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第十六話 「名前」
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私
「あります」
彼がそう言った“明日”は、ちゃんと来た。
表はほどほどに忙しくて、奥は静かで、外は少し冷たい。
そして私は、朝からずっと、胸の奥がそわそわしていた。
理由は分かっている。
昨日、彼の中に“次”が生まれた気配がしたから。
迎え、合図、休憩、触れていい?――
彼は主導を、少しずつ“言い訳なし”にしてきた。
次に来るのは、たぶん、もっと確定するもの。
私は表でお客さんに笑って、カップを洗って、棚を整えながら、ふと手首のバンドを指で触れた。
そこにある柔らかさが、今日も私を落ち着かせる。
(落ち着いたら、来て)
最近は付箋が置かれない日もある。
でも、私のバッグには付箋束が入っている。
彼がくれた“共有の合図”がある。
だから私は自分で一枚取り出して、短く書いた。
今日は、外の予約、ありますか?
書いたあとで、少し笑ってしまった。
“予約”って、言葉がもう二人の間で温かい。
奥へ行って、机の端に置く。
彼はすぐにそれを見て、頷いた。
「……あります」
その即答が、嬉しかった。
そして、作業はいつもより短く切り上げられた。
彼の主導で。
「……今日は、外を優先します」
「うん」
“優先順位”が、私にも彼にもちゃんと作用している。
*
外に出ると、思ったより人が多かった。
夕方の小さな混雑。
彼は一瞬だけ呼吸が浅くなって、それから私の手首のバンドに軽く触れた。
合図。
私は頷いて、近づいた。
「受け取った」
彼も頷き、歩き出す。
今日は公園じゃなく、昨日のパン屋の並びの、もっと静かな道。
しばらく歩いて、ふと信号で止まったとき。
彼の足が、少しだけ迷った。
行き先の迷いじゃない。
言葉の迷い。
彼の指先が、私の袖口の布をそっとつまむ。
触れない触れ方。
そして、低い声で、ぽつりと落ちた。
「……」
言いかけて、止まる。
私は横顔を見た。
彼の目は前を向いているのに、耳が少し赤い。
息を吸って、また止まる。
――来る。
私は追い詰めない。
でも、逃げ道だけにしないように、静かに枠を置く。
「ここ、今、言いたいことある?」
彼の喉が小さく動く。
「……あります」
あります。
即答なのに、声が震えていない。
怖いのに、決めている。
信号が青になる。
歩き出すと同時に、彼が言った。
「……名前で、呼んでもいいですか」
胸が、ぎゅっと縮む。
嬉しいと怖いが同時に来る。
“触れてもいい?”より、重い。
もっと確定する。
私は笑って、でも目はまっすぐにして頷いた。
「うん。いいよ」
彼が一瞬だけ、息を止めたみたいに見えた。
それから、ほんの小さな声で。
「……真理子」
私は足が止まりそうになって、慌てて呼吸を整えた。
名前って、こんなに刺さるんだ。
自分のものなのに、彼の声で言われると、別物になる。
私は口角を上げる。
「うん」
それだけしか言えなかった。
言いすぎると、彼が怖がる気がしたから。
でも“嬉しい”は言う。
私は歩きながら、少し遅れて言った。
「……嬉しい」
彼の指先が、袖口を少しだけ強くつまんだ。
強く、といっても、引っ張らない程度。
でも、離したくないのが伝わる。
「……嬉しい、ですか」
「うん。嬉しい。名前で呼ばれるの、好き」
好き、まで言ってしまった。
言い過ぎたかも、と胸が跳ねる。
けれど彼は逃げなかった。
ただ、少しだけ顔を背けて、低い声で言った。
「……増えます」
また増える。
彼の中の今日の分が。
私は笑って言った。
「うん、増やそう」
「あります」
彼がそう言った“明日”は、ちゃんと来た。
表はほどほどに忙しくて、奥は静かで、外は少し冷たい。
そして私は、朝からずっと、胸の奥がそわそわしていた。
理由は分かっている。
昨日、彼の中に“次”が生まれた気配がしたから。
迎え、合図、休憩、触れていい?――
彼は主導を、少しずつ“言い訳なし”にしてきた。
次に来るのは、たぶん、もっと確定するもの。
私は表でお客さんに笑って、カップを洗って、棚を整えながら、ふと手首のバンドを指で触れた。
そこにある柔らかさが、今日も私を落ち着かせる。
(落ち着いたら、来て)
最近は付箋が置かれない日もある。
でも、私のバッグには付箋束が入っている。
彼がくれた“共有の合図”がある。
だから私は自分で一枚取り出して、短く書いた。
今日は、外の予約、ありますか?
書いたあとで、少し笑ってしまった。
“予約”って、言葉がもう二人の間で温かい。
奥へ行って、机の端に置く。
彼はすぐにそれを見て、頷いた。
「……あります」
その即答が、嬉しかった。
そして、作業はいつもより短く切り上げられた。
彼の主導で。
「……今日は、外を優先します」
「うん」
“優先順位”が、私にも彼にもちゃんと作用している。
*
外に出ると、思ったより人が多かった。
夕方の小さな混雑。
彼は一瞬だけ呼吸が浅くなって、それから私の手首のバンドに軽く触れた。
合図。
私は頷いて、近づいた。
「受け取った」
彼も頷き、歩き出す。
今日は公園じゃなく、昨日のパン屋の並びの、もっと静かな道。
しばらく歩いて、ふと信号で止まったとき。
彼の足が、少しだけ迷った。
行き先の迷いじゃない。
言葉の迷い。
彼の指先が、私の袖口の布をそっとつまむ。
触れない触れ方。
そして、低い声で、ぽつりと落ちた。
「……」
言いかけて、止まる。
私は横顔を見た。
彼の目は前を向いているのに、耳が少し赤い。
息を吸って、また止まる。
――来る。
私は追い詰めない。
でも、逃げ道だけにしないように、静かに枠を置く。
「ここ、今、言いたいことある?」
彼の喉が小さく動く。
「……あります」
あります。
即答なのに、声が震えていない。
怖いのに、決めている。
信号が青になる。
歩き出すと同時に、彼が言った。
「……名前で、呼んでもいいですか」
胸が、ぎゅっと縮む。
嬉しいと怖いが同時に来る。
“触れてもいい?”より、重い。
もっと確定する。
私は笑って、でも目はまっすぐにして頷いた。
「うん。いいよ」
彼が一瞬だけ、息を止めたみたいに見えた。
それから、ほんの小さな声で。
「……真理子」
私は足が止まりそうになって、慌てて呼吸を整えた。
名前って、こんなに刺さるんだ。
自分のものなのに、彼の声で言われると、別物になる。
私は口角を上げる。
「うん」
それだけしか言えなかった。
言いすぎると、彼が怖がる気がしたから。
でも“嬉しい”は言う。
私は歩きながら、少し遅れて言った。
「……嬉しい」
彼の指先が、袖口を少しだけ強くつまんだ。
強く、といっても、引っ張らない程度。
でも、離したくないのが伝わる。
「……嬉しい、ですか」
「うん。嬉しい。名前で呼ばれるの、好き」
好き、まで言ってしまった。
言い過ぎたかも、と胸が跳ねる。
けれど彼は逃げなかった。
ただ、少しだけ顔を背けて、低い声で言った。
「……増えます」
また増える。
彼の中の今日の分が。
私は笑って言った。
「うん、増やそう」
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