5 / 24
第5話 天然妻、“呪い”を「健康管理」に分類する(※公爵は絶望)
しおりを挟む
祠の中は、静かなのに騒がしかった。
外の人だかりのざわめきが壁越しにうっすら響いてくるせいもある。けれどそれ以上に、リリアの手首に淡く浮かぶ“金色の糸”が、呼吸みたいにゆらゆらと揺れていた。
神官長が、細い鈴を鳴らす。
ちりん――。
その音に合わせるように、糸がふっと細くなり、また戻る。祠の空気が甘い香りを帯び、暖かい春の風が、冬のはずの森に一瞬だけ通り抜けた。
「では公爵。奥方の手を、握ったまま――はい、そのまま。離さずに」
「……離さない」
レオンハルトの返事は早すぎた。
神官長の眉が少し上がる。
「ええ、とても良い返事です」
リリアは、何となく恥ずかしくなって手元を見た。指が絡んでいる。絡みが、さっきより迷いがない。
(離さないって、そんな即答……)
リリアがもじっとした瞬間、レオンハルトの親指が、落ち着かせるみたいに手の甲を一度だけ撫でた。
――撫でた。
ほんの一度。
ほんの一度なのに、心臓がふわっと浮く。
(熱だ、熱じゃなくて……呪いだ、呪い)
どっちにしても、今のは“症状”ということにしておく。
神官長は淡々と祝詞を唱え、鈴を鳴らし、糸の揺れが少しずつ落ち着いていく。
そして最後に、石の台座に置かれた古い鏡を示した。
「奥方。こちらをご覧ください」
リリアが鏡に顔を寄せる。
すると、鏡の面に――自分の姿ではなく、金色の糸の“結び目”が映った。
蝶結び、みたいに見える。
可愛い。
可愛いのに、なんだか怖い。
「これが……印?」
「ええ。印は“守られる対象”が確定し始めた証。ですが、今はまだ結びが弱い。焦って結びを強める前に、落ち着かせる儀式をして正解でした」
神官長はにっこり。
「そして何より、公爵の反応が良い」
「……反応?」
リリアが聞き返すと、神官長はレオンハルトの手元を見る。
「奥方を守る意志が強い。これほど強いと、放置すれば呪いは早く“定着”します。――解除のためにも、なるべく早く、公爵が自覚して言葉にするのが良いでしょう」
「…………」
レオンハルトが、石になった。
顔は無表情のまま。けれど、喉仏だけがかすかに上下する。
リリアは、ここでやっと理解した。
(この人、“認める”のが本当に苦手なんだ)
苦手というか、怖いに近い。
神官長が言う。
「本日はこれで。次に糸が暴れたら、すぐ来なさい。暴れやすいのは――」
神官長はさらりと言った。
「奥方が危険を感じた時。あるいは、公爵が嫉妬した時」
「……嫉妬?」
リリアが目を丸くする。
隣でレオンハルトが、わずかに目を細めた。
「……しない」
「します」
神官長が即答した。
「呪いが」
「……」
レオンハルトが、ほんの少しだけ悔しそうな顔をした。悔しそう、というより“言い返したいのに言い返せない”顔。
リリアは、妙にそこで安心してしまった。
(よかった。これ、呪いのせいだ)
そう思えば、昨日からの言葉も距離も、“公爵さまの本心”ではない、はず。
……はず。
*
祠を出た瞬間、森の空気が一気に現実へ戻った。
そして現実は、想像以上に騒がしい。
「公爵様ぁぁぁ!」
「奥さま! その手、見せてくださいませ!」
「外套を貸したって本当!?」
「“いい子だ”って言ったの!? 言ったの!?」
「言ったなら責任取ってぇぇぇ!」
どこから仕入れたの、その情報。
リリアの頬が、耳まで真っ赤になった。
レオンハルトは、ため息ひとつ吐かないまま、ひとつだけ動いた。
リリアを、自分の背中側へ――すっと隠す。
そして、低い声で命じた。
「下がれ」
たったそれだけで、空気が一段冷える。
人だかりが一瞬だけ止まり……止まりきらない。
「冷徹が出た!」
「いや、でも奥さま隠してる、優しい!」
「守ってる! 守ってるのよ!」
リリアは、背中越しに顔を覆った。
(むり……王都、情報が速すぎる……)
レオンハルトが小さく言う。
「……耳を塞げ」
「塞ぐには手を離して頂かないと?」
「……」
