『北極星はここにいる ― 守れなかった夜を越えて。』

星乃和花

文字の大きさ
3 / 11

第三話 星の名をひとつ

しおりを挟む
夜は、昼の名残りをゆっくりと片づけていく。
回廊の灯りが順々に落ち、石の壁に沿って風が細く流れる。
リリアは外套の襟を指でつまみ、中庭へ続く扉を押し開けた。

外はひんやりと澄み、空は深い群青の底へと沈み切っている。
ベンチへ向かう小道に、花弁が数枚、夜露を吸って淡く光っていた。
顔を上げれば、塔の先に二つ、三つと星が灯り、やがて数えきれないほどの光が滲む。

――今夜は、見える。

胸の奥が小さく跳ねる。
足音を殺して歩き、ベンチの端に腰掛ける。
息を吸うと、冷たい空気に心が洗われるようだった。

「――来ていたのか」

低い声が、背中のほうから落ちた。
リリアが振り返るより先に、灰色の影が横を通り過ぎ、ベンチの反対側に静かに腰を下ろす。

「アドリアン様……」

彼は答えず、仰いだまま星を追っている。
横顔の輪郭は夜の線で簡潔に切り抜かれ、瞬く光を瞳に小さく集めていた。

沈黙がしばし、ふたりのあいだに降りる。
やがてアドリアンが、空の一角へ顎をわずかに傾けた。

「見えるか。あの“W”の形」

リリアは目を凝らす。
夜空にひっそりと刻まれた、五つの光が線でつながる気がした。

「……見えます。以前、教えていただいた――」

「カシオペイア」
彼は短く言って、続ける。
「“W”の中心から離れるように目を滑らせれば、北の低いところに一つ、揺れの少ない星がある。北極星だ」

リリアは息を詰めて夜空を探し、じわりと浮かぶ一点の光に気づいた。
他の星よりわずかに粘るような、落ち着いた瞬き。

「……本当だ。あれが、北極星」

「位置の目印になる。迷ったときは、あれを確かめろ」

「迷ったとき……」

彼の言葉を反芻しながら、リリアはふっと笑ってしまう。
以前、扉の前で言われた「迷うな」が、今夜は星の形をして届いた気がしたから。

「星って、地図みたいですね」

「地図より古い」
アドリアンの口元が、ほんの僅か柔らいだように見えた。
「人の都合では動かない」

その言い方が、どこか懐かしい祈りのようで、胸が温かくなる。
リリアは外套の端を握り、もう一度空を仰いだ。

「……あの、どうしてアドリアン様は星に詳しいのですか」

問いは夜に解けるほど静かだった。
アドリアンは一度だけ瞬きをして、言葉を探すように視線を落とす。

「昔から見ている。理由は……」
そこで、わずかに言い淀んだ。
月の光が、彼の横顔に薄い影を落とす。
短い沈黙ののち、彼はごく小さく首を振った。
「――落ち着くからだ」

その答えに、リリアは頷く。
「わたしも、です。見上げていると、胸の中で散らばっていたものが、だんだん位置に戻っていくみたいで」

言いながら自分で照れて、視線を外す。
けれど、隣の彼は否定しなかった。

「……君は、よく見える目をしている」

「え?」

「星を“見たい”と思っている目だ。だから、見える」

淡い言葉。
褒め言葉に慣れない心臓が、思わず余計に跳ねる。
リリアは耳の裏が熱くなるのを感じながら、そっと笑った。

「アドリアン様は、どういう目でご覧になるのですか」

今度は彼が言葉に詰まる番だった。
しばらくして、低い声が零れる。

「……位置と距離。形。……それから、そうだな――」

彼の視線が、リリアの手元にわずかに降りる。
外套の袖口から覗く指先が、寒さにかすか震えていた。

「冷える。長くいるつもりなら、手袋を忘れるな」

口調は事務的なのに、言葉の選び方がやさしい。
リリアは慌てて袖口を握り直し、こくりと頷く。

「ありがとうございます。気をつけます」

「……」

風が庭の高木を揺らし、葉擦れの音が星に薄く重なる。
リリアは勇気をひと匙、胸からすくい上げる。

「あの、もし差し支えなければ……また、教えてください。星のこと。わたし、もっと知りたくて」

アドリアンは夜空から視線を戻さない。
けれど、答えの代わりに、さっき示した北の方角をもう一度、指先で静かに示してみせた。
北極星からゆっくり斜めに目を移すと、春の大曲線――弓なりの連なりがかすかに見えてくる。

