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第1話 優しい人ほど、好きになるのが怖い(私)
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雨の日の編集部は、紙の匂いが濃くなる。
古いビルの三階。窓の外で濡れた街がぼんやり光っていて、机の上ではゲラが白く反射している。誰かが淹れたコーヒーの苦い香りと、インクと、少し湿った空気。私はその全部の中で、いつもより静かに呼吸していた。
理由は簡単で――今日は締切が、ひとつ多い。
「大丈夫?」
隣の席の先輩が、モニターから目を離さないまま声をかけてくる。
「大丈夫です」
私は反射みたいに笑って答えた。大丈夫、って言うのは得意だ。大丈夫じゃないときほど、よく出てくる言葉だと自分で知っているのに。
「終電、間に合う?」
「たぶん!」
“たぶん”の部分は、喉の奥に置いてきた。置いてきたままの言葉が重くなる前に、私は立ち上がって資料室に向かう。紙の束を抱える自分の姿は、たぶん“頑張ってる人”に見えるはずだ。そう見えていれば、嫌われない。
資料室の扉は、少しだけ重い。開けた瞬間、冷えた空気が頬に当たる。ここはエアコンが効きすぎていて、いつも少し寒い。なのに私は、ここが好きだった。棚が整然としていて、埃の匂いが規則的で、誰にも見られていない感じがする。
――誰にも、見られていない。
そう思った瞬間だった。
「寒いところ、すみません」
背後から、低い声が落ちてきた。
驚いて振り向くと、扉のところに彼が立っていた。先週、うちの編集部に配属になったばかりの人。名字は確か、瀬尾(せお)さん。背が高くて、スーツが無駄なく整っていて、いつも必要以上のことを言わない。
言わないのに、こちらをよく見ている人。
「い、いえ。私、ただ資料を……」
説明しながら、腕の中の本を落としそうになって、慌てて抱え直す。背表紙が手の中で滑って、紙の角が指に食い込んだ。
その瞬間、瀬尾さんが一歩だけ近づいた。
近づいたのに、距離はちゃんと残してくる。手だけ伸ばして、私の腕の外側にふれないように、本の山の下を支える。
「持ちます」
「えっ……」
「嫌ならやめます」
彼はそう言ってから、私の顔を見た。真正面じゃなくて、目元のあたり。人が怖がらない角度を、知っているみたいな視線。
私は、反射で首を振った。
「い、嫌じゃないです。全然……」
口に出した瞬間、自分の声が少し高いことに気づいて恥ずかしくなる。嫌じゃない。嫌じゃないけど――こういうとき、私はいつも「嫌じゃない」を先に言ってしまう。
“嫌じゃない”って言えば、誰も困らないから。
瀬尾さんは本を半分受け取って、私より少し前を歩いた。資料室の床は古くて、歩くたびに控えめな音がする。彼の靴音はそれよりもっと静かで、まるで最初からここにいたみたいに馴染んでいた。
「どれを探してるんですか」
「えっと、先月号の……写真素材の出典確認で……」
「この棚です」
迷う前に、彼が立ち止まる。棚の一角を指差す手が、必要なところだけを示している。無駄がないのに、冷たくない。そういう人って、いるんだ、と思った。
私は、彼の指の先を見るだけで胸の奥が少しだけ落ち着いた。落ち着くのが、怖かった。
落ち着いてしまったら、きっと私は――彼に頼ってしまう。
頼ってしまったら、嫌われる。
私の頭の中には、いつもその順番がある。好きになる前に、嫌われる未来が先に見える。だから“頑張る”。だから“大丈夫”。
「ありがとうございます。あの、瀬尾さん、資料室の場所、もう覚えたんですね」
私は軽い雑談みたいに言って、笑った。笑いながら、胸の奥のざわざわをごまかす。
瀬尾さんはほんの少しだけ眉を上げた。
「この部屋は、寒い」
それだけ言って、棚から一冊を抜き取って私に渡した。
「これです。出典の欄、付箋が残ってます」
彼の指が付箋の端をそっと押さえていた。破れないように。剥がれないように。力が均一で、丁寧で、――優しい。
私は受け取りながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。資料室の空気は冷たいのに、どうして。
「……すごい。助かりました」
「いえ」
瀬尾さんはそれ以上、何も言わない。言わないけれど、私がページを開いて確認する間、急かさずに待っている。待つ姿勢が、なぜか“許可”みたいに見えた。
私は、自分の指先が少し震えていることに気づいて、隠すようにページを押さえる。
大丈夫。落ち着いて。深呼吸。
“嫌われないように”って思うと、うまく呼吸ができなくなるのに、彼の前だと逆に息が入ってくる。それが、怖い。
「ここ、出典番号が違ってますね」
私が小さく呟くと、瀬尾さんが頷いた。
「修正、必要です」
「はい。戻って、先輩に……」
