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第3話:苦味が低音になる月、コーヒーが「ボン…」
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月の終わりは、いつも少しだけ名残惜しい。
ツキノテの窓辺には、先月の「レモン灯ゼリー」の空き瓶がひとつ残っていて、コハルはそれを拭きながら、ぼんやりと思った。
――光る酸味、可愛かったな。
瓶の底に残った淡い黄色は、もう光らない。でも、拭く手の中に「やさしい光をつくれた日」がそのまま残っている気がして、なんとなく捨てられなかった。
「……コハルさん」
カウンターの向こうで、白崎レイが黒板を消していた。粉が舞わないように、布巾で丁寧に、ゆっくりと。
「はい?」
「瓶は、捨てなくていいです。来月、使えるかもしれません」
「え、未来が見えるの?」
「条例が読めるだけです」
淡々とした声に、コハルは笑った。
「じゃあ、来月もよろしくね。翻訳係さん」
「合法の範囲で」
それが、ツキノテの月末の挨拶になりつつある。
シュガネコは砂糖袋の上で丸くなって、しっぽだけがふわふわ揺れていた。粉糖の足跡が、床にぽふぽふ。相変わらずだ。
コハルは、瓶を棚の一番上に置いた。
「よし。明日は月初だ。……今度は何が起こるかな」
レイは少しだけ顔を上げて、短く言った。
「……音、かもしれません」
「音?」
レイはそれ以上、言わなかった。言わないのに、確信だけは伝わってくる。
コハルは胸の奥が、ちょっとだけそわっとした。
でも、次の瞬間には、いつもの笑顔に戻った。
「じゃあ、ツキノテは“いい音”にする!」
そう言って、コハルは灯りを落とした。
明日の条例は、明日のわたしたちが受け止める。
* * *
月初の朝。
味律庁の掲示板前は、いつも通りの小さな戦場だった。
パン屋の店主が目を真ん丸にしていたり。果物屋の娘が「今月は鳴る?鳴らない?」と梨を耳に当てていたり。蜂蜜屋のおじさんが、瓶を抱きしめたまま固まっていたり。
コハルはレイの横に並び、深呼吸して、紙を見上げた。
今日も詩だ。今日も読みづらい。
コハルは声に出して読んだ。
「……『今月、苦味は低く鳴る。深さは安心に似るが、響きすぎた深さは眠りを攫う』……眠りを攫う……?」
読んでいる途中で、背中がぞくっとしたのは、風のせいじゃない。
掲示板の前の誰かが持っていた、黒いチョコの欠片が。
「ボン……」
と、鳴った。
音というより、空気が揺れた感じ。胸の奥に、低い波が押し寄せる。
コハルは思わず胸に手を当てた。
「……ほんとに鳴った」
レイが淡々と、補足条文の紙片を受け取った。
「今月の苦味は、音です。強さに比例して低く、大きく、響きます」
「コーヒー……鳴っちゃう?」
「はい」
「カカオも?」
「鳴ります」
コハルは、すぐに想像した。
ツキノテの朝のコーヒー。焼きたてのチョコスコーン。ほろ苦いガトーショコラ。
全部が、ボン、ボン、って鳴る。
可愛いのか、困るのか、まだわからない。
「……ねえレイさん」
コハルが小声で言うと、レイは目だけで返事をした。
「ツキノテ、ライブ会場になっちゃう?」
「……低音だけの、です」
「怖い」
「怖いですね」
怖いって言った。レイが。
それが妙に面白くて、コハルは少しだけ緊張がほどけた。
「よし。音の月。ツキノテ、やさしい低音でいく!」
「……合法の範囲で」
* * *
ツキノテに戻ると、厨房の空気がいつもより“重い”気がした。
コハルがコーヒー豆の袋を開けた瞬間――
「ボン……」
袋の中から、低い音が鳴った。
思ったより、しっかり鳴る。
コハルは一歩下がってしまった。
「……鳴る。鳴るよ、豆が」
レイは冷静に、黒板に訳を書き始める。
