今日の分を、あなたに

星乃和花

文字の大きさ
42 / 54
第十六話 「名前」

1/3

しおりを挟む


「あります」

彼がそう言った“明日”は、ちゃんと来た。
表はほどほどに忙しくて、奥は静かで、外は少し冷たい。

そして私は、朝からずっと、胸の奥がそわそわしていた。

理由は分かっている。
昨日、彼の中に“次”が生まれた気配がしたから。

迎え、合図、休憩、触れていい?――
彼は主導を、少しずつ“言い訳なし”にしてきた。

次に来るのは、たぶん、もっと確定するもの。

私は表でお客さんに笑って、カップを洗って、棚を整えながら、ふと手首のバンドを指で触れた。
そこにある柔らかさが、今日も私を落ち着かせる。

(落ち着いたら、来て)

最近は付箋が置かれない日もある。
でも、私のバッグには付箋束が入っている。
彼がくれた“共有の合図”がある。

だから私は自分で一枚取り出して、短く書いた。

今日は、外の予約、ありますか?

書いたあとで、少し笑ってしまった。
“予約”って、言葉がもう二人の間で温かい。

奥へ行って、机の端に置く。

彼はすぐにそれを見て、頷いた。

「……あります」

その即答が、嬉しかった。

そして、作業はいつもより短く切り上げられた。
彼の主導で。

「……今日は、外を優先します」

「うん」

“優先順位”が、私にも彼にもちゃんと作用している。



外に出ると、思ったより人が多かった。
夕方の小さな混雑。
彼は一瞬だけ呼吸が浅くなって、それから私の手首のバンドに軽く触れた。

合図。

私は頷いて、近づいた。

「受け取った」

彼も頷き、歩き出す。
今日は公園じゃなく、昨日のパン屋の並びの、もっと静かな道。

しばらく歩いて、ふと信号で止まったとき。
彼の足が、少しだけ迷った。

行き先の迷いじゃない。
言葉の迷い。

彼の指先が、私の袖口の布をそっとつまむ。
触れない触れ方。

そして、低い声で、ぽつりと落ちた。

「……」

言いかけて、止まる。

私は横顔を見た。
彼の目は前を向いているのに、耳が少し赤い。
息を吸って、また止まる。

――来る。

私は追い詰めない。
でも、逃げ道だけにしないように、静かに枠を置く。

「ここ、今、言いたいことある?」

彼の喉が小さく動く。

「……あります」

あります。
即答なのに、声が震えていない。
怖いのに、決めている。

信号が青になる。
歩き出すと同時に、彼が言った。

「……名前で、呼んでもいいですか」

胸が、ぎゅっと縮む。
嬉しいと怖いが同時に来る。

“触れてもいい?”より、重い。
もっと確定する。

私は笑って、でも目はまっすぐにして頷いた。

「うん。いいよ」

彼が一瞬だけ、息を止めたみたいに見えた。

それから、ほんの小さな声で。

「……真理子」

私は足が止まりそうになって、慌てて呼吸を整えた。
名前って、こんなに刺さるんだ。
自分のものなのに、彼の声で言われると、別物になる。

私は口角を上げる。

「うん」

それだけしか言えなかった。
言いすぎると、彼が怖がる気がしたから。

でも“嬉しい”は言う。

私は歩きながら、少し遅れて言った。

「……嬉しい」

彼の指先が、袖口を少しだけ強くつまんだ。
強く、といっても、引っ張らない程度。
でも、離したくないのが伝わる。

「……嬉しい、ですか」

「うん。嬉しい。名前で呼ばれるの、好き」

好き、まで言ってしまった。
言い過ぎたかも、と胸が跳ねる。

けれど彼は逃げなかった。

ただ、少しだけ顔を背けて、低い声で言った。

「……増えます」

また増える。
彼の中の今日の分が。

私は笑って言った。

「うん、増やそう」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...