公爵が黙った。たしかに。
そのまま、彼はリリアの手を引く。
「行く」
「はい……」
人だかりの隙間を抜ける瞬間、誰かが叫んだ。
「公爵様! 奥さまに“愛している”って言ったって本当ですか!」
――それは。
リリアは息を止めた。
レオンハルトは、ぴたりと足を止める。
空気が凍る。
神官長が言っていた“解除条件”の言葉が、森の中に吊るされたみたいに重い。
レオンハルトは、ほんの一瞬だけリリアの方へ視線を落とした。
その視線が、妙にやさしくて、妙に苦しそうで――
リリアは、反射で笑ってしまった。
「……公爵さま、熱のせいです。または呪いです」
小声で、言い訳を渡す。
渡してあげたくなった。
するとレオンハルトは、外に向けて、硬派の声で答えた。
「……くだらん噂だ」
噂、で片づけた。
でも、リリアの手は離さない。
一歩も。
*
馬車に乗り込んだ瞬間、リリアはぷはっと息を吐いた。
「疲れました……」
「……すまない」
「公爵さまが謝るの、珍しいですね」
リリアがそう言うと、レオンハルトは黙る。
黙ってから、ぽつり。
「……君が困るのは、嫌だ」
また出た。
甘い言葉が、本人の意思をすり抜けて落ちるやつ。
リリアは、きゅっと唇を結んだ。
(これ以上、心に入れたらだめ)
だって呪いの副作用だ。契約結婚だ。形式だ。
ここで絆されてしまったら、きっと――いつかの終わりに、立っていられなくなる。
リリアは、話題を変えた。
「公爵さま。呪いって、治療みたいなものですよね?」
「……治療?」
「はい。症状があるなら、対策して、生活を整えて、悪化しないようにする」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「……生活?」
「そうです。まず睡眠。次に水分。あと、栄養。蜂蜜」
「蜂蜜は……」
「効きます」
リリアは断言した。
(呪いにも、きっと効く)
レオンハルトは、少しだけ言葉に詰まった。
そして、心底困った顔を“ほんの一瞬だけ”した。
「……君は、呪いを健康管理に分類するのか」
「分類します」
「……そうか」
レオンハルトは、どこか絶望した声で言った。
「君は強いな」
リリアは笑った。
「強くないですよ。怖いのは怖いです」
「……」
「でも、公爵さまが守ってくれるんですよね?」
さらっと言った。
言ってから、(しまった)と思った。
――“守ってくれる”って、頼ってしまっている。
契約の範囲を超える甘えだ。
でもレオンハルトは、逃げなかった。
逃げずに、いつもの硬い声で言った。
「当然だ」
当然。
当然、って。
リリアは胸の奥がじんわりするのを、必死で“呪いのせい”に押し込めた。
*
公爵邸に戻ると、侍女長エルザが完璧な顔で出迎えた。
「お帰りなさいませ。奥さま、旦那さま」
「ただいまです」
リリアが微笑むと、エルザは一瞬だけ目を柔らかくし――すぐに業務顔へ戻る。
その背後、控えの侍女たちが“完璧に平静な顔”をしているのが逆に怖い。
(絶対、見てたよね。絶対、聞いてたよね)
レオンハルトはリリアの肩口に視線を落とす。
「……寒くないか」
「大丈夫です」
「外套を――」
「今日は、大丈夫です」
リリアがそう言うと、レオンハルトの手が宙で止まった。
止まって、少しだけ迷う。
その迷いに、リリアは“呪いじゃない何か”を見そうになって、目を逸らした。
その時、エルザが静かに咳払いをした。
そして、誰にも見えない角度で手帳を開く。
*
《観察日誌:本日の甘さ》
・祠へ向かう馬車内:手を繋ぐ(「ずっとだ」発言)
・奥さまを背に隠す:完全防御
・噂への対応:「くだらん噂だ」(※否定しつつ手は離さない)
・帰還後:「当然だ」発言(奥さまへの守護宣言)
総評:甘さ レベル「継続的に危険」
(社交界への被害が拡大中)
*
エルザは手帳を閉じ、何事もなかった顔で言った。
「奥さま、お部屋へ。旦那さまは……本日の執務が山積みでございます」
レオンハルトの目が細くなる。
「後だ」
エルザが微笑む。