今月:苦味=低音(音)
苦いほど低く、強く鳴る。
“響きすぎ”は眠気・頭重・集中低下を起こすことがある。
対策:苦味を“丸くする”/音を“まとめる”/量を調整する。
「音をまとめる……?」
コハルが首を傾げると、棚の下でシュガネコが「にゃ」と鳴いた。
今日はいつもより短い鳴き方で、まるで“注意”みたいだった。
コハルは豆を挽く前に、まずカップに水を注いだ。
「じゃあ、試しに……少しだけ」
挽いた豆が、ミルの中で擦れるだけで、低音が増える。
「ボン……ボン……」
厨房の床が、わずかに震える気がした。胸の奥が、ふわっと眠くなる。
「……眠りを攫う、って、こういう……」
コハルが目をぱちぱちさせたとき、レイが言った。
「コハルさん。今日は、苦味系メニュー、抑えた方がいいです」
「え」
「最初から全力で鳴らすと、店が……眠くなります」
コハルは思わず笑った。
「店が眠くなるって、可愛いけど困るね」
「困ります」
レイは真剣だった。
* * *
開店時間。
朝の常連たちが入ってきた。
仕立て屋のおばあちゃん、新聞売りの青年、近所の花屋さん。みんなの「いつものコーヒー」が、ツキノテの朝の合図だ。
コハルは笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ!今月はね、苦味が鳴きます!」
「鳴くの?」
「ボンって」
「ボンって?」
説明しながら、コハルはコーヒーを淹れた。
――そして、鳴った。
「ボン……」
カップから、低音が立ちのぼる。湯気が音になっているみたいだ。
おばあちゃんが目を丸くした。
「まぁ……胸が、ふわってする」
青年が笑った。
「眠くなる。いい意味で」
花屋さんが言った。
「これは……雨の日の音みたい」
コハルは、ほっとした。
“怖い”だけじゃない。やさしい低音なら、むしろ癒しになる。
――今月、いけるかも。
そう思った矢先。
ドアベルがちりん、と鳴って、見慣れないお客さんが入ってきた。
細い体。大きな眼鏡。肩が少し上がっている。顔色が、どこか青い。
コハルはすぐに気づいた。
「……疲れてる人だ」
レイも同じことを思ったらしい。目が少しだけ鋭くなった。
お客さんは、席に座る前に、店内の低音に反応するように、こめかみを押さえた。
「すみません……コーヒーの香りに惹かれて入ったんですが……今日は、音が……」
コハルはすぐにカウンターから身を乗り出した。
「大丈夫ですか?眩しい月のときみたいに、ちょっと調整できます」
お客さんは、小さく頷いた。
「……本屋で働いています。今日は棚卸しで……頭が……」
レイが静かに言った。
「低音が響くと、疲れている人には強いです。今月は特に」
コハルはすぐに決めた。
“苦味を丸くする”。黒板の対策。
「甘いの、いけますか?」
お客さんは少し迷って、頷いた。
「……甘いのは、好きです。でも、あまり重いのは……」
コハルは笑った。
「任せて。重くしない甘さ、得意です」
シュガネコが「にゃ」と鳴いた。たぶん「得意げだ」と言っている。
* * *
厨房。
コハルは考えた。
苦味は低音になる。強いほど響く。なら、苦味を控えればいい。でも、コーヒーの“香り”は欲しい。
そして、お客さんは疲れている。
――必要なのは、目を覚ます刺激じゃなくて、頭の奥のザワザワを静める“落ち着き”。
コハルはカップを手に取って、レイに言った。
「ねえ、レイさん。今月の低音って、怖いときは怖いけど……安心するときは、安心だよね」
レイは一拍置いてから答えた。
「……心臓の音に似ています」
「それだ!」
コハルの目がきらっとした。
「じゃあ、“安心のボン”だけ残して、響きすぎるボンを消そう」
レイが小さく頷いた。
「……音をまとめる、ですね」
