『北極星はここにいる ― 守れなかった夜を越えて。』

星乃和花

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第二話 寮生活のはじまり

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朝の食堂は、小さな楽団の調音前のように、さまざまな音が重なっていた。
銀器の触れ合う澄んだ響き、パンを裂く柔らかな破れ音、誰かの笑い声が天井の高みに反響して丸く戻ってくる。
白いテーブルクロスには窓からの光が四角く落ち、陶器の皿に薄い金色の縁取りを作っていた。

リリアは椅子に腰を下ろし、バターを塗ったパンをそっと押さえた。
――落ち着いて。いつも通りに。
そう心の中で唱えながら紅茶をひと口。香りは穏やかで、胸の奥のきゅっとした緊張を少しだけほどいてくれる。

ふと、視線が流れて止まる。
長机の端、窓から一歩引いた明るさの中に、あの人の横顔があった。
アドリアン・ヴェルディエ。
彼は誰と競うでもなく、早すぎも遅すぎもしない速度で食事を進めている。ナイフの角度は一定で、パンを千切る指先には余計な力がない。
周囲のざわめきの只中にいるのに、彼のまわりだけ音が一段低くなるような、そんな静けさがあった。

「ねえ、リリア」
同室の令嬢が身を乗り出して囁いた。
「見て。あの方、知らない? 寮の巡回もする上級生。氷の人って呼ばれているのよ」

「……氷の、ひと」
リリアは相槌を打ちながら、ナプキンの端を指でなぞる。

「誰に対してもああ。必要なこと以外は話さない。笑ったところなんて見た人がいないって。
あ、でも礼儀は完璧よ。貴族らしいって言えばそうなんだけれど……少し、寒いわよね」

寒い。
昨夜のことを思い出す。
扉の前で彼が言い淀んだ短い沈黙、「夜は廊下の窓を閉め忘れるな」という不器用な忠告。
たしかに冷たく見える。けれど、あの声は――。

「どうかした?」
同室の令嬢が首を傾げる。リリアは小さく首を振って笑った。

「ううん。少し、緊張していただけ」

噂がひとしきり過ぎると、彼女はお茶会の話題へ軽やかに移っていった。
リリアの視線はふたたび長机の端へ戻る。
アドリアンは食器を静かに重ね、立ち上がった。背筋の通った立ち姿。
歩み出すと、朝の光が肩口で切れて淡い影を作る。
通り過ぎる生徒たちがわずかに道を空け、彼は誰にもぶつからずに流れるように扉へ向かう。

――今、声をかけたら。
――「ありがとうございました」と、もう一度だけ。

胸の奥が低く弾む。だが、足は動かない。
彼が扉へ手を伸ばした瞬間、ふっと視線がこちらへ流れてきた――気がした。
ほんの一刹那。
光の粒が空気に混じるみたいに、出会った視線はすぐ解け、彼は振り返らずに食堂を出ていった。

パンの欠片が皿に散る。星屑みたいだ、と場違いなことを思う。
噂の言葉は舌の上に少し冷たく残り、けれど昨夜の声は胸の内側を温めたままだ。

「氷の人、ね……」
小さくつぶやく。
氷は冷たい。でも、光をよく通す。
光があれば、向こう側にあるものが見えることもある――それを、わたしはもう少しだけ信じてみたい。

食後、講義と演習が続いた。
数字と地図と礼法の所作。新しい規則、新しい名前。
覚えるべきことは山ほどあるのに、不意に窓の外の空を見上げてしまう。
群青の薄い層の向こう、昼の星は見えない。けれどきっと、そこにある。

その夜、リリアはどうしても眠れなかった。
新しい寝具の匂い、慣れない枕の高さ。昼間のざわめきがまだ耳に残っているようで、胸の奥が落ち着かない。

カーテンを揺らす夜風に誘われて、思わず部屋を抜け出した。
廊下は灯りが落とされ、窓から射し込む月光が石畳に淡い四角形を描いている。
足音を忍ばせながら中庭へ向かうと、扉を開いた瞬間に夜の匂いが広がった。