「“後で”は三日後になると存じますが」
「……」
レオンハルトが黙った。
エルザは追撃した。
「旦那さま。奥さまは本日、大変お疲れでございます。――お休みの時間を」
レオンハルトが一拍置いて言う。
「……私が見ている」
(まだ言う)
リリアは小さく笑って、肩をすくめた。
「じゃあ、休みます。公爵さまも、休んでくださいね」
その言葉に、レオンハルトの表情が――わずかに崩れかけた。
崩れかけて、戻す。
戻して、硬派の声で言う。
「……命令か」
「提案です」
「……受け入れる」
受け入れるんだ。
リリアは、なんだか可笑しくて、でも嬉しくて、また笑った。
その笑いに、レオンハルトの視線が吸い寄せられる。
そして、呪いみたいに落ちる。
「……笑うな。……心臓に悪い」
「え?」
「……落ち着かない」
またそれ。
リリアは、笑いを止められなかった。
(公爵さま、それは多分……呪いじゃなくて)
その続きを考える前に、廊下の向こうから側近カイルの声が飛んできた。
「旦那さま! 社交界から招待状が――! “夫婦同伴”の晩餐会が、今週だけで七件です!」
七件。
リリアの目が丸くなる。
レオンハルトの目が、鋭く光った。
「破棄しろ」
「できません! “冷徹公爵がデレた記念”という名目で――!」
記念ってなに。
リリアは口元を押さえた。
レオンハルトは、低い声で言った。
「……殺す」
「殺しちゃだめです!」
リリアが反射で止めた瞬間、手首の“金色の糸”が、ふわ、と光った。
――揺れた。
神官長の言葉が、頭をよぎる。
(糸が暴れるのは、危険を感じた時……あるいは、嫉妬した時)
今の、危険?
それとも――嫉妬?
リリアが固まると、レオンハルトも固まった。
そして、二人同時に、ゆっくり視線を落とす。
手首の糸が、蝶結びみたいに揺れている。
カイルが青ざめた声を出す。
「……旦那さま。今の、まさか……」
レオンハルトが、喉の奥で息を飲む。
そして、硬派の顔のまま、言った。
「……違う。呪いだ」
カイルが泣きそうな声で返す。
「どっちでも地獄です……!」
リリアは、なぜかそのやりとりで少しだけ笑ってしまった。
でも――笑いながら、思った。
今週、晩餐会が七件。
夫婦同伴。
社交界の目の前で、過保護と甘い言葉が増える。
そして、糸は揺れやすい。
(……絶対、何か起きる)
リリアがそう確信した瞬間、レオンハルトが、淡々と命じた。
「リリア」
「はい」
「……私から離れるな」
その言葉に、糸がまた、ふわ、と光った。
(つづく)
外の人だかりのざわめきが壁越しにうっすら響いてくるせいもある。けれどそれ以上に、リリアの手首に淡く浮かぶ“金色の糸”が、呼吸みたいにゆらゆらと揺れていた。
神官長が、細い鈴を鳴らす。
ちりん――。
その音に合わせるように、糸がふっと細くなり、また戻る。祠の空気が甘い香りを帯び、暖かい春の風が、冬のはずの森に一瞬だけ通り抜けた。
「では公爵。奥方の手を、握ったまま――はい、そのまま。離さずに」
「……離さない」
レオンハルトの返事は早すぎた。
神官長の眉が少し上がる。
「ええ、とても良い返事です」
リリアは、何となく恥ずかしくなって手元を見た。指が絡んでいる。絡みが、さっきより迷いがない。
(離さないって、そんな即答……)
リリアがもじっとした瞬間、レオンハルトの親指が、落ち着かせるみたいに手の甲を一度だけ撫でた。
――撫でた。
ほんの一度。
ほんの一度なのに、心臓がふわっと浮く。
(熱だ、熱じゃなくて……呪いだ、呪い)
どっちにしても、今のは“症状”ということにしておく。
神官長は淡々と祝詞を唱え、鈴を鳴らし、糸の揺れが少しずつ落ち着いていく。
そして最後に、石の台座に置かれた古い鏡を示した。
「奥方。こちらをご覧ください」
リリアが鏡に顔を寄せる。
すると、鏡の面に――自分の姿ではなく、金色の糸の“結び目”が映った。
蝶結び、みたいに見える。
可愛い。
可愛いのに、なんだか怖い。
「これが……印?」