コハルは、コーヒーを薄めるのではなく、別の形にした。
ミルク。はちみつ少し。塩ひとつまみ。苦味を“丸く”する。
さらに、泡。
ふわふわのミルクフォームは、音を吸ってくれる気がした。泡って、なんとなく“やさしい壁”だ。
コハルは小さなスプーンで泡をすくい、カップにのせた。
「……これ、音が静かになる」
レイが言った。
「泡が振動を散らしているのかもしれません」
「泡、えらい!」
シュガネコが「にゃ」と鳴いた。今日はやたら参加してくる。
コハルは最後に、ほんの少しだけカカオを振った。
カカオは苦味がある。でも少しなら、低音は「ボン」じゃなくて「とん」と小さくなる。
“安心の音”だけ残す。
コハルは、そっとカップを運んだ。
* * *
席に戻ると、疲れたお客さんはまだこめかみに手を当てていた。
コハルはカップを置く前に、ひとこと添えた。
「今月の“静音コーヒー”です。……ボンが、やさしいやつ」
お客さんが恐る恐るカップを近づける。
「……音、する」
「します。でも、眠りを攫うボンじゃなくて……安心のボン」
お客さんが一口飲んだ。
その瞬間、肩が少し下がった。
「……あ」
声が小さく漏れる。
「……目が痛い感じが、少し……ほどけました」
コハルは胸の奥が、ふわっと温かくなる。
「よかった」
レイが横から、淡々と補足した。
「苦味が強すぎないので、低音も強すぎません。音は……まとまっています」
お客さんが、少しだけ笑った。
「……不思議ですね。音があるのに、静かです」
コハルは頷いた。
「音って、うるさいだけじゃないんだね」
* * *
しばらくして。
お客さんはカップを空にして、深く息を吐いた。
「……ありがとうございます。今日は、このまま家に帰って、少し休みます」
コハルは笑った。
「うん。休めるときに休んで。……本は逃げない」
お客さんはその言葉に、ふっと目を細めた。
「……本屋なのに、逃げないって、言ってくれる人、初めてです」
コハルは少し照れて、えへへ、と笑った。
「条例のせいで、たまに本も逃げるかもしれないけどね」
レイが真面目に言った。
「その月が来たら、翻訳します」
お客さんが、くすっと笑って帰っていった。
ドアが閉まると、店内に残ったのは、低音の“やさしい余韻”だけだった。
「ボン……」
朝のコーヒーの音が、今日は少しだけ落ち着いて聞こえる。
* * *
夕方。
コハルは黒板に新しいメニューを書き足した。
今月のおすすめ:静音モカ(安心のボン仕立て)
— 眠りを攫わない苦味、あります —
書き終えて振り返ると、レイがカウンターの端で小さな皿を見つめていた。
そこには、コハルが試作で焼いた「ほろ苦カカオのミニクッキー」が乗っている。
普段なら、レイは甘いものを“仕事の合間に”食べる。食べるけど、あまり表に出さない。
でも今日は、視線が少しだけ真剣だった。
コハルは、そっと近づいて、にこっと笑った。
「食べていいよ。合法だよ」
レイは一拍置いて、クッキーを取った。
口に入れた瞬間――
「ボン……」
小さな低音が、クッキーから鳴った。可愛い。ほろ苦いのに、音が丸い。
レイの表情が、ほんの一瞬だけ、ゆるんだ。
コハルは目を細めた。
「……今、笑った?」
「笑っていません」
「笑ったよ」
「……合法の範囲で、です」
コハルは吹き出した。
「それ、ずるい!」
シュガネコが「にゃ」と鳴いて、砂糖袋に顔をうずめた。粉糖の足跡がぽふ、と増える。
コハルは窓の外を見た。
日が沈みかけて、街のあちこちから、低音がふわふわ漂ってくる。
今月の苦味は、低く鳴る。
でもツキノテは、その低音を“怖いもの”にしない。
心臓みたいな安心のボンを、小さなお皿にのせて。
今日も、合法の範囲で。
ツキノテの窓辺には、先月の「レモン灯ゼリー」の空き瓶がひとつ残っていて、コハルはそれを拭きながら、ぼんやりと思った。
