今日の分を、あなたに

星乃和花

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第二十話 「今日の分の名前」

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砂時計が落ち切ったあと、彼女は表に戻った。
背中が少しだけ軽く見えた。

迎えられた。
それだけで、今日の分の半分は満たされる。

でも僕は、最近、満たされ方が変わってきた。

迎えたい。
触れたい。
呼びたい。
そして――言いたい。

“今日の分”を、僕はずっと曖昧にしていた。
曖昧にしていれば、失う怖さも薄くなる。
名前をつけたら、確定してしまう。

確定は怖い。
でも、曖昧なままでも、僕はもう落ち着けなくなってきた。

足りない。
足りないから、合図が増えた。
付箋が増えた。
手が繋がった。
名前で呼び合うようになった。

なら、次は。

名前をつけたい。

――今日の分の名前を。

夜、店が閉まる前の静かな時間。
表の最後のお客さんが帰り、鍵の音が遠くで鳴る。

彼女が奥へ来た。
今日の分の、最後。

カップは二つ。湯の温度はちょうどいい。
部屋の空気も、ちょうどいい。

彼女が椅子に座り、両手でカップを包んだ。

「今日、助かった」

彼女が言う。

「表に来てくれたの、ほんとに」

僕は頷いた。

「……迎えでした」

彼女が笑う。

「うん。迎えだった」

その言葉の往復が、もう自然だ。

沈黙が少し落ちる。
僕はその沈黙の中で、言葉を用意した。

言葉を用意するのは、ずるい。
でも僕は臆病だから、準備が必要だ。

僕は手帳を開いて、一枚の付箋を挟んだ場所を見た。
彼女が書いた“玲央、大丈夫”。

その文字を見ると、胸が少し落ち着く。

僕は顔を上げて、言った。

「……今日の分」

彼女が目を上げる。

「うん」

僕は続ける。

「……今日の分って、僕の中ではずっと、“迎え”でした」

迎え。
合図。
休憩。
それで十分だと思っていた。

でも今は、十分じゃない。

僕は息を吸って、言い切った。

「……会いたい、です」

会いたい。

言った瞬間、胸の奥が熱くなる。
怖い。
でも、嘘じゃない。

彼女の目が少しだけ大きくなる。
でも、困った顔をしない。

彼女はゆっくり頷いた。

「うん」

たったそれだけなのに、胸がほどける。

僕は、もう一歩だけ主導を置く。

「……会いたいから、迎えたいし、触れたいし、呼びたいです」

欲を並べるのは怖い。
でも今日は、逃げたくなかった。

彼女がカップを机に置いて、少しだけ身を乗り出した。

「玲央」

名前。

「それ、すごく……いいね」

いいね。
軽い言葉。
でも嬉しい。

彼女は続けた。

「今日の分って、私もずっと“必要”って言葉で済ませてた」

必要。
彼がよく使う言葉。

「でも、本当は」

彼女が息を整えて言った。

「会いたかった」

会いたかった。

過去形なのに、今に触れる言葉。

僕の喉が詰まりそうになる。
でも逃げない。

「……会いたい、って」

僕が呟くと、彼女は頷いた。

「うん。会いたい」

同じ言葉が返ってくる。

それだけで、僕の中の“これからも”が少しだけ現実になる。

僕は手を伸ばした。
条件の確認をする。

「……今、いいですか」

彼女が笑って頷く。

「うん。いいよ」

僕は彼女の手を取った。
今日は指を絡めない。
ただ包む。
包むだけで十分だった。

僕は低い声で言った。

「……帰る場所に、してもいいですか」

帰る場所。
家じゃない。
でも僕にとって、家の代わりになるもの。

言った瞬間、怖い。
重い。
縛りになる。
困らせる。

でも彼女は、軽く笑って、でも目はまっすぐにして言った。

「うん。していい」

軽いのに、確定している。

彼女は続けた。

「私も、帰る場所にしたい」

帰る場所にしたい。
欲が、彼女の口から出た。

僕の胸の奥が、静かに温かくなる。

僕は言った。

「……じゃあ、今日の分の名前は」

彼女が首を傾げる。

「うん」

僕は少しだけ笑ってしまった。
笑うと逃げる癖があるのに、今日は逃げなかった。

「……会いたい、です」

今日の分の名前。
それが、僕たちの合図。

彼女が笑って頷く。

「うん。会いたい」

同じ言葉が、確定になる。
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