「ええ。印は“守られる対象”が確定し始めた証。ですが、今はまだ結びが弱い。焦って結びを強める前に、落ち着かせる儀式をして正解でした」
神官長はにっこり。
「そして何より、公爵の反応が良い」
「……反応?」
リリアが聞き返すと、神官長はレオンハルトの手元を見る。
「奥方を守る意志が強い。これほど強いと、放置すれば呪いは早く“定着”します。――解除のためにも、なるべく早く、公爵が自覚して言葉にするのが良いでしょう」
「…………」
レオンハルトが、石になった。
顔は無表情のまま。けれど、喉仏だけがかすかに上下する。
リリアは、ここでやっと理解した。
(この人、“認める”のが本当に苦手なんだ)
苦手というか、怖いに近い。
神官長が言う。
「本日はこれで。次に糸が暴れたら、すぐ来なさい。暴れやすいのは――」
神官長はさらりと言った。
「奥方が危険を感じた時。あるいは、公爵が嫉妬した時」
「……嫉妬?」
リリアが目を丸くする。
隣でレオンハルトが、わずかに目を細めた。
「……しない」
「します」
神官長が即答した。
「呪いが」
「……」
レオンハルトが、ほんの少しだけ悔しそうな顔をした。悔しそう、というより“言い返したいのに言い返せない”顔。
リリアは、妙にそこで安心してしまった。
(よかった。これ、呪いのせいだ)
そう思えば、昨日からの言葉も距離も、“公爵さまの本心”ではない、はず。
……はず。
*
祠を出た瞬間、森の空気が一気に現実へ戻った。
そして現実は、想像以上に騒がしい。
「公爵様ぁぁぁ!」
「奥さま! その手、見せてくださいませ!」
「外套を貸したって本当!?」
「“いい子だ”って言ったの!? 言ったの!?」
「言ったなら責任取ってぇぇぇ!」
どこから仕入れたの、その情報。
リリアの頬が、耳まで真っ赤になった。
レオンハルトは、ため息ひとつ吐かないまま、ひとつだけ動いた。
リリアを、自分の背中側へ――すっと隠す。
そして、低い声で命じた。
「下がれ」
たったそれだけで、空気が一段冷える。
人だかりが一瞬だけ止まり……止まりきらない。
「冷徹が出た!」
「いや、でも奥さま隠してる、優しい!」
「守ってる! 守ってるのよ!」
リリアは、背中越しに顔を覆った。
(むり……王都、情報が速すぎる……)
レオンハルトが小さく言う。
「……耳を塞げ」
「塞ぐには手を離して頂かないと?」
「……」
公爵が黙った。たしかに。
そのまま、彼はリリアの手を引く。
「行く」
「はい……」
人だかりの隙間を抜ける瞬間、誰かが叫んだ。
「公爵様! 奥さまに“愛している”って言ったって本当ですか!」
――それは。
リリアは息を止めた。
レオンハルトは、ぴたりと足を止める。
空気が凍る。
神官長が言っていた“解除条件”の言葉が、森の中に吊るされたみたいに重い。
レオンハルトは、ほんの一瞬だけリリアの方へ視線を落とした。
その視線が、妙にやさしくて、妙に苦しそうで――
リリアは、反射で笑ってしまった。
「……公爵さま、熱のせいです。または呪いです」
小声で、言い訳を渡す。
渡してあげたくなった。
するとレオンハルトは、外に向けて、硬派の声で答えた。
「……くだらん噂だ」
噂、で片づけた。
でも、リリアの手は離さない。
一歩も。
*
馬車に乗り込んだ瞬間、リリアはぷはっと息を吐いた。
「疲れました……」
「……すまない」
「公爵さまが謝るの、珍しいですね」
リリアがそう言うと、レオンハルトは黙る。
黙ってから、ぽつり。
「……君が困るのは、嫌だ」
また出た。
甘い言葉が、本人の意思をすり抜けて落ちるやつ。
リリアは、きゅっと唇を結んだ。
(これ以上、心に入れたらだめ)
だって呪いの副作用だ。契約結婚だ。形式だ。
ここで絆されてしまったら、きっと――いつかの終わりに、立っていられなくなる。
リリアは、話題を変えた。
「公爵さま。呪いって、治療みたいなものですよね?」
「……治療?」
