『まんまる。』 〜孤高の薬学王子と癒しの食卓便〜

星乃和花

文字の大きさ
9 / 14

8話「のど飴は言葉のかたち」〈リリアン〉

しおりを挟む
喉は、まだ薄く乾いていた。
一晩眠っても、湯気の不在は胸の奥に少し残る。私は台車に少量だけ積む。薄焼きサブレを二枚、温かい水の瓶、そして蜂蜜の小さじ。黄色い付箋は一枚だけ——長くならない言葉のために。

昼の鐘が二度。
ノック、間。「どうぞ」。
扉を開けると、研究室の空気は中央に余白を開けて待っていた。机の右寄りには付箋が一枚、白衣の袖のそばに置かれている。彼は立ち上がらない。目だけがこちらを受け入れる。

「昨日は、ありがとうございました」
私が言うと、彼は短く首を傾げるだけで、責めも慰めも置かなかった。押さないやり取りは、喉の痛みに優しい。
「本日は、少量です。塩気はありません。のど向けの温かい水と、蜂蜜を——」

私が言い終える前に、彼は引き出しから小さな包みを一つ取り出した。包み紙は薄く、光を通す。机の中央に、彼はそれをそっと置く。
まんまるのど飴。
丸い。角がない。息をしているみたいに、光の粒をひとつ抱いている。

「昨夜、考えた」彼は言う。「言葉の代わり。角が起きない言い方を」
私は喉の奥で小さく笑う。角は、今日も三時に起きる支度をしているのだろう。

蜂蜜の小さじを瓶の口へ置き、水の栓をひらく。付箋を台座のふちに貼る。
——本日はのど仕様。
——不要の際は、飴だけお残しください。
私は呼吸を整え、言葉を選ぶ。四文字に近い短さで。

「やりたいことに情熱を注げるのは、幸せなことって——ガブリエル様なら、わかってくれると思っていました」

彼は視線を付箋から私に戻し、ゆっくりと首を横に振った。
「わかるが、わかると言いたくない」
言葉は低いのに、角がない。
「君が配達に来ないのは寂しい。——感情を押し付けるようなことを言いたくないが、知っておいて」

喉の奥で、からんと小さな鐘が鳴った気がした。
「リリアン。君といっしょにおやつ休憩が取りたい。毎日だ」

毎日。
四文字で足りる、怖いほど簡潔な単語。私は手を動かしてやり過ごす。水を注ぎ、蜂蜜を溶かし、スプーンを静かに回す。飴の包み紙が、彼の指の間で音を立てない。

「……嬉しいです。戸惑います」
本当のことだけ言う。
毎日は、押しになりやすい単位だ。けれど彼の声は押さない。温度の一定した提案として、机の上に置かれている。置かれたものは、選べる。

彼は空いた席のほうを一瞬だけ見た。
席は誘うけれど、命じない。私は椅子の脚を、やんわり引いた。
「よかったら」
その二語は、規則の枠の中で最も好きな言い方だ。彼は頷き、砂糖一粒ぶんの気配だけ動いて椅子に座る。座る音が小さい。角が寝る。

「丸い約束を、昨日いただきました」
私は胸ポケットを指先で押さえる。花の小袋の隣に、新しい丸が入る余白がある。
「毎日の定義は、十五分でも、十でも。鐘が鳴るだけでも。たぶん、三が持てるはずです」
「三」彼が繰り返す。「二は対立、四は高い、五は多い。三は、持てる」
「はい。三時にからん、と」

彼はまんまるのど飴の包みを開け、机の中央に置き直した。位置が、半寸だけ右へ寄る。決めた日の印。
「言葉を先に出すと、角が起きる日がある。——今日は、飴を先にする」
私は頷く。
「のどから始まる告白未満、ですね」
彼の口元が、呼吸で笑った。笑いは劇ではない。支えるほうの笑いだ。

「無理は、しないでください」彼は続ける。「準備は尊い。だが、準備が君を削るなら、俺はそれを採択できない」
「はい。……でも、やりたいのです」
「わかる」
彼は初めて、その語をまっすぐに置いた。置いてから、飴を指先で転がす。
「だから、わかると言いたくない。君が疲れない形で、毎日を置きたい。押さないで、届く方法で」
彼の言い回しは、抽出手順のように正確だ。私は湯気をひと口、喉に流す。蜂蜜が遅れて効く。遅れて届く効能は、安心に似る。

机の上で、付箋が二枚並ぶ。
——毎日、三時、からん。
——おやつ休憩は、選べる(十五分/十/鐘だけ)。
文字は短い。余白は広い。読み飛ばせる契約。読み飛ばせるけれど、読んでしまう。

私はまんまるのど飴をひとつ手に取り、包みを戻した。
「今は鳴らさないで持って帰ります。護符は、静かなほうが効く日です」
「採択」
彼は即答し、空いた席の背もたれを視線で軽く撫でた。座れ、とは言わない。私は椅子に浅く腰をかける。砂糖一粒ぶんの距離。
沈黙が、机の中央で丸くなる。角は起きない。鐘は鳴らない。
それでも、喉の奥で、ごく小さくからんがした。飴の形をした言葉が、ゆっくりと溶けていく。

「——明日も、来ます」
私が言うと、彼は付箋を右に半寸寄せた。
「毎日」
四文字で足りる。今日は、それでいい。

回収の時間、私は台車の布を畳み、扉の前で一度だけ深呼吸をした。胸ポケットの丸を指先で確かめる。
廊下に出ると、光が床に四角を落としている。台車の影がそれを越えるたび、角がひとつずつ眠った。
背中で、研究室の静けさが標準手順のように整っていく。
——毎日。
怖いほど簡潔で、やさしいほど丸い。
その四文字を、私は自分の予定表の余白に小さく書き、消し、もう一度書いた。
四文字で足りないが、四文字でいい。
のど飴は、言葉のかたちをして、喉の奥で静かに効いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

魔王城の清掃係ですが、ラスボスに懐かれて世界を磨くことになりました

由香
恋愛
異世界に転移したら、なぜか魔王城の清掃係に就職していました。 巨大な玉座、血のついた回廊、禍々しい装飾品の数々。 今日も黙々と床を磨いていたら―― 「お前の磨いた床は、よく眠れる」 恐怖の象徴と名高い魔王様に懐かれました。 見た目は完全にラスボス。 中身はちょっと不器用で、独占欲強めの努力型。 勇者は帰還の道を示し、魔王は隣を選べと願う。 光と闇のはざまで、選ぶのは――ただの清掃係。 戦争よりも、まず床。 征服よりも、まず対話。 これは、世界最強の存在に溺愛されながら 世界平和を“足元から”始める物語。 甘くて、少し熱くて、ちゃんと選ぶ恋。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない

二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。 ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。 当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。 だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。 ――君の××××、触らせてもらえないだろうか?

契約妻に「愛さない」と言い放った冷酷騎士、一分後に彼女の健気さが性癖に刺さって理性が崩壊した件

水月
恋愛
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件の旦那様視点短編となります。 「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

処理中です...