『呪いのせいで愛妻家になった公爵様は、もう冷徹を名乗れない(天然妻は気づかない)』

星乃和花

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第9話 廊下で遭難する奥さま→公爵の“本能GPS”が発動する

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リリアは、会場の廊下を早足で進んでいた。

晩餐会のホールから離れると、空気が少し薄くなる。音も遠くなる。壁の絵画がやたら立派で、廊下がやたら長い。

(……どっちだっけ)

今さらだけど、会場の構造を把握していない。

侍女長エルザを呼ぶつもりだったのに、どの扉が控室で、どの廊下が使用人通路か、まったくわからない。

五分。四分。三分。

(公爵さま、今頃、秒で数えてる……)

リリアは胸の前で手を握った。

――その手首が、少しだけ熱い。

糸が見えないのに、糸の“気配”だけがする。

(落ち着け、落ち着け……)

侍女長の顔を思い浮かべる。冷静で完璧で、手帳が怖い人。

でも、どこにいるんだろう。

角を曲がった瞬間、リリアはやっと“人の気配”に気づいた。

暗がりの柱の影に、誰かが立っている。

背が高くて、黒い礼服。見慣れた輪郭――

(あ、公爵さま……)

そう思ったのに。

違った。

黒い礼服は礼服でも、刺繍が派手で、香水が強い。

相手は笑った。

「夫人。迷子ですか?」

甘い声。

エドワードだった。

(うそ……ついてきた……)

リリアは一歩下がり、背中が壁に当たった。

「だ、大丈夫です。侍女長を探していて……」

「その必要はありません。少しお話を」

エドワードの笑みは、上品で、柔らかいのに――どこか“逃がさない”種類の優しさを含んでいる。

リリアは、無意識に手首を押さえた。

押さえた瞬間――

糸が、きゅっと熱を持った。

(やばい)

神官長の言葉がまた刺さる。

――奥方が危険を感じた時。

今、危険を感じた。社交界の貴公子相手なのに、“危険”って感じてしまった。

自分の直感が、今日いちばん頼もしい。

「夫人。あなた、本当に呪いだと思っているのですか?」

エドワードが、さらりと言った。

リリアは目を瞬いた。

「……え?」

「冷徹公爵があなたに見せるもの。あれは呪いではなく――」

「呪いです」

リリアは反射で言い切ってしまった。

言い切った瞬間、自分でも驚いた。

(私、なんでこんなに必死……?)

エドワードは、少しだけ目を細める。

「……夫人。あなたは、優しい。だからこそ、言い訳を作っているだけでは?」

言い訳。

その単語が、胸の奥に刺さる。

(言い訳……)

そうかもしれない。

呪いだと分類すれば、甘い言葉も距離も、心に入れずに済む。

契約の妻として、最後に立っていられる。

でも、今。

この廊下で、エドワードに“それは本心だ”と言われるのは――怖い。

リリアは、息を吸った。

「……私は、契約の妻です」

エドワードが、ふっと笑った。

「契約は、破れますよ」

「破れません」

「公爵が望めば」

その言葉の瞬間。

手首の糸が、びりっと熱を増した。

(だめ、だめだめ)

“公爵が望めば”なんて、言葉は危険すぎる。

リリアは一歩前に出ようとして――エドワードが、さりげなく道を塞いだ。

優雅な仕草で、逃げ道を消す。

「夫人、聞いてください。私は――」

「不許可だ」

氷みたいな声が落ちた。

リリアの背中に、ぶわっと安心が広がる。

振り返ると、そこにいた。

レオンハルト。

冷徹公爵の顔で。

そして、目だけが――獣。

エドワードが肩をすくめる。

「公爵。夫人はここで迷っていた。助けただけです」

「助けは不要だ」

「夫人が、そう言いましたか?」

エドワードが、わざとらしくリリアを見る。

リリアは、答え方を間違えると糸が暴れると分かっていた。

でも、正直に言う。

「……少し、怖かったです」

言った瞬間、糸がふわっと熱くなる。

(やっぱり、危険判定……)

レオンハルトの空気が、一段冷える。

会場の壁紙が凍りそうなくらい冷える。

レオンハルトは、短く言った。

「離れろ」

「命令ですか?」

「命令だ」

即答。

エドワードは、にこやかに頭を下げる。

「承知しました。――夫人。またいつか」

去り際の言葉が、なぜか“予告”みたいで不気味だった。

エドワードが去ると、廊下が急に静かになる。

静かになった瞬間、リリアは膝が少しだけ緩んだ。

(助かった……)

でも、次の瞬間。

レオンハルトがリリアの前に来て、手を取った。

ぎゅ。

強い。

痛くないけど、強い。

「……離れるな」

「……離れてないです」

「離れた」

「それは……私が……」

「離れた」

二回目。

言い方が、責めているようで、責めていない。

怖がっているだけだ。

リリアは、胸がきゅっとなる。

「ごめんなさい。すぐ戻るって言ったのに」

レオンハルトの喉が、ぐ、と動く。

そして、絞るみたいに言った。

「……待てなかった」

その言葉が、人間だった。

冷徹じゃなくて。

呪いでもなくて。

ただ、ひとりの男の“弱さ”。

リリアは、言葉を選んだ。

「……待てないなら、次は一緒に来てください」

「当然だ」

即答。

そして彼は、リリアの肩に自分の上着をかけようとして――止まる。

止まって、苦しそうに息を吐いた。

「……燃料」

「はい。燃料です」

リリアが真面目に頷くと、レオンハルトは、なぜか目を細めた。

それは、笑いに近い。

ほんの一瞬だけ。

「……お前は変だ」

「よく言われます」

「……嫌いではない」

危ない。

危ない言葉が来た。

リリアは慌てて、咳払いをした。

「えっと! 侍女長、探しましょう」

「不要だ」

「え?」

「もう戻る」

「戻る……?」

レオンハルトは、リリアの手を引いて歩き出した。

歩き出しながら、低く言う。

「……帰る」

「晩餐会、途中ですけど……」

「帰る」

二回目。

言い切った。

リリアは目を丸くした。

「でも外交が――」

「外交より」

レオンハルトが言いかけて止まる。

止まった瞬間、糸がふわっと熱くなる。

(今、言いかけたの、何……)

レオンハルトは、苦しそうに言い換えた。

「……治安だ」

「治安……」

「君の治安」

治安って、何。

リリアはもう笑うしかない。

「私、治安になりました」

「なった」

「なったんだ……」

二人の足音が、廊下に響く。

会場の入口に近づくほど、ざわめきが戻ってくる。

戻ってくるざわめきの中で、誰かが叫んだ。

「あっ! 冷徹公爵が奥さまを連れて退出――!」

「逃走だ! 愛妻家の逃走だ!」

逃走。

その単語が、やけに正しかった。

レオンハルトは、耳に入っていないふりをしながら、リリアの手を握り直した。

そして、最後に小さく言った。

「……次は、逃がさない」

リリアの心臓が跳ねた。

(それ、呪い?)

呪いだと、思いたい。

でも。

あまりに――本気の声だった。

(つづく)
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