「北斗から弧を描いて明るい星を追え。最初に掴まるのがアルクトゥルス、さらに辿ればスピカだ」
淡々と、しかし声の奥にどこか温度を含んで。
「順番に覚えろ。君の目なら、すぐだ」

――それは、許し。
――そして約束の代わり。

リリアの胸に、小さな灯がふわりと増えた。
言葉より確かなものが、今夜は幾つも手に入った気がする。

「……はい。頑張ります」

嬉しさが声に滲むのを隠せずにいると、アドリアンがわずかに肩を揺らした。
それは笑ったのか、夜気に身を馴染ませたのか、判別のつかないほど控えめな仕草。

星をひとつ、またひとつ辿るうちに、時間の層が薄く剥がれていく。
彼は必要以上のことを語らない。けれど、示す指先は正確で、無駄がなかった。
リリアはつられて呼吸を整え、光の並びに自分の鼓動の拍を合わせていく。

やがて、鐘が遠くで一つ鳴った。
夜更けの合図。寮の規則が、帰還を促している。

「戻るか」

アドリアンが立ち上がる。
灰色の瞳が一度だけ彼女を見た。
そこには厳しさもある。けれど、見失わないようにと確かめる光もあった。

「……はい。また」

言い切った途端、唇の裏側が少し乾く。
彼は返事をしない。
ただ、歩き出してから半歩ほど足を緩め、リリアが並びやすい速度へ自然に落とした。
回廊の入り口まで来ると、扉の前でほんの短い間だけ、視線が扉の真鍮へと吸い寄せられる。
昨日と同じ、さざ波ほどの沈黙。

「――君くらいの年なら」

消え入りそうな声が、そこで途切れた。
彼は自ら言葉を断ち切るように、軽く首を振って扉を押し開ける。

「夜は、長い。風邪をひくな」

それだけを残して先に歩く背に、リリアは小さく頭を下げた。
胸のどこかがきゅっと鳴る。
今の未完の言葉が、薄い霧のように心に漂う。

君くらいの年なら――何だろう。
たぶん、あまり遠くない昔に、彼の傍らにも星を見上げる誰かがいたのだ。

廊下に戻ると、窓の外にはなお星の名残りがあった。
北の低いところで、揺れの少ない光。
迷ったときは、あれを確かめる。

リリアは外套の襟を立て、小さく息を吐く。
胸の中の星図に、今夜覚えた二つの名をそっと置いた。

アルクトゥルス。スピカ。
そして――北極星。

扉の内側で、真鍮の取っ手が冷たく光る。
指先にその冷たさを少しだけ移してから、リリアは部屋へ歩き出した。
白いカーテンが、夜の風に小さくさやいだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

お人形令嬢の私はヤンデレ義兄から逃げられない

白黒
恋愛
お人形のように綺麗だと言われるアリスはある日義兄ができる。 義兄のレイモンドは幼い頃よりのトラウマで次第に少し歪んだ愛情をアリスに向けるようになる。 義兄の溺愛に少し悩むアリス…。 二人の行き着く先は…!?

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

私と彼の恋愛攻防戦

真麻一花
恋愛
大好きな彼に告白し続けて一ヶ月。 「好きです」「だが断る」相変わらず彼は素っ気ない。 でもめげない。嫌われてはいないと思っていたから。 だから鬱陶しいと邪険にされても気にせずアタックし続けた。 彼がほんとに私の事が嫌いだったと知るまでは……。嫌われていないなんて言うのは私の思い込みでしかなかった。

処理中です...