――光る酸味、可愛かったな。
瓶の底に残った淡い黄色は、もう光らない。でも、拭く手の中に「やさしい光をつくれた日」がそのまま残っている気がして、なんとなく捨てられなかった。
「……コハルさん」
カウンターの向こうで、白崎レイが黒板を消していた。粉が舞わないように、布巾で丁寧に、ゆっくりと。
「はい?」
「瓶は、捨てなくていいです。来月、使えるかもしれません」
「え、未来が見えるの?」
「条例が読めるだけです」
淡々とした声に、コハルは笑った。
「じゃあ、来月もよろしくね。翻訳係さん」
「合法の範囲で」
それが、ツキノテの月末の挨拶になりつつある。
シュガネコは砂糖袋の上で丸くなって、しっぽだけがふわふわ揺れていた。粉糖の足跡が、床にぽふぽふ。相変わらずだ。
コハルは、瓶を棚の一番上に置いた。
「よし。明日は月初だ。……今度は何が起こるかな」
レイは少しだけ顔を上げて、短く言った。
「……音、かもしれません」
「音?」
レイはそれ以上、言わなかった。言わないのに、確信だけは伝わってくる。
コハルは胸の奥が、ちょっとだけそわっとした。
でも、次の瞬間には、いつもの笑顔に戻った。
「じゃあ、ツキノテは“いい音”にする!」
そう言って、コハルは灯りを落とした。
明日の条例は、明日のわたしたちが受け止める。
* * *
月初の朝。
味律庁の掲示板前は、いつも通りの小さな戦場だった。
パン屋の店主が目を真ん丸にしていたり。果物屋の娘が「今月は鳴る?鳴らない?」と梨を耳に当てていたり。蜂蜜屋のおじさんが、瓶を抱きしめたまま固まっていたり。
コハルはレイの横に並び、深呼吸して、紙を見上げた。
今日も詩だ。今日も読みづらい。
コハルは声に出して読んだ。
「……『今月、苦味は低く鳴る。深さは安心に似るが、響きすぎた深さは眠りを攫う』……眠りを攫う……?」
読んでいる途中で、背中がぞくっとしたのは、風のせいじゃない。
掲示板の前の誰かが持っていた、黒いチョコの欠片が。
「ボン……」
と、鳴った。
音というより、空気が揺れた感じ。胸の奥に、低い波が押し寄せる。
コハルは思わず胸に手を当てた。
「……ほんとに鳴った」
レイが淡々と、補足条文の紙片を受け取った。
「今月の苦味は、音です。強さに比例して低く、大きく、響きます」
「コーヒー……鳴っちゃう?」
「はい」
「カカオも?」
「鳴ります」
コハルは、すぐに想像した。
ツキノテの朝のコーヒー。焼きたてのチョコスコーン。ほろ苦いガトーショコラ。
全部が、ボン、ボン、って鳴る。
可愛いのか、困るのか、まだわからない。
「……ねえレイさん」
コハルが小声で言うと、レイは目だけで返事をした。
「ツキノテ、ライブ会場になっちゃう?」
「……低音だけの、です」
「怖い」
「怖いですね」
怖いって言った。レイが。
それが妙に面白くて、コハルは少しだけ緊張がほどけた。
「よし。音の月。ツキノテ、やさしい低音でいく!」
「……合法の範囲で」
* * *
ツキノテに戻ると、厨房の空気がいつもより“重い”気がした。
コハルがコーヒー豆の袋を開けた瞬間――
「ボン……」
袋の中から、低い音が鳴った。
思ったより、しっかり鳴る。
コハルは一歩下がってしまった。
「……鳴る。鳴るよ、豆が」
レイは冷静に、黒板に訳を書き始める。
今月:苦味=低音(音)
苦いほど低く、強く鳴る。
“響きすぎ”は眠気・頭重・集中低下を起こすことがある。
対策:苦味を“丸くする”/音を“まとめる”/量を調整する。
「音をまとめる……?」
コハルが首を傾げると、棚の下でシュガネコが「にゃ」と鳴いた。
今日はいつもより短い鳴き方で、まるで“注意”みたいだった。
コハルは豆を挽く前に、まずカップに水を注いだ。