「戻りましょう」
彼はそう言って、私が抱え直そうとした本の山をまた半分持った。さっきと同じ。必要なだけ、近く。ふれないように、近く。
廊下に出ると、編集部のざわめきが戻ってくる。電話の声、キーボードの音、紙の擦れる音。いつものはずなのに、今の私は、耳が少しだけ澄んでいる。
「瀬尾さん、あの……忙しいのに、すみません」
私は歩きながら言った。すみませんは、私の武器だ。先に謝っておけば、迷惑だと思われにくい。
でも瀬尾さんは、首を横に振った。
「迷惑ではないです」
言い切る声は淡々としていた。淡々としているのに、私の胸が勝手に信じてしまいそうになる。
「それに、あなた一人で抱える量じゃない」
私は、言葉を失った。
一人で抱える量じゃない――そんなふうに言われたことが、いつぶりだろう。頑張るのが当たり前で、頑張ってる人は“偉い”って扱われるけど、頑張らなくていいって言われることは、少ない。
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……私、平気です」
口から出たのは、またその言葉だった。
瀬尾さんは足を止めなかった。止めなかったけれど、歩幅がほんの少しだけ、私に合わせて小さくなった。
「平気、は」
彼が言いかけて、そこで一度黙る。黙ってから、言い直すみたいに続けた。
「……今は、そう言うしかないことが多いですよね」
その言い方が、責めるんじゃなくて、理解しているみたいで。私は、胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
編集部の入口が見える。机の並び。先輩の背中。戻ればまた、いつもの私に戻れる。
戻れるのに――戻りたくない、と思ってしまった。
怖い。怖いのに、離れがたい。
瀬尾さんが本を置き、私に目を向けた。
「出典、先に直しておきます。あなたは先輩に報告だけしてください」
「え、でも……」
「順番です」
順番。
その二文字が、妙に優しく響いた。恋じゃなくて仕事の話のはずなのに、胸がきゅっと締まる。彼は「助ける」を、押しつけじゃなく、手順にして差し出してくる。
私は、頷いてしまった。
「……ありがとうございます」
先輩のところへ歩きながら、私は何度も自分に言い聞かせる。
勘違いしない。好きにならない。頼らない。嫌われないように。
それなのに、背中に残った彼の気配が、温度みたいに消えない。
この人は、優しい。優しい人ほど、怖い。
好きになったら、きっと私は――上手に嘘がつけなくなる。
そんな予感が、雨の匂いより確かなものとして胸に降り積もっていった。
古いビルの三階。窓の外で濡れた街がぼんやり光っていて、机の上ではゲラが白く反射している。誰かが淹れたコーヒーの苦い香りと、インクと、少し湿った空気。私はその全部の中で、いつもより静かに呼吸していた。
理由は簡単で――今日は締切が、ひとつ多い。
「大丈夫?」
隣の席の先輩が、モニターから目を離さないまま声をかけてくる。
「大丈夫です」
私は反射みたいに笑って答えた。大丈夫、って言うのは得意だ。大丈夫じゃないときほど、よく出てくる言葉だと自分で知っているのに。
「終電、間に合う?」
「たぶん!」
“たぶん”の部分は、喉の奥に置いてきた。置いてきたままの言葉が重くなる前に、私は立ち上がって資料室に向かう。紙の束を抱える自分の姿は、たぶん“頑張ってる人”に見えるはずだ。そう見えていれば、嫌われない。
資料室の扉は、少しだけ重い。開けた瞬間、冷えた空気が頬に当たる。ここはエアコンが効きすぎていて、いつも少し寒い。なのに私は、ここが好きだった。棚が整然としていて、埃の匂いが規則的で、誰にも見られていない感じがする。
――誰にも、見られていない。
そう思った瞬間だった。
「寒いところ、すみません」
背後から、低い声が落ちてきた。
驚いて振り向くと、扉のところに彼が立っていた。先週、うちの編集部に配属になったばかりの人。名字は確か、瀬尾(せお)さん。背が高くて、スーツが無駄なく整っていて、いつも必要以上のことを言わない。
言わないのに、こちらをよく見ている人。
「い、いえ。私、ただ資料を……」
説明しながら、腕の中の本を落としそうになって、慌てて抱え直す。背表紙が手の中で滑って、紙の角が指に食い込んだ。
その瞬間、瀬尾さんが一歩だけ近づいた。
近づいたのに、距離はちゃんと残してくる。手だけ伸ばして、私の腕の外側にふれないように、本の山の下を支える。
「持ちます」
「えっ……」
「嫌ならやめます」
彼はそう言ってから、私の顔を見た。真正面じゃなくて、目元のあたり。人が怖がらない角度を、知っているみたいな視線。
私は、反射で首を振った。
「い、嫌じゃないです。全然……」
口に出した瞬間、自分の声が少し高いことに気づいて恥ずかしくなる。嫌じゃない。嫌じゃないけど――こういうとき、私はいつも「嫌じゃない」を先に言ってしまう。
