『まんまる。』 〜孤高の薬学王子と癒しの食卓便〜

星乃和花

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6話「特別な甘さの定義」〈ガブリエル〉

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午前のうちに、王宮学術評議会から封が届いた。
厚紙の端は正確で、切り口に角がない。封蝋を割ると、端正な文が二枚。——提出していた薬効安定化の抽出手順が、今年度の標準手順案として採択。付随予算は少額、だが観測設備の更新が一台。名前が紙に刻まれて、廊下の掲示板にも貼られるらしい。
数値は裏切らない。だが、紙の文字は、時々、遅れて実感を運ぶ。胸の中の温度が、半度だけ上がる。俺は椅子に背をつけず、ただ白衣の袖を整えた。

扉がノックされ、参事官のカロルが顔を出した。眉間の皺が常設の人。
「掲示板に出たぞ。孤高だのなんだの言う連中もうるさいだろうが、今日くらいはうるさくていい」
「ありがとうございます」
必要な語で応え、短く会釈。カロルは視線で机の中央右を確認し、そこに何も置かれていないことに満足したように頷いて去る。
——祝意の処理は、機械より人が難しい。
俺は付箋を一枚、中央に戻し、短く書く。
——三時:鐘。
書いて、消す。消して、また書く。四文字で足りないが、四文字でよい。

昼の鐘が二度。
扉の外で布の気配がして、「どうぞ」。
入ってきた彼女は、いつもの台車を記念日仕様にしていた。銀の蓋の上に細い紙帯が一本。金色で**小さく“祝”**の活字。押しつけではない、読み飛ばせるサイズ。彼女は台車を静かに止め、中央右に余白を作る。

「採択、おめでとうございます」
「知っているのか」
「はい。廊下の掲示板の前に、角砂糖の瓶の子たちが人だかりを作っていました」
彼女は布を外す。そこにあったのは、小さな箱。蓋を開けると、花弁のかたちの砂糖菓子が四つ、まんまるの薄い飴が三つ、そして細いビスケットが数本。色は淡い。角は、すべて落ちている。
「記念の詰め合わせです。台所の子たちと、ほんの少しだけ事件を」
事件、と言われて、俺の背の筋肉が緩む。事件は、たまにだから事件だ。

ただ、胸のどこかに拗ねが立ち上がる。
——どうせ、誰にでも配っている。
——掲示板の“祝”は、等分される。
思考の端に、砂を含んだ音がする。俺は舌で、その砂を押し流す。効率は落としたくない。

彼女は箱の横に、黄色い付箋を一枚置いた。
——記念ですから、特別ですよ。
——本日分は研究室専用。
文字は短いのに、余白が多い。余白の多い文は、読み手に選択を返してくる。
「“特別”の定義は、曖昧だ」
俺は言ってから、すぐに続ける。「曖昧で、助かる」
彼女が笑う。声ではなく、呼吸で。
「定義は後で。今日は“受け取り方を合わせる日”にしましょう」
受け取り方。研究で言うなら、指標の校正だ。俺は頷き、箱の中から花弁の砂糖を一つ、掌に乗せる。壊れない厚み。舌にのせる角度で、溶ける速度が変わる。俺は遅れる溶けを選んだ。遅れると、その間に実感が追いつく。

「花、祝意です」
「知っている」
「まんまるは——平常」
「知っている」
「ビスケットは、作業用」
彼女が台車から温かい茶を出す。三分のタイマー。葉の量は少なめ。香りは控えめ。からんと鳴る前の、静かさ。
「砂糖一粒ぶんの会話、しても?」
規則に従って問う彼女に、俺は「どうぞ」と短く返す。
「掲示板の前に、嬉しそうに立っていた庭師のエミルさんが、あなたの名前のところで“これでハーブの相談がしやすくなる”って、こっそり言ってました」
「ハーブ」
「はい。研究室がよく人を受け入れる空気になってきたので、きっと近々、相談が増えます」
相談。俺は机の右側、往復線の位置に目を落とす。付箋の黄色が、一段濃く見える。
「受け入れる空気」
「ええ。空気は目に見えないけど、人は見てます。扉の開き方、机の中央の余白、付箋の位置」
「位置」
「中央に置かれた日は、迷いが少ない。右に寄るときは、たぶん、決めた日」
図星を射抜かれた感触が、舌の裏に落ちる。俺はうなずき、小さな咳に似た呼吸で誤魔化す。彼女はそれ以上、踏み込まない。押さない。押さないのに、観測は当たる。