「じゃあ、試しに……少しだけ」
挽いた豆が、ミルの中で擦れるだけで、低音が増える。
「ボン……ボン……」
厨房の床が、わずかに震える気がした。胸の奥が、ふわっと眠くなる。
「……眠りを攫う、って、こういう……」
コハルが目をぱちぱちさせたとき、レイが言った。
「コハルさん。今日は、苦味系メニュー、抑えた方がいいです」
「え」
「最初から全力で鳴らすと、店が……眠くなります」
コハルは思わず笑った。
「店が眠くなるって、可愛いけど困るね」
「困ります」
レイは真剣だった。
* * *
開店時間。
朝の常連たちが入ってきた。
仕立て屋のおばあちゃん、新聞売りの青年、近所の花屋さん。みんなの「いつものコーヒー」が、ツキノテの朝の合図だ。
コハルは笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ!今月はね、苦味が鳴きます!」
「鳴くの?」
「ボンって」
「ボンって?」
説明しながら、コハルはコーヒーを淹れた。
――そして、鳴った。
「ボン……」
カップから、低音が立ちのぼる。湯気が音になっているみたいだ。
おばあちゃんが目を丸くした。
「まぁ……胸が、ふわってする」
青年が笑った。
「眠くなる。いい意味で」
花屋さんが言った。
「これは……雨の日の音みたい」
コハルは、ほっとした。
“怖い”だけじゃない。やさしい低音なら、むしろ癒しになる。
――今月、いけるかも。
そう思った矢先。
ドアベルがちりん、と鳴って、見慣れないお客さんが入ってきた。
細い体。大きな眼鏡。肩が少し上がっている。顔色が、どこか青い。
コハルはすぐに気づいた。
「……疲れてる人だ」
レイも同じことを思ったらしい。目が少しだけ鋭くなった。
お客さんは、席に座る前に、店内の低音に反応するように、こめかみを押さえた。
「すみません……コーヒーの香りに惹かれて入ったんですが……今日は、音が……」
コハルはすぐにカウンターから身を乗り出した。
「大丈夫ですか?眩しい月のときみたいに、ちょっと調整できます」
お客さんは、小さく頷いた。
「……本屋で働いています。今日は棚卸しで……頭が……」
レイが静かに言った。
「低音が響くと、疲れている人には強いです。今月は特に」
コハルはすぐに決めた。
“苦味を丸くする”。黒板の対策。
「甘いの、いけますか?」
お客さんは少し迷って、頷いた。
「……甘いのは、好きです。でも、あまり重いのは……」
コハルは笑った。
「任せて。重くしない甘さ、得意です」
シュガネコが「にゃ」と鳴いた。たぶん「得意げだ」と言っている。
* * *
厨房。
コハルは考えた。
苦味は低音になる。強いほど響く。なら、苦味を控えればいい。でも、コーヒーの“香り”は欲しい。
そして、お客さんは疲れている。
――必要なのは、目を覚ます刺激じゃなくて、頭の奥のザワザワを静める“落ち着き”。
コハルはカップを手に取って、レイに言った。
「ねえ、レイさん。今月の低音って、怖いときは怖いけど……安心するときは、安心だよね」
レイは一拍置いてから答えた。
「……心臓の音に似ています」
「それだ!」
コハルの目がきらっとした。
「じゃあ、“安心のボン”だけ残して、響きすぎるボンを消そう」
レイが小さく頷いた。
「……音をまとめる、ですね」
コハルは、コーヒーを薄めるのではなく、別の形にした。
ミルク。はちみつ少し。塩ひとつまみ。苦味を“丸く”する。
さらに、泡。
ふわふわのミルクフォームは、音を吸ってくれる気がした。泡って、なんとなく“やさしい壁”だ。
コハルは小さなスプーンで泡をすくい、カップにのせた。
「……これ、音が静かになる」
レイが言った。
「泡が振動を散らしているのかもしれません」
「泡、えらい!」