「はい。症状があるなら、対策して、生活を整えて、悪化しないようにする」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「……生活?」
「そうです。まず睡眠。次に水分。あと、栄養。蜂蜜」
「蜂蜜は……」
「効きます」
リリアは断言した。
(呪いにも、きっと効く)
レオンハルトは、少しだけ言葉に詰まった。
そして、心底困った顔を“ほんの一瞬だけ”した。
「……君は、呪いを健康管理に分類するのか」
「分類します」
「……そうか」
レオンハルトは、どこか絶望した声で言った。
「君は強いな」
リリアは笑った。
「強くないですよ。怖いのは怖いです」
「……」
「でも、公爵さまが守ってくれるんですよね?」
さらっと言った。
言ってから、(しまった)と思った。
――“守ってくれる”って、頼ってしまっている。
契約の範囲を超える甘えだ。
でもレオンハルトは、逃げなかった。
逃げずに、いつもの硬い声で言った。
「当然だ」
当然。
当然、って。
リリアは胸の奥がじんわりするのを、必死で“呪いのせい”に押し込めた。
*
公爵邸に戻ると、侍女長エルザが完璧な顔で出迎えた。
「お帰りなさいませ。奥さま、旦那さま」
「ただいまです」
リリアが微笑むと、エルザは一瞬だけ目を柔らかくし――すぐに業務顔へ戻る。
その背後、控えの侍女たちが“完璧に平静な顔”をしているのが逆に怖い。
(絶対、見てたよね。絶対、聞いてたよね)
レオンハルトはリリアの肩口に視線を落とす。
「……寒くないか」
「大丈夫です」
「外套を――」
「今日は、大丈夫です」
リリアがそう言うと、レオンハルトの手が宙で止まった。
止まって、少しだけ迷う。
その迷いに、リリアは“呪いじゃない何か”を見そうになって、目を逸らした。
その時、エルザが静かに咳払いをした。
そして、誰にも見えない角度で手帳を開く。
*
《観察日誌:本日の甘さ》
・祠へ向かう馬車内:手を繋ぐ(「ずっとだ」発言)
・奥さまを背に隠す:完全防御
・噂への対応:「くだらん噂だ」(※否定しつつ手は離さない)
・帰還後:「当然だ」発言(奥さまへの守護宣言)
総評:甘さ レベル「継続的に危険」
(社交界への被害が拡大中)
*
エルザは手帳を閉じ、何事もなかった顔で言った。
「奥さま、お部屋へ。旦那さまは……本日の執務が山積みでございます」
レオンハルトの目が細くなる。
「後だ」
エルザが微笑む。
「“後で”は三日後になると存じますが」
「……」
レオンハルトが黙った。
エルザは追撃した。
「旦那さま。奥さまは本日、大変お疲れでございます。――お休みの時間を」
レオンハルトが一拍置いて言う。
「……私が見ている」
(まだ言う)
リリアは小さく笑って、肩をすくめた。
「じゃあ、休みます。公爵さまも、休んでくださいね」
その言葉に、レオンハルトの表情が――わずかに崩れかけた。
崩れかけて、戻す。
戻して、硬派の声で言う。
「……命令か」
「提案です」
「……受け入れる」
受け入れるんだ。
リリアは、なんだか可笑しくて、でも嬉しくて、また笑った。
その笑いに、レオンハルトの視線が吸い寄せられる。
そして、呪いみたいに落ちる。
「……笑うな。……心臓に悪い」
「え?」
「……落ち着かない」
またそれ。
リリアは、笑いを止められなかった。
(公爵さま、それは多分……呪いじゃなくて)
その続きを考える前に、廊下の向こうから側近カイルの声が飛んできた。
「旦那さま! 社交界から招待状が――! “夫婦同伴”の晩餐会が、今週だけで七件です!」
七件。
リリアの目が丸くなる。
レオンハルトの目が、鋭く光った。
「破棄しろ」
「できません! “冷徹公爵がデレた記念”という名目で――!」
記念ってなに。
リリアは口元を押さえた。
レオンハルトは、低い声で言った。
「……殺す」
「殺しちゃだめです!」
リリアが反射で止めた瞬間、手首の“金色の糸”が、ふわ、と光った。
――揺れた。
神官長の言葉が、頭をよぎる。
(糸が暴れるのは、危険を感じた時……あるいは、嫉妬した時)
今の、危険?