茶が落ち着く。
「——特別の定義を、今日限定で、置く」
自分でも驚くほど滑らかに、言葉が出た。「君が持ってきたものは、特別。今日は、ここでは、そう定義する」
「定義、ありがとうございます」
彼女の笑顔が、紙の定義を人の温度で裏打ちする。数学に、体温がつく。
俺は机の引き出しから、小袋を取り出す。花型の返礼。猫は休息、リボンは約束。今日は祝意。
「返礼」
小袋に付箋を貼る。
——本日の定義に合わせる。
——花。
彼女は袋を見て、目の端で笑う。「可愛いは科学ではない、と仰っていましたけど」
「効能がある」
即答した自分に、少し笑う。
「効能があるなら、採択ですね」
「採択だ」
短い語が、鐘の代わりに鳴る。胸の中でからん。三時まで、まだ少しあるのに。

「全体にも、少し配ります」
彼女は箱の二層目を閉じ、上段だけ持ち上げる。「参事官さんにも、庭師さんにも。——でも、この一段は、研究室専用」
研究室専用という語の甘さに、理屈が追いつく前に、背中の筋肉がほどける。
「君の“特別”は、押しつけない特別だな」
「はい。読み飛ばせる特別」
読み飛ばせる。だが、俺は読んだ。読んでしまった。読むと、効く。

午後三時。
彼女が持ってきた小さなタイマーが、からんと鳴る。砂糖の瓶の音ではないが、同じ高さ。俺は火を弱め、作業用ビスケットを一本。舌の上で塩を均し、茶を一口。
「受け取り方が合うと、角は寝ますね」
「寝る」
彼女は会釈して、上段を抱えて部屋を出る。扉が閉まる直前に振り返り、胸ポケットを軽く押さえた。そこに、花が入る余白があるらしい。

扉が閉まる。
部屋に特別が残る。目に見えないのに、影の落ち方が違う。机の中央に置いた付箋を、俺は右へ、ほんの半寸だけ寄せる。決めたのだ。
予定表の余白に、「抽出:再試」「観測:午後会話」「三時:鐘」の三項目を並べる。三は、持てる。二は対立、四は高い、五は多い。三は、持てる。
白衣の袖をまくり、温度計を立てる。
——特別の定義がある日は、準備がよく進む。
数値が安定し、紙が軽い音を立てる。怒りの端は、今日は起きない。起きても、花弁で覆える。

夕刻、回収のノック。
彼女が入ってきて、空の箱を畳み、小袋を胸ポケットに入れる前に、付箋を一枚、中央に置いた。
——おめでとうございます(※明日は平常に戻します)
——“平常”に、三時の鐘は残したいです。
俺は即座に隣に付箋を重ねる。
——採択。
——残す。
二枚の黄色が、机の中央で対称になる。対称は落ち着く。
彼女は空いた席に視線だけ置き、椅子は引かない。規則は守る。だが、遠くはない。
彼女が去ると、部屋の空気が、標準手順のように静かに整う。
俺は火を落とし、最後のまんまるをひとつ舌にのせた。
——特別は、読み飛ばせる。
——でも、効く。
溶ける甘さが遅れて届く間に、明日の段取りが正しい順序で並んでいく。観測項目に一つだけ、非科学の行を加える。
「三時:からん」
四文字で足りないが、四文字でいい。
灯りを落とす直前、花の小袋がないことに気づいて、少し笑った。胸ポケットに入れていったのだ。祝意は、今日は彼女に渡した。
そして俺は、机の中央に置いた付箋を、もう一度、右へ。ほんの、指先の幅だけ。
——決めた。研究は進める。君の鐘を聞きながら。
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