シュガネコが「にゃ」と鳴いた。今日はやたら参加してくる。
コハルは最後に、ほんの少しだけカカオを振った。
カカオは苦味がある。でも少しなら、低音は「ボン」じゃなくて「とん」と小さくなる。
“安心の音”だけ残す。
コハルは、そっとカップを運んだ。
* * *
席に戻ると、疲れたお客さんはまだこめかみに手を当てていた。
コハルはカップを置く前に、ひとこと添えた。
「今月の“静音コーヒー”です。……ボンが、やさしいやつ」
お客さんが恐る恐るカップを近づける。
「……音、する」
「します。でも、眠りを攫うボンじゃなくて……安心のボン」
お客さんが一口飲んだ。
その瞬間、肩が少し下がった。
「……あ」
声が小さく漏れる。
「……目が痛い感じが、少し……ほどけました」
コハルは胸の奥が、ふわっと温かくなる。
「よかった」
レイが横から、淡々と補足した。
「苦味が強すぎないので、低音も強すぎません。音は……まとまっています」
お客さんが、少しだけ笑った。
「……不思議ですね。音があるのに、静かです」
コハルは頷いた。
「音って、うるさいだけじゃないんだね」
* * *
しばらくして。
お客さんはカップを空にして、深く息を吐いた。
「……ありがとうございます。今日は、このまま家に帰って、少し休みます」
コハルは笑った。
「うん。休めるときに休んで。……本は逃げない」
お客さんはその言葉に、ふっと目を細めた。
「……本屋なのに、逃げないって、言ってくれる人、初めてです」
コハルは少し照れて、えへへ、と笑った。
「条例のせいで、たまに本も逃げるかもしれないけどね」
レイが真面目に言った。
「その月が来たら、翻訳します」
お客さんが、くすっと笑って帰っていった。
ドアが閉まると、店内に残ったのは、低音の“やさしい余韻”だけだった。
「ボン……」
朝のコーヒーの音が、今日は少しだけ落ち着いて聞こえる。
* * *
夕方。
コハルは黒板に新しいメニューを書き足した。
今月のおすすめ:静音モカ(安心のボン仕立て)
— 眠りを攫わない苦味、あります —
書き終えて振り返ると、レイがカウンターの端で小さな皿を見つめていた。
そこには、コハルが試作で焼いた「ほろ苦カカオのミニクッキー」が乗っている。
普段なら、レイは甘いものを“仕事の合間に”食べる。食べるけど、あまり表に出さない。
でも今日は、視線が少しだけ真剣だった。
コハルは、そっと近づいて、にこっと笑った。
「食べていいよ。合法だよ」
レイは一拍置いて、クッキーを取った。
口に入れた瞬間――
「ボン……」
小さな低音が、クッキーから鳴った。可愛い。ほろ苦いのに、音が丸い。
レイの表情が、ほんの一瞬だけ、ゆるんだ。
コハルは目を細めた。
「……今、笑った?」
「笑っていません」
「笑ったよ」
「……合法の範囲で、です」
コハルは吹き出した。
「それ、ずるい!」
シュガネコが「にゃ」と鳴いて、砂糖袋に顔をうずめた。粉糖の足跡がぽふ、と増える。
コハルは窓の外を見た。
日が沈みかけて、街のあちこちから、低音がふわふわ漂ってくる。
今月の苦味は、低く鳴る。
でもツキノテは、その低音を“怖いもの”にしない。
心臓みたいな安心のボンを、小さなお皿にのせて。
今日も、合法の範囲で。
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本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
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でも周りは全くハッピーじゃないです。
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