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9:契約妻のはずが、毎日“構って”条項で抱きしめられています
第8話:最終条項――“契約じゃなくても、構う”
朝。
フィアは目覚めて、まず思った。
(……更新、したんだ)
昨日の執務室。
署名。
名前呼び。
「愛している」。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
フィアは布団の中で一度だけ、枕に顔を埋めた。
「……やれやれ」
声にすると少し落ち着く。
やれやれはフィアの“安全装置”だ。
でも今日は、そうもいかない気がした。
だって――
“契約”の言葉が、もう逃げ場にならない。
◆
朝食の席。
いつものように整ったテーブル。
いつものように香るパンとスープ。
いつものように、レオンハルトが座っている。
そして、いつものように――
トン。
紙が置かれる音。
フィアは視線だけでそれを捉え、深く息を吐いた。
「……またですか」
「確認だ」
レオンハルトは淡々と答える。
フィアは腕を組む。
「今度は何ですか。更新確認書は昨日出したでしょう」
「更新確認書では足りない」
「何が足りないんですか」
「本日の」
本日の、って何。
フィアが紙を引き寄せると、そこには大きな字で書かれていた。
“本日分:構い 実施チェックシート”
フィアは無言になった。
そして、項目を読む。
• 抱擁(必須)
• 撫で(推奨)
• 褒め(推奨)
• 追加:名前呼び(推奨)
• 追加:笑顔(必須)
「……笑顔、必須?」
「君が笑うと安定する」
「私の笑顔を義務化しないでください」
「合理的だ」
合理的で人の感情を縛るな。
フィアは紙を机に戻し、真正面からレオンハルトを見た。
「公爵さま」
「なに」
「その“チェック”を、いつまで続けるつもりですか」
レオンハルトは一瞬だけまばたきをした。
それから、静かに答える。
「続ける」
「……ずっと?」
「ずっと」
フィアの胸が、またきゅっと鳴った。
嬉しい。
でもそれと同じくらい、悔しい。
(私は、いつまで“契約”に逃げるんだろう)
フィアはスープを一口飲んで、決意した。
今日は――言う。
契約じゃなくても。
やれやれじゃなくても。
ちゃんと言う。
◆
朝食後。
フィアは台所でカップを洗っていた。
水の音が落ち着く。
手を動かしていれば、心も少し整う。
しかし背後には気配がある。
当然のように。
フィアは振り返らずに言った。
「……抱きしめ待機してますよね」
「している」
堂々と認めるな。
フィアはカップを置き、振り返った。
レオンハルトは廊下の真ん中で、腕を少しだけ広げている。
いつもの“来ますか?”の形。
フィアはため息をつきながら、歩み寄った。
「……一回だけですよ」
「うん」
抱きしめられる。
温かい。
いつもの体温。いつもの安心。
でも今日は、その安心が怖かった。
(この安心に、私は溺れてる)
フィアが離れようとすると、レオンハルトの腕が少し強くなる。
「……短い」
「短くしますって言ったのあなたです」
「短くした。だが足りない」
「足りないの多すぎます」
「君が欲しい」
昨日よりも、言葉が真っ直ぐだ。
フィアは心臓がうるさくて、少しだけ目を閉じた。
そして――ふっと、笑ってしまった。
「……もう、ほんとに」
「なに」
「困りますね」
レオンハルトが少しだけ首を傾けた。
「困っていない」
「困ってます」
「嬉しい顔をしている」
「……やめてください」
「好きだ」
好きだ。
その言葉で、全部が崩れる。
フィアは、今日こそ逃げたくなかった。
フィアはゆっくり息を吸って、レオンハルトの胸に手を当てた。
「……ねえ、レオンハルト」
「うん」
名前を呼ぶと、彼の目がほんの少し揺れる。
それだけで、胸が痛いくらい嬉しい。
フィアは言った。
「契約がなくても……」
「うん」
「あなたは、こうしてくれますか」
レオンハルトは、すぐに答えた。
「する」
即答。
迷いゼロ。
フィアは少し笑って、呟く。
「……じゃあ」
「うん」
「私も、します」
レオンハルトがまばたきをする。
初めて見る、言葉を待つ顔。
フィアは、やれやれの仮面を捨てた。
「契約じゃなくても、構う」
声は小さかったけれど、ちゃんと届く音だった。
その瞬間。
レオンハルトの腕が、止まった。
抱きしめたまま、動かない。
呼吸が止まったみたいに静か。
フィアは不安になって、そっと見上げる。
「……レオンハルト?」
レオンハルトは、壊れていた。
目が見開かれたまま。
声が出ない。
それから、やっと息を吐く。
「……」
「……え、何ですか」
「……今、何と言った」
「聞こえてたじゃないですか」
「もう一度」
もう一度。
フィアの顔が赤くなる。
「……契約じゃなくても、構う」
「……」
レオンハルトの喉が、小さく鳴った。
次の瞬間――
抱きしめが、長い。
長すぎる。
フィアが抵抗しようとしたが、無理だった。
抵抗する理由が消えてしまった。
レオンハルトの声が、耳元に落ちる。
「……死ぬ」
「死なないでください」
「嬉しすぎる」
「やれやれ……」
「やれやれじゃない」
「え?」
「今は、やれやれ禁止」
禁止。
最後に来て禁止。
フィアは笑ってしまった。
「……あなた、禁止って言葉好きですね」
「君が好きだ」
またそれ。
フィアの胸が、あたたかくなる。
◆
その日、屋敷はざわついていた。
フィアが廊下を歩くだけで、使用人たちが微妙に目を逸らす。
耳だけこっちに向いている。
(絶対、何か起こるって思ってる)
フィアは執事を見つけて言った。
「……皆さん、落ち着いてください」
「落ち着いております」
「嘘ですね」
「楽しみにしております」
楽しみにするな。
フィアは頭を抱えた。
「……何をですか」
「本日分の“最終条項”を」
最終条項って何。
フィアが聞き返す前に、執事がさらっと言う。
「公爵さまが朝から“幸福です”と申告しておられます」
「申告いらない!!」
屋敷が、幸せ報告書で回ってる。
フィアが顔を覆っていると、廊下の奥からレオンハルトが現れた。
完璧な服装。完璧な顔。
――ただし、目だけが違う。
明らかに、機嫌が良い。
危険だ。
フィアが逃げようとした瞬間、
レオンハルトが淡々と歩み寄って言う。
「フィア」
「……何ですか」
「確認」
やめろ、その言い方。
レオンハルトは紙を差し出した。
例のチェックシートだ。
フィアは嫌な予感しかしない。
「……何を確認するんですか」
「笑顔」
フィアは無言になった。
「……笑顔は必須」
「必須です」
「……はいはい」
フィアが小さく笑うと、レオンハルトの表情が柔らかくなる。
そして、当然のように腕を広げた。
「構い」
「……多すぎる」
「君が言った」
「……言いました」
「契約じゃなくても、構う」
「……言いましたね!?」
フィアが叫ぶと、廊下の角で使用人が一斉に咳払いした。
空気を整えようとしている。
でも、整ってない。
レオンハルトは真顔で、フィアを抱きしめた。
フィアがもがく。
「……ここ廊下です!!」
「屋敷だ」
「そういう問題じゃない!!」
「君が言ったから」
「言葉を盾にするな!!」
レオンハルトは静かに言った。
「盾ではない。誓いだ」
――卑怯。
フィアは抵抗をやめた。
どうせ勝てない。
そして、勝ちたくない。
フィアは小さく息を吐く。
「……やれやれ」
「ありがとう」
「それも万能すぎます」
「君が万能だから」
もう、反論できなかった。
◆
夕方。
レオンハルトの執務室。
フィアが仕事を手伝いに来ると、レオンハルトは机から顔を上げた。
そして、真剣な目で言った。
「フィア」
「……はい」
「条項を更新する」
また条項。
フィアは警戒する。
「やめてください。もう増やさないでください」
「増やす」
「やめろと言ってます」
「必要だ」
「何が必要なんですか」
「君の“逃げ道”を消す」
フィアの心臓が跳ねた。
「……逃げ道?」
「君は、契約に隠れる」
「……」
「君は、本当は嬉しいのに、“契約だから”と言う」
フィアは黙った。
図星すぎて。
レオンハルトは机を回って近づき、
フィアの手を取った。
「逃げなくていい」
「……怖いです」
「怖がらせない程度にする」
「その程度が怪しいんです」
「努力する」
フィアは笑ってしまった。
「……努力って言うな」
「君が好きだから」
フィアはもう、やれやれと言うしかなかった。
でも――
今日は、やれやれだけじゃない。
フィアは、そっと言う。
「……私も」
レオンハルトの目が揺れる。
フィアは顔を赤くしながら続けた。
「……あなたが、好きです」
静かだった。
世界が止まったみたいに。
レオンハルトが息を飲む。
それから、ゆっくり抱きしめた。
「……死ぬ」
「だから死なないでください」
「嬉しすぎる」
フィアは笑いながら、レオンハルトの背中をぽん、と叩いた。
「……ほんとにもう」
「好きだ」
「知ってます」
「もっと言え」
「言いません」
「契約違反だ」
「契約じゃないでしょ!?」
「今は心の契約だ」
何その概念。
フィアは頭を抱えた。
「……あなた、概念が強い」
「君が作った概念だ」
フィアはもう、笑うしかなかった。
◆
そして――オチ(フィナーレ)は、屋敷の廊下で起こった。
フィアが執務室から出た瞬間、
角の影から拍手が聞こえた。
パチパチパチ。
フィアは固まる。
レオンハルトも固まる。
執事が、いつもの完璧な微笑みで立っていた。
その後ろに、使用人たちが並んでいる。
全員、温かい顔。
執事が丁寧に頭を下げた。
「おめでとうございます」
「……何がですか」
「最終条項が成立いたしました」
最終条項。
フィアが震える声で聞き返す。
「……最終条項って、何ですか」
執事は穏やかに答えた。
「“契約ではなく、愛情で構う”でございます」
フィアは叫びそうになって、声にならなかった。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「聞いていたのか」
「はい」
「いつから」
「第七条の頃から」
最初からじゃないか。
フィアは顔を覆った。
「……この屋敷、全員グルだ……!!」
執事がにこりと微笑む。
「奥さま、安心してください」
「何が安心ですか」
「公爵さまはこれからも“必要です”と申告されます」
安心できるわけがない。
フィアが泣きそうに笑っていると、
レオンハルトが隣で淡々と言った。
「フィア」
「……何ですか」
「構ってほしい」
「今ここで!?」
「必要だ」
「もう!!」
フィアはやれやれと言いながら、腕を広げた。
「……一回だけですよ」
「うん」
抱きしめられる。
その抱きしめは、今までで一番、静かで長かった。
フィアは小さく呟く。
「……契約じゃなくても、こうなるんですね」
「そうだ」
「……困りますね」
「困っていない」
「……うるさいです」
フィアは笑って、彼の背中に手を置いた。
置くだけで、十分。
もう、契約はいらない。
この人は、ここにいる。
自分も、ここにいる。
そのことが、嬉しい。
悔しいくらいに。
フィアは目覚めて、まず思った。
(……更新、したんだ)
昨日の執務室。
署名。
名前呼び。
「愛している」。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
フィアは布団の中で一度だけ、枕に顔を埋めた。
「……やれやれ」
声にすると少し落ち着く。
やれやれはフィアの“安全装置”だ。
でも今日は、そうもいかない気がした。
だって――
“契約”の言葉が、もう逃げ場にならない。
◆
朝食の席。
いつものように整ったテーブル。
いつものように香るパンとスープ。
いつものように、レオンハルトが座っている。
そして、いつものように――
トン。
紙が置かれる音。
フィアは視線だけでそれを捉え、深く息を吐いた。
「……またですか」
「確認だ」
レオンハルトは淡々と答える。
フィアは腕を組む。
「今度は何ですか。更新確認書は昨日出したでしょう」
「更新確認書では足りない」
「何が足りないんですか」
「本日の」
本日の、って何。
フィアが紙を引き寄せると、そこには大きな字で書かれていた。
“本日分:構い 実施チェックシート”
フィアは無言になった。
そして、項目を読む。
• 抱擁(必須)
• 撫で(推奨)
• 褒め(推奨)
• 追加:名前呼び(推奨)
• 追加:笑顔(必須)
「……笑顔、必須?」
「君が笑うと安定する」
「私の笑顔を義務化しないでください」
「合理的だ」
合理的で人の感情を縛るな。
フィアは紙を机に戻し、真正面からレオンハルトを見た。
「公爵さま」
「なに」
「その“チェック”を、いつまで続けるつもりですか」
レオンハルトは一瞬だけまばたきをした。
それから、静かに答える。
「続ける」
「……ずっと?」
「ずっと」
フィアの胸が、またきゅっと鳴った。
嬉しい。
でもそれと同じくらい、悔しい。
(私は、いつまで“契約”に逃げるんだろう)
フィアはスープを一口飲んで、決意した。
今日は――言う。
契約じゃなくても。
やれやれじゃなくても。
ちゃんと言う。
◆
朝食後。
フィアは台所でカップを洗っていた。
水の音が落ち着く。