それとも――嫉妬?
リリアが固まると、レオンハルトも固まった。
そして、二人同時に、ゆっくり視線を落とす。
手首の糸が、蝶結びみたいに揺れている。
カイルが青ざめた声を出す。
「……旦那さま。今の、まさか……」
レオンハルトが、喉の奥で息を飲む。
そして、硬派の顔のまま、言った。
「……違う。呪いだ」
カイルが泣きそうな声で返す。
「どっちでも地獄です……!」
リリアは、なぜかそのやりとりで少しだけ笑ってしまった。
でも――笑いながら、思った。
今週、晩餐会が七件。
夫婦同伴。
社交界の目の前で、過保護と甘い言葉が増える。
そして、糸は揺れやすい。
(……絶対、何か起きる)
リリアがそう確信した瞬間、レオンハルトが、淡々と命じた。
「リリア」
「はい」
「……私から離れるな」
その言葉に、糸がまた、ふわ、と光った。
(つづく)
10
あなたにおすすめの小説
エリート医務官は女騎士を徹底的に甘やかしたい
鳥花風星
恋愛
女騎士であるニーナには、ガイアという専属魔術医務官がいる。エリートであり甘いルックスで令嬢たちからモテモテのガイアだが、なぜか浮いた話はなく、結婚もしていない。ニーナも結婚に興味がなく、ガイアは一緒いにいて気楽な存在だった。
とある日、ニーナはガイアから女避けのために契約結婚を持ちかけられる。ちょっと口うるさいただの専属魔術医務官だと思っていたのに、契約結婚を受け入れた途端にガイアの態度は日に日に甘くなっていく。
恐怖侯爵の後妻になったら、「君を愛することはない」と言われまして。
長岡更紗
恋愛
落ちぶれ子爵令嬢の私、レディアが後妻として嫁いだのは──まさかの恐怖侯爵様!
しかも初夜にいきなり「君を愛することはない」なんて言われちゃいましたが?
だけど、あれ? 娘のシャロットは、なんだかすごく懐いてくれるんですけど!
義理の娘と仲良くなった私、侯爵様のこともちょっと気になりはじめて……
もしかして、愛されるチャンスあるかも? なんて思ってたのに。
「前妻は雲隠れした」って噂と、「死んだのよ」って娘の言葉。
しかも使用人たちは全員、口をつぐんでばかり。
ねえ、どうして? 前妻さんに何があったの?
そして、地下から聞こえてくる叫び声は、一体!?
恐怖侯爵の『本当の顔』を知った時。
私の心は、思ってもみなかった方向へ動き出す。
*他サイトにも公開しています
竜帝に捨てられ病気で死んで転生したのに、生まれ変わっても竜帝に気に入られそうです
みゅー
恋愛
シーディは前世の記憶を持っていた。前世では奉公に出された家で竜帝に気に入られ寵姫となるが、竜帝は豪族と婚約すると噂され同時にシーディの部屋へ通うことが減っていった。そんな時に病気になり、シーディは後宮を出ると一人寂しく息を引き取った。
時は流れ、シーディはある村外れの貧しいながらも優しい両親の元に生まれ変わっていた。そんなある日村に竜帝が訪れ、竜帝に見つかるがシーディの生まれ変わりだと気づかれずにすむ。
数日後、運命の乙女を探すためにの同じ年、同じ日に生まれた数人の乙女たちが後宮に召集され、シーディも後宮に呼ばれてしまう。
自分が運命の乙女ではないとわかっているシーディは、とにかく何事もなく村へ帰ることだけを目標に過ごすが……。
はたして本当にシーディは運命の乙女ではないのか、今度の人生で幸せをつかむことができるのか。
短編:竜帝の花嫁 誰にも愛されずに死んだと思ってたのに、生まれ変わったら溺愛されてました
を長編にしたものです。
【完結】気味が悪い子、と呼ばれた私が嫁ぐ事になりまして
まりぃべる
恋愛
フレイチェ=ボーハールツは両親から気味悪い子、と言われ住まいも別々だ。
それは世間一般の方々とは違う、畏怖なる力を持っているから。だが両親はそんなフレイチェを避け、会えば酷い言葉を浴びせる。
そんなフレイチェが、結婚してお相手の方の侯爵家のゴタゴタを収めるお手伝いをし、幸せを掴むそんなお話です。
☆まりぃべるの世界観です。現実世界とは似ていますが違う場合が多々あります。その辺りよろしくお願い致します。
☆現実世界にも似たような名前、場所、などがありますが全く関係ありません。
☆現実にはない言葉(単語)を何となく意味の分かる感じで作り出している場合もあります。
☆楽しんでいただけると幸いです。
☆すみません、ショートショートになっていたので、短編に直しました。
☆すみません読者様よりご指摘頂きまして少し変更した箇所があります。
話がややこしかったかと思います。教えて下さった方本当にありがとうございました!