冷たく澄んだ空気。
頭上には、言葉を失うほどの星々が瞬いている。
昼間のざわめきとは正反対の、静謐な世界だった。

「……きれい」

思わず声が漏れる。胸の奥に溜まっていた不安が、夜空に吸い込まれていくようだった。

「――カシオペイア」

低い声が背後から響いた。
リリアははっと振り返る。

石造りの柱の影から現れたのは、背の高い青年。
アドリアン。昼間の冷ややかな印象のまま、灰色の瞳に星空を映している。

「……え?」

「君が見ていたのは、カシオペイア座だ」
淡々とした声。それは夜気に溶けるようで、けれど確かに耳に残った。

リリアは再び空を仰いだ。
「カシオペイア……。わたしは、ただ“きれい”としか思えなくて」

アドリアンの瞳がわずかに揺れた。
短い沈黙のあと、彼は小さく息を吐く。

「……それでいい」

その一言に、リリアの胸はふわりとあたたかくなった。
褒められたわけでも、慰められたわけでもない。
けれど彼の言葉は、まるで遠くの星が確かにそこにあると告げる光のようだった。

彼は背を向けて歩き出す。
その背中が遠ざかっていくのを見て、リリアは思わず声を上げた。

「あのっ……また、教えていただけますか、星の名前」

足音が止まる。
振り返らないまま、肩がわずかに揺れた。
答えはなかったけれど――それは拒絶の気配ではなく、どこか迷うような沈黙だった。

やがて再び歩き出す。
柱の向こうへ消えていくその姿を見送りながら、リリアの胸には小さな灯がともっていた。

――冷たい人、だなんて。
――星座の名を伝える声は優しいのに。

夜空を仰ぐと、星々は変わらず瞬いていた。
その光を胸いっぱいに吸い込んで、リリアは小さく微笑んだ。



翌日。
夕刻、日直の当番で廊下の窓を確認して回った。
真鍮の留め具が鳴るたびに、彼の忠告が脳裏をよぎる。
――夜は廊下の窓を閉め忘れるな。
従うだけの言葉が、どうしてこんなに心強いのだろう。

部屋に戻ると、同室の令嬢が鏡台の前でリボンの色を試していた。
「今日の空、きれいだったわね。星、見えるかしら」
何気ない一言に、心がすっと軽くなる。

「……少し、外を歩いてくるね」
外套を肩にかけ、扉を開ける。
廊下の空気は、もう夜の匂いを帯びていた。石の壁がひんやりと肌に触れるような感覚。
階段を降り、扉を押し開けると、中庭には薄い風が流れていた。

空はさらに深く、最初の星がひとつ、塔の先に灯っている。
リリアはその光に向けて、息をひとつ吐いた。白くはならない。けれど心が整っていく。

――もし、今夜も。
――あの人が同じ空を見ているのなら。

思い浮かんだ想像は、約束でも願掛けでもない。
ただ、星のある場所に自然と歩み寄るような、静かな歩調だった。
ベンチへ続く小道には、昼間の名残りの花弁がいくつか落ちている。踏まないように足を運びながら、リリアはそっと空を仰いだ。

星は、昨日よりも少し多い。
ひとつ、またひとつ。
名前はまだ憶えられない。けれど、見上げればいつもそこにいる。
――友だちみたい、と彼に言ったら、笑われてしまうだろうか。
思わず口元が緩む。

そのとき、中庭の反対側の回廊で足音がした。
はっとして振り向く。石柱の影が長く伸び、風が裾を揺らす。
誰の姿かまでは見えない。けれど、歩幅の整った、規則正しい音。
胸が、低く鳴った。

リリアは深呼吸をひとつ。
ベンチの端に腰を下ろし、膝の上で指をそっと組む。
今、声を出さなくてもいい。出せるときに出せばいい。
星は、急かさないから。

空の一角で、カシオペイアの五つの光がゆるやかに形を結ぶ。
昨夜、低い声が教えてくれた名。
胸の奥に灯った小さな火が、風に消えないように、両手で包むみたいにそっと息を整えた。

――明日も、きっと。
――迷わないように。

夜の気配はやわらかい。
居場所という言葉の重さを、リリアはほんの少しだけ知り始めていた。
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