『まんまる。』 〜孤高の薬学王子と癒しの食卓便〜

星乃和花

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7話「夜の食堂、湯気の不在」〈ガブリエル〉

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来ない日というのは、予告なしに来る。
昼の鐘が二度鳴っても、扉はノックされない。
机の中央に用意していた余白は、空白のまま、紙の乾いた匂いだけを濃くする。俺は温度計の目盛りを読み、火を弱め、付箋を一枚、右に寄せかけてやめた。決める対象がないとき、右へ寄せる意味は薄い。

廊下で台車の音がして、別の足音が止まった。
「……代理で失礼します」
顔を出したのは食堂仲間のニナだった。胸ポケットにペンが三本、忙しい人の配置。
「リリアンは今日は寝込んでます。配達は私が」
「そうか」
必要な語で返し、器を受け取る。銀の蓋はいつもどおりの重さなのに、湯気の輪郭が薄い。俺の舌は、熱の足りなさを最初に察知する。
「……部屋に行くのは、やめておく」
俺が言うと、ニナは少しだけ笑った。
「はい、押さないでください。あの子も、あなたも」
観測された気がした。けれど嫌ではない。
「三時の鐘は、今日も鳴らすのか」
「鳴らします。からんの高さで、あの子が安心します」
ニナは短く会釈し、去った。扉の隙間から、角砂糖の瓶の音の記憶が滑り込む。からん。今日は、音が遠い。

午後三時、俺は一人でからんを一度鳴らした。
音は研究に直接効かない。だが、角が起きにくくなる。効能があるなら、採択だ。
付箋に小さく「おだいじに」と書きかけて、消す。四文字で足りない。足りないが、四文字でいい——その原理は、今日はうまく働かない。紙の上の跡が、余白に薄い影を落とした。

夜。
研究棟の灯りが落ち、食堂のほうへ歩く。行ってどうするかは決めない。決めないことを決めて歩く。
扉を押すと、湯気の不在が広がっていた。
昼間と同じ机、同じ長さの影。逆さに上げられた椅子の脚が、夜の天井に静かな森を作る。大鍋は口を閉じ、流しは乾き、角砂糖の瓶は透明度を増して黙っている。
湯気がないと、音が消える。煮立つ音、包丁の小さな打音、パンが割れるときの破裂。そのどれもが、今はいない。いないものは、一度にわかる。いないことにも、密度がある。

「——ガブリエル様?」
声がして、振り向く。
出入口の陰に、紙束を抱えた影。
リリアンだった。髪はまとめただけ、制服の襟は少し乱れて、頬の色は薄い。立っているだけで、熱の配分がうまくいっていないことがわかる。
「部屋に行くのは避けた」
俺はそれだけ言い、彼女に向かう足音を急がないようにした。押さないこと。夜は距離が誤差を拡大する。
「……すみません。代理をお願いしておいて、夜に出てきて」
「謝る理由はない」
「紙だけ、置きに。差し入れおやつ案」
彼女は紙束を作業台に置いた。厚さは指二本ぶん。付箋が色違いで横からはみ出している。
俺は一枚目をめくる。
——《角の予防に効く塩味(三種類)/“からん”の高さ別》
——《疲れた舌の初速が遅いときの焼き菓子(薄生地/厚生地)》
——《温度で味が変わる飴:丸/楕円/のど用(検討)》
——《三時以外の小鐘(一口スープ/温かい水+ハーブ/角砂糖の半粒)》
文字は整っていない。走った跡がある。眠っておくべき時間の筆圧だ。

「働きすぎだ」
俺は、思考より先に言っていた。
「わかるが、わかると言いたくない。準備は好きだ。だが、準備は、君の体力を削る道具ではない」
彼女は小さく笑った。
「はい。怒られに来ました」
「怒ってはいない」
「やさしく怒られてる気がします」
笑った、と言うには細すぎる笑い。湯気のない笑い。
「のどは」
「少し、乾いてます」
彼女は胸ポケットを押さえた。そこに、花の袋が入っているのを思い出す。祝意の残り香。
俺は流しの下から水の瓶を取り、紙コップを二つ出す。列のように整えて置きたくなる癖を抑え、空いた席のほうを見た。夜の食堂にも、ひとり分の余白がある。
「よかったら」と言いかけてやめる。規則は、夜に曖昧になる。曖昧さは、朝に戻すのが難しい。
かわりに、水を手渡した。
「温かいものじゃなくてごめんなさい」
「今は水が、正しい」
彼女は一口だけ飲み、紙束の上にコップを置いた。輪が紙に残る。跡は、きっと明日、彼女が付箋で囲うだろう。観測の印にするだろう。

「紙束を、置いて帰ります。明日はちゃんと寝ます」
「約束はリボンで結ぶものだが、今日は丸がいい。丸い約束は、口の中で痛まない」
「……丸い約束、します」
彼女は胸ポケットを軽く押さえ、薄く息を吐いた。
「“のど用”は、まだ検討です。形、どうしましょう」
「丸だ」
即答して、自分で笑う。
「丸は、正しい」
「正しいですね」
返事の速度が遅い。遅いのに、効く。
俺は紙束の角を指で撫でた。角を落とし忘れた紙は、指先を傷つける。落とされた角は、安心を連れてくる。
「この紙は、明日以降、観測する。選別ではない。観測だ。君の三を、持てるように並び替える」
「三」
「二は対立、四は高い、五は多い。三は、持てる」
彼女は目を閉じ、小さく頷いた。眠気が、やっと彼女の肩に座った気配がする。

「送る必要はないか」
「ないです。押さないでください」
「押さない」
反復は、約束の代わりになる。
彼女は作業台の端に黄色い付箋を一枚貼った。
——回収は明日。
——おやすみなさい。
四文字で足りないが、四文字でいい。
俺は隣に付箋を重ねる。
——鐘は一度。
——聞こえました。

扉へ向かう彼女の足音は、からんよりも小さい。
俺は角砂糖の瓶のふたを開け、半粒だけ手のひらで割り、音を立てずに戻した。鐘は鳴らさない。今は、鳴らない静けさが、正しい。

彼女が去ったあと、湯気の不在が戻る。
だが、完全な不在ではない。紙束に残った水の輪、付箋の黄色、空いた席の位置。往復線は消えていない。
研究室に戻る前に、俺は流しで銅鍋を洗い、火を使わずに飴の配合を頭の中で組んだ。
——温度は低め、のどに触れる厚み。
——角は、完全に落とす。
——形は、まんまる。
言葉の代わりは、準備で用意する。押さずに、届くもの。届かなくても、痛まないもの。

食堂の灯りを落とし、廊下を歩く。
窓の外で夜が薄く、石の床が冷たい。
予定表の余白に「三時:からん」「のど用(検討)」と書き、消し、また書いた。
四文字で足りないが、四文字でいい。
角は、今夜は起きない。湯気の不在が、それを保証している。
——明日、湯気を戻す。
鐘は、一度。
彼女の丸い約束が、舌の上で静かに転がっていた。
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