手を動かしていれば、心も少し整う。
しかし背後には気配がある。
当然のように。
フィアは振り返らずに言った。
「……抱きしめ待機してますよね」
「している」
堂々と認めるな。
フィアはカップを置き、振り返った。
レオンハルトは廊下の真ん中で、腕を少しだけ広げている。
いつもの“来ますか?”の形。
フィアはため息をつきながら、歩み寄った。
「……一回だけですよ」
「うん」
抱きしめられる。
温かい。
いつもの体温。いつもの安心。
でも今日は、その安心が怖かった。
(この安心に、私は溺れてる)
フィアが離れようとすると、レオンハルトの腕が少し強くなる。
「……短い」
「短くしますって言ったのあなたです」
「短くした。だが足りない」
「足りないの多すぎます」
「君が欲しい」
昨日よりも、言葉が真っ直ぐだ。
フィアは心臓がうるさくて、少しだけ目を閉じた。
そして――ふっと、笑ってしまった。
「……もう、ほんとに」
「なに」
「困りますね」
レオンハルトが少しだけ首を傾けた。
「困っていない」
「困ってます」
「嬉しい顔をしている」
「……やめてください」
「好きだ」
好きだ。
その言葉で、全部が崩れる。
フィアは、今日こそ逃げたくなかった。
フィアはゆっくり息を吸って、レオンハルトの胸に手を当てた。
「……ねえ、レオンハルト」
「うん」
名前を呼ぶと、彼の目がほんの少し揺れる。
それだけで、胸が痛いくらい嬉しい。
フィアは言った。
「契約がなくても……」
「うん」
「あなたは、こうしてくれますか」
レオンハルトは、すぐに答えた。
「する」
即答。
迷いゼロ。
フィアは少し笑って、呟く。
「……じゃあ」
「うん」
「私も、します」
レオンハルトがまばたきをする。
初めて見る、言葉を待つ顔。
フィアは、やれやれの仮面を捨てた。
「契約じゃなくても、構う」
声は小さかったけれど、ちゃんと届く音だった。
その瞬間。
レオンハルトの腕が、止まった。
抱きしめたまま、動かない。
呼吸が止まったみたいに静か。
フィアは不安になって、そっと見上げる。
「……レオンハルト?」
レオンハルトは、壊れていた。
目が見開かれたまま。
声が出ない。
それから、やっと息を吐く。
「……」
「……え、何ですか」
「……今、何と言った」
「聞こえてたじゃないですか」
「もう一度」
もう一度。
フィアの顔が赤くなる。
「……契約じゃなくても、構う」
「……」
レオンハルトの喉が、小さく鳴った。
次の瞬間――
抱きしめが、長い。
長すぎる。
フィアが抵抗しようとしたが、無理だった。
抵抗する理由が消えてしまった。
レオンハルトの声が、耳元に落ちる。
「……死ぬ」
「死なないでください」
「嬉しすぎる」
「やれやれ……」
「やれやれじゃない」
「え?」
「今は、やれやれ禁止」
禁止。
最後に来て禁止。
フィアは笑ってしまった。
「……あなた、禁止って言葉好きですね」
「君が好きだ」
またそれ。
フィアの胸が、あたたかくなる。
◆
その日、屋敷はざわついていた。
フィアが廊下を歩くだけで、使用人たちが微妙に目を逸らす。
耳だけこっちに向いている。
(絶対、何か起こるって思ってる)
フィアは執事を見つけて言った。
「……皆さん、落ち着いてください」
「落ち着いております」
「嘘ですね」
「楽しみにしております」
楽しみにするな。
フィアは頭を抱えた。
「……何をですか」
「本日分の“最終条項”を」
最終条項って何。
フィアが聞き返す前に、執事がさらっと言う。
「公爵さまが朝から“幸福です”と申告しておられます」
「申告いらない!!」
屋敷が、幸せ報告書で回ってる。
フィアが顔を覆っていると、廊下の奥からレオンハルトが現れた。
完璧な服装。完璧な顔。
――ただし、目だけが違う。
明らかに、機嫌が良い。
危険だ。
フィアが逃げようとした瞬間、
レオンハルトが淡々と歩み寄って言う。
「フィア」
「……何ですか」
「確認」
やめろ、その言い方。
レオンハルトは紙を差し出した。
例のチェックシートだ。
フィアは嫌な予感しかしない。
「……何を確認するんですか」
「笑顔」
フィアは無言になった。
「……笑顔は必須」
「必須です」
「……はいはい」
フィアが小さく笑うと、レオンハルトの表情が柔らかくなる。
そして、当然のように腕を広げた。
「構い」
「……多すぎる」
「君が言った」
「……言いました」
「契約じゃなくても、構う」
「……言いましたね!?」
フィアが叫ぶと、廊下の角で使用人が一斉に咳払いした。
空気を整えようとしている。
でも、整ってない。
レオンハルトは真顔で、フィアを抱きしめた。
フィアがもがく。
「……ここ廊下です!!」
「屋敷だ」
「そういう問題じゃない!!」
「君が言ったから」
「言葉を盾にするな!!」
レオンハルトは静かに言った。
「盾ではない。誓いだ」
――卑怯。
フィアは抵抗をやめた。
どうせ勝てない。
そして、勝ちたくない。
フィアは小さく息を吐く。
「……やれやれ」
「ありがとう」
「それも万能すぎます」
「君が万能だから」
もう、反論できなかった。
◆
夕方。
レオンハルトの執務室。
フィアが仕事を手伝いに来ると、レオンハルトは机から顔を上げた。
そして、真剣な目で言った。
「フィア」
「……はい」
「条項を更新する」
また条項。
フィアは警戒する。
「やめてください。もう増やさないでください」
「増やす」
「やめろと言ってます」
「必要だ」
「何が必要なんですか」
「君の“逃げ道”を消す」
フィアの心臓が跳ねた。
「……逃げ道?」
「君は、契約に隠れる」
「……」
「君は、本当は嬉しいのに、“契約だから”と言う」
フィアは黙った。
図星すぎて。
レオンハルトは机を回って近づき、
フィアの手を取った。
「逃げなくていい」
「……怖いです」
「怖がらせない程度にする」
「その程度が怪しいんです」
「努力する」
フィアは笑ってしまった。
「……努力って言うな」
「君が好きだから」
フィアはもう、やれやれと言うしかなかった。
でも――
今日は、やれやれだけじゃない。
フィアは、そっと言う。
「……私も」
レオンハルトの目が揺れる。
フィアは顔を赤くしながら続けた。
「……あなたが、好きです」
静かだった。
世界が止まったみたいに。
レオンハルトが息を飲む。
それから、ゆっくり抱きしめた。
「……死ぬ」
「だから死なないでください」
「嬉しすぎる」
フィアは笑いながら、レオンハルトの背中をぽん、と叩いた。
「……ほんとにもう」
「好きだ」
「知ってます」
「もっと言え」
「言いません」
「契約違反だ」
「契約じゃないでしょ!?」
「今は心の契約だ」
何その概念。
フィアは頭を抱えた。
「……あなた、概念が強い」
「君が作った概念だ」
フィアはもう、笑うしかなかった。
◆
そして――オチ(フィナーレ)は、屋敷の廊下で起こった。
フィアが執務室から出た瞬間、
角の影から拍手が聞こえた。
パチパチパチ。
フィアは固まる。
レオンハルトも固まる。
執事が、いつもの完璧な微笑みで立っていた。
その後ろに、使用人たちが並んでいる。
全員、温かい顔。
執事が丁寧に頭を下げた。
「おめでとうございます」
「……何がですか」
「最終条項が成立いたしました」
最終条項。
フィアが震える声で聞き返す。
「……最終条項って、何ですか」
執事は穏やかに答えた。
「“契約ではなく、愛情で構う”でございます」
フィアは叫びそうになって、声にならなかった。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「聞いていたのか」
「はい」
「いつから」
「第七条の頃から」
最初からじゃないか。
フィアは顔を覆った。
「……この屋敷、全員グルだ……!!」
執事がにこりと微笑む。
「奥さま、安心してください」
「何が安心ですか」
「公爵さまはこれからも“必要です”と申告されます」
安心できるわけがない。
フィアが泣きそうに笑っていると、
レオンハルトが隣で淡々と言った。
「フィア」
「……何ですか」
「構ってほしい」
「今ここで!?」
「必要だ」
「もう!!」
フィアはやれやれと言いながら、腕を広げた。
「……一回だけですよ」
「うん」
抱きしめられる。
その抱きしめは、今までで一番、静かで長かった。
フィアは小さく呟く。
「……契約じゃなくても、こうなるんですね」
「そうだ」
「……困りますね」
「困っていない」
「……うるさいです」
フィアは笑って、彼の背中に手を置いた。
置くだけで、十分。
もう、契約はいらない。
この人は、ここにいる。
自分も、ここにいる。
そのことが、嬉しい。
悔しいくらいに。
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