“嫌じゃない”って言えば、誰も困らないから。
瀬尾さんは本を半分受け取って、私より少し前を歩いた。資料室の床は古くて、歩くたびに控えめな音がする。彼の靴音はそれよりもっと静かで、まるで最初からここにいたみたいに馴染んでいた。
「どれを探してるんですか」
「えっと、先月号の……写真素材の出典確認で……」
「この棚です」
迷う前に、彼が立ち止まる。棚の一角を指差す手が、必要なところだけを示している。無駄がないのに、冷たくない。そういう人って、いるんだ、と思った。
私は、彼の指の先を見るだけで胸の奥が少しだけ落ち着いた。落ち着くのが、怖かった。
落ち着いてしまったら、きっと私は――彼に頼ってしまう。
頼ってしまったら、嫌われる。
私の頭の中には、いつもその順番がある。好きになる前に、嫌われる未来が先に見える。だから“頑張る”。だから“大丈夫”。
「ありがとうございます。あの、瀬尾さん、資料室の場所、もう覚えたんですね」
私は軽い雑談みたいに言って、笑った。笑いながら、胸の奥のざわざわをごまかす。
瀬尾さんはほんの少しだけ眉を上げた。
「この部屋は、寒い」
それだけ言って、棚から一冊を抜き取って私に渡した。
「これです。出典の欄、付箋が残ってます」
彼の指が付箋の端をそっと押さえていた。破れないように。剥がれないように。力が均一で、丁寧で、――優しい。
私は受け取りながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。資料室の空気は冷たいのに、どうして。
「……すごい。助かりました」
「いえ」
瀬尾さんはそれ以上、何も言わない。言わないけれど、私がページを開いて確認する間、急かさずに待っている。待つ姿勢が、なぜか“許可”みたいに見えた。
私は、自分の指先が少し震えていることに気づいて、隠すようにページを押さえる。
大丈夫。落ち着いて。深呼吸。
“嫌われないように”って思うと、うまく呼吸ができなくなるのに、彼の前だと逆に息が入ってくる。それが、怖い。
「ここ、出典番号が違ってますね」
私が小さく呟くと、瀬尾さんが頷いた。
「修正、必要です」
「はい。戻って、先輩に……」
「戻りましょう」
彼はそう言って、私が抱え直そうとした本の山をまた半分持った。さっきと同じ。必要なだけ、近く。ふれないように、近く。
廊下に出ると、編集部のざわめきが戻ってくる。電話の声、キーボードの音、紙の擦れる音。いつものはずなのに、今の私は、耳が少しだけ澄んでいる。
「瀬尾さん、あの……忙しいのに、すみません」
私は歩きながら言った。すみませんは、私の武器だ。先に謝っておけば、迷惑だと思われにくい。
でも瀬尾さんは、首を横に振った。
「迷惑ではないです」
言い切る声は淡々としていた。淡々としているのに、私の胸が勝手に信じてしまいそうになる。
「それに、あなた一人で抱える量じゃない」
私は、言葉を失った。
一人で抱える量じゃない――そんなふうに言われたことが、いつぶりだろう。頑張るのが当たり前で、頑張ってる人は“偉い”って扱われるけど、頑張らなくていいって言われることは、少ない。
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……私、平気です」
口から出たのは、またその言葉だった。
瀬尾さんは足を止めなかった。止めなかったけれど、歩幅がほんの少しだけ、私に合わせて小さくなった。
「平気、は」
彼が言いかけて、そこで一度黙る。黙ってから、言い直すみたいに続けた。
「……今は、そう言うしかないことが多いですよね」
その言い方が、責めるんじゃなくて、理解しているみたいで。私は、胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
編集部の入口が見える。机の並び。先輩の背中。戻ればまた、いつもの私に戻れる。
戻れるのに――戻りたくない、と思ってしまった。
怖い。怖いのに、離れがたい。
瀬尾さんが本を置き、私に目を向けた。
「出典、先に直しておきます。あなたは先輩に報告だけしてください」
「え、でも……」
「順番です」
順番。
その二文字が、妙に優しく響いた。恋じゃなくて仕事の話のはずなのに、胸がきゅっと締まる。彼は「助ける」を、押しつけじゃなく、手順にして差し出してくる。
私は、頷いてしまった。
「……ありがとうございます」
先輩のところへ歩きながら、私は何度も自分に言い聞かせる。
勘違いしない。好きにならない。頼らない。嫌われないように。
それなのに、背中に残った彼の気配が、温度みたいに消えない。
この人は、優しい。優しい人ほど、怖い。
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