お堅い公爵様に求婚されたら、溺愛生活が始まりました
群青みどり
恋愛
国に死ぬまで搾取される聖女になるのが嫌で実力を隠していたアイリスは、周囲から無能だと虐げられてきた。
どれだけ酷い目に遭おうが強い精神力で乗り越えてきたアイリスの安らぎの時間は、若き公爵のセピアが神殿に訪れた時だった。
そんなある日、セピアが敵と対峙した時にたまたま近くにいたアイリスは巻き込まれて怪我を負い、気絶してしまう。目が覚めると、顔に傷痕が残ってしまったということで、セピアと婚約を結ばれていた!
「どうか怪我を負わせた責任をとって君と結婚させてほしい」
こんな怪我、聖女の力ですぐ治せるけれど……本物の聖女だとバレたくない!
このまま正体バレして国に搾取される人生を送るか、他の方法を探して婚約破棄をするか。
婚約破棄に向けて悩むアイリスだったが、罪悪感から求婚してきたはずのセピアの溺愛っぷりがすごくて⁉︎
「ずっと、どうやってこの神殿から君を攫おうかと考えていた」
麗しの公爵様は、今日も聖女にしか見せない笑顔を浮かべる──
※タイトル変更しました
女嫌いな辺境伯と歴史狂いの子爵令嬢の、どうしようもなくマイペースな婚姻
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「友好と借金の形に、辺境伯家に嫁いでくれ」
行き遅れの私・マリーリーフに、突然婚約話が持ち上がった。
相手は女嫌いに社交嫌いな若き辺境伯。子爵令嬢の私にはまたとない好条件ではあるけど、相手の人柄が心配……と普通は思うでしょう。
でも私はそんな事より、嫁げば他に時間を取られて大好きな歴史研究に没頭できない事の方が問題!
それでも互いの領地の友好と借金の形として仕方がなく嫁いだ先で、「家の事には何も手出し・口出しするな」と言われて……。
え、「何もしなくていい」?!
じゃあ私、今まで通り、歴史研究してていいの?!
こうして始まる結婚(ただの同居)生活が、普通なわけはなく……?
どうやらプライベートな時間はずっと剣を振っていたい旦那様と、ずっと歴史に浸っていたい私。
二人が歩み寄る日は、来るのか。
得意分野が文と武でかけ離れている二人だけど、マイペース過ぎるところは、どこか似ている?
意外とお似合いなのかもしれません。笑
家族から邪魔者扱いされた私が契約婚した宰相閣下、実は完璧すぎるスパダリでした。仕事も家事も甘やかしも全部こなしてきます
さら
恋愛
家族から「邪魔者」扱いされ、行き場を失った伯爵令嬢レイナ。
望まぬ結婚から逃げ出したはずの彼女が出会ったのは――冷徹無比と恐れられる宰相閣下アルベルト。
「契約でいい。君を妻として迎える」
そう告げられ始まった仮初めの結婚生活。
けれど、彼は噂とはまるで違っていた。
政務を完璧にこなし、家事も器用に手伝い、そして――妻をとことん甘やかす完璧なスパダリだったのだ。
「君はもう“邪魔者”ではない。私の誇りだ」
契約から始まった関係は、やがて真実の絆へ。
陰謀や噂に立ち向かいながら、互いを支え合う二人は、次第に心から惹かれ合っていく。
これは、冷徹宰相×追放令嬢の“契約婚”からはじまる、甘々すぎる愛の物語。
指輪に誓う未来は――永遠の「夫婦」。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる