのがわかった。
(え、なんで……)
その疑問を、彼の次の言葉が吹き飛ばす。
「手」
「え?」
「……繋ぐ」
命令でもなく、お願いでもなく、宣言みたいな声だった。
リリアは瞬きを二回してから、やっと言葉が出る。
「えっと……祠まで?」
「ずっとだ」
ずっと。
ずっと……?
リリアが答えに迷っている間に、レオンハルトは自分の手袋を外した。
革の手袋が、静かに膝の上に置かれる。その動作がやたら丁寧で、まるで“儀式”みたいだった。
そして、素手の手が差し出される。
リリアは、もう負けた。
(熱だ。熱のせい。これも看病の一環)
そう言い訳を作って、そっと手を置いた。
温かい。
思ったよりずっと。
レオンハルトの指が、迷いなく絡む。
迷いがないのが、いちばんずるい。
「……よし」
また“よし”。
リリアは、白湯の時と同じ種類の恥ずかしさに襲われた。
*
縁結び祠は、王都の端、古い森の入り口にあった。
石段は苔むしていて、鳥の声が少し遠い。空気が澄んでいるのに、どこか“張り詰めた匂い”がする。
ここが、縁の力を祀る場所。
――そして、公爵家に関わる何かが動いた場所。
馬車を降りた瞬間から、レオンハルトの“護衛モード”が濃くなった。
濃くなる、というより、もう行動が全部そうなる。
石段を上がるとき、リリアの足元の小石を、彼が無言で蹴り飛ばした。
(それ、今……蹴った? 私が踏まないように?)
木の枝が視界に入った瞬間、彼が腕でそっと払った。
(それ、今……払った? 私の顔に当たらないように?)
鳥が飛び立つ音にリリアが少しだけ肩を揺らした瞬間、彼が前に出た。
(え、鳥に……警戒……?)
「公爵さま、森が危険すぎません?」
「危険だ」
「全部危険……?」
「世界は危険だ」
言い切った。
昨日の“世界が危険”は、熱ではなく常識なのかもしれない。
そう思いかけた時、祠の前に白い衣の老人が現れた。
神官長だろう。背は小さいのに、目が光っている。視線が、レオンハルトとリリアの手――繋がれたままの手に落ちた瞬間、老人の口角が上がった。
「ああ……来ましたか。ヴァルデン公爵。――そして、奥方」
レオンハルトが一礼する。
「状況は」
「封印が、薄くなっています。祠の“縁”が……再び働き始めた」
神官長は、まるで嬉しそうに言った。
嬉しそうなのが怖い。
リリアはそっと手を引こうとした。引こうとしたのに。
引けない。
レオンハルトの指が、わずかに強く絡む。
「離れるな」
低い声。
リリアは小さく「はい」と言ってしまう。
(言っちゃった……)
神官長が、ふむ、と頷いた。
「なるほど。既に症状が」
「症状……?」
リリアが聞き返すと、神官長は当たり前みたいに言う。
「愛妻家の呪いです」
リリアは、止まった。
「え?」
神官長は、穏やかに説明する。
「ヴァルデン家の“縁”は古い。守護のための縁。けれど、時代とともに歪み、本人の意思と関係なく“守る相手”を固定する。――それが、愛妻家の呪い」
リリアは、目をぱちぱちさせた。
(愛妻家の呪い……? そんな、名前……)
神官長は続ける。
「発動条件は単純です。公爵が奥方を“守るべき存在”として強く認識したとき」
リリアは、そっと隣を見る。
レオンハルトは無表情だ。無表情なのに、指先だけがリリアを確保している。
神官長が、さらに穏やかに言う。
「症状は――過保護。距離が近い。言葉が甘くなる。本人が否定しても勝手に出る」
リリアは、昨日からの出来事を思い出してしまう。
「君を愛している」
「笑っている方が好きだ」
「離すつもりはない」
(全部……症状……?)
レオンハルトが、低い声で言った。
「解除は」
神官長はにこやかに言う。
「簡単ですよ」
リリアは内心でホッとした。
(簡単なんだ、よかった)
神官長は、息を吸って――
「公爵が、自分の意思で奥方を愛していると認め、口に出すだけです」
リリアのホッとが、凍った。
隣のレオンハルトが、わずかに呼吸を止めたのがわかった。
「……」
沈黙が、祠の空気より冷たい。
リリアは、ゆっくり神官長を見る。
「えっと……それ、簡単……ですか?」
神官長は頷く。
「簡単です」
レオンハルトは、頑なに口を閉ざした。
その閉ざし方が、まるで“要塞”だ。
リリアは、思った。
(これは……簡単じゃない)
なぜなら。
この人は、“冷徹を名乗る”ことが仕事で、矜持で、鎧だから。
その鎧を自分で外して「愛してる」と言うのは、多分――戦に出るより難しい。
神官長は、さらに追い打ちみたいに言う。
「なお、解除しないまま放置すると……」
リリアが身構える。
「……過保護が強まります」
「それだけ……?」
「言葉もさらに甘くなります」
リリアの頬が熱くなる。
神官長は優しく付け加えた。
「奥方への執着も強まります」
執着。
その単語が、妙にリアルで怖い。
リリアは思わず隣の手を見た。
指が、しっかり絡んでいる。
(え、これ以上……?)
その瞬間。
祠の奥から、ふわりと風が吹いた。
空気が、甘い香りを含む。花の香り、蜂蜜の香り、春の匂い。
リリアの背筋がぞくりとする。
神官長が目を細めた。
「……始まっていますね」
レオンハルトの声が硬くなる。
「何が」
「祠の縁が、奥方を“印”として認識し始めた」
「印……?」
神官長は、リリアの手元を見る。
「奥方、手を」
リリアが手を差し出す。
その瞬間、レオンハルトの指が抵抗した。
抵抗して――でも、リリアが「大丈夫です」と言うと、少しだけ緩む。
リリアは思わず心の中でメモした。
(この人、“大丈夫です”に弱い)
神官長がリリアの手首に触れると、そこに淡く光る糸のようなものが見えた。
ほんの一瞬、金色。
「縁の糸です。公爵が守る対象を固定し始めた証」
リリアは呆然とした。
「見える……」
神官長が頷く。
「公爵には、もっと強く見えているはず」
リリアがレオンハルトを見ると、彼は唇を結んでいる。
結びながら、やっと吐き出すように言った。
「……見える」
短い声が、悔しそうだった。
神官長は満足げに言う。
「よろしい。では、対処法を」
リリアが身を乗り出した瞬間。
祠の外で、どよめきが起きた。
ざわざわ、ざわざわ――森の入り口に人だかりができている。
「え、なに……?」
神官長が扉の隙間から覗き、眉を上げた。
「……社交界の方々ですね。早い」
リリアは首をかしげる。
「社交界?」
そして、外から聞こえてくる声。
「見た!? 冷徹公爵が奥さまと手を繋いで……!」
「外套を貸したって!?」
「朝食を一緒に!?」
「もう……デレたのよ……!」
リリアの顔が真っ赤になった。
(え、情報が速い)
隣でレオンハルトが、目だけで人だかりを睨んだ。
睨んだだけで、空気が一段冷える。
なのに。
その冷えた空気の中で、彼はリリアの手を、さらに強く握った。
――逃がさないみたいに。
神官長が、困ったように笑う。
「噂は縁より早い。これも“縁の力”かもしれませんな」
レオンハルトが低く言った。
「追い払え」
「神域に入った者を追い払うのは難しい」
神官長はのんびり言い、そして、悪びれずに続けた。
「ですが――公爵が奥方を愛していると認めれば、呪いは解けます」
レオンハルトは、ぴたりと黙った。
黙ったまま、リリアの背中側に立つ。
庇う位置。
外の視線から隠す位置。
そして、淡々と命じた。
「顔を上げるな」
「え、でも……」
「見られる」
「見られる……?」
「君が」
またそれ。
リリアは顔を覆いたくなった。
でも――その“またそれ”が、今は少しだけありがたい。
恥ずかしさでどうにかなりそうな自分を、彼の言葉が“守る”の形にしてくれるから。
神官長が最後に言った。
「本日は糸を落ち着かせる儀式だけしておきましょう。解除は――公爵次第」
レオンハルトの指が、わずかに震えた。
リリアは、その震えに気づいてしまった。
(怖いんだ)
この人も。
“守る”が勝手に増していくのが怖い。
“愛している”を自らの意思で口にするのが怖い。
そして、そのどちらも――きっと、同じ場所につながっている。
リリアは、小さく息を吸って、神官長に向き直った。
「儀式、お願いします」
神官長は頷く。
「では――奥方。公爵の手を、離さずに」
リリアは一瞬だけ目を丸くした。
離さずに。
神官長はにっこり。
「縁の糸が暴れますから」
リリアは、隣の手を見た。
レオンハルトの手は、最初から離すつもりなんてなかったみたいに、そこにあった。
リリアは少しだけ笑って、指を絡め直した。
「……はい」
その返事に、レオンハルトの目が、ほんの少しだけ緩む。
そして、聞こえるか聞こえないかの声で、また“症状”が落ちた。
「……いい子だ」
リリアは、心の中で叫んだ。
(公爵さま、それ、甘すぎます!)
外では社交界のざわめきが増している。
祠の中では縁の糸が淡く光っている。
そしてレオンハルトは、“冷徹”を名乗る顔のまま、愛妻家の呪いに着実に負けていく。
――今日も、名乗れない。
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※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
※新作です。アルファポリス様が先行します。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
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「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
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