スポットライトの外で、あなたを選ぶ

星乃和花

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第十話 降板の告白

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午前の光は、白紙の端だけをやさしく濡らしていた。
レースは実際の風で薄く揺れ、壁の低い位置のベルは冷たい輪郭を保ったまま黙っている。
テーブルの上には、布袋、白紙、砂時計。
ルミエルは襟に幕間の留め具を留め、椅子を引くとき、肘木を一度だけ軽く叩いた。
木が小さく鳴る。合図ではない。ただ、「いる」という報せ。

「——話したいことがある」
わたしは言った。
胸の中で、言葉の前に息が一本、先に通る。
吸って、留めて、吐く。
ルミエルは、その拍で頷いた。俺の声色で、短く「うん」。

布袋から、曇り石の輪を出す。
いつものように当てるだけ右手の薬指へ。
濁った光が皮膚の色を残す。
砂時計を半砂だけ伏せる。
落ちる粒が、不揃いな拍で部屋を満たす。

「エリシア」
ルミエルが名前を呼ぶ。
わたしは喉の奥を撫で、台詞にならない息を一度、長く吐いた。
そのあとで、できるだけ短く、できるだけ今の言葉で言う。

「——妻の役を、降りたい」

レースの裾が、風もないのにふるえた。
白紙が一瞬だけ光を返し、壁のベルの金属が温度だけひとつ上がる。
遠く、音響の海の端で、細いハウリングが生まれ、すぐ消えた。

ルミエルは、拍手をしなかった。
代わりに、椅子の脚をほとんど音を立てずに引き寄せ、手を握った。
体温が、舞台の反射板を通らずに直接、掌へ落ちてくる。
彼は吸って、留めて、吐いたあと、低く答えた。

「ありがとう」

それから、もう一度。
今度は、少し笑った顔で。
「拍手は袖に置いてきた。立ち止まるだけ、覚えてきた」

胸の海が、潮を引くように静まる。怖さは残る。でも、怖さの下の温度は、わたし自身だった。
わたしは言葉を少し足す。
「降りるのは、やめることじゃない。選び直したいから。
 ——“理想の妻”ではなく、わたしとして、あなたの隣に座りたい」

ルミエルの喉が小さく鳴り、俺の声色のまま、短く、はっきりと言う。
「嬉しい」
それだけ。
でも、胸の内側で合図のない音が確かに鳴った。

「ベル、鳴らす?」と彼。
「……胸の中でだけ、鳴らして」
「わかった」
ルミエルは外のベルには触れず、留め具に指を置いて、胸の奥で一打だけ鳴らした。
外へは跳ねない音。個人用の静音。
立ち止まる“間”が、二人の間にやわらかく広がる。

玄関の下から、紙が一枚、するりと滑り込んだ。
黒衣の案内人からだ。封はない。
角に小さく——
『降板は勝敗ではありません。立ち止まり、記録は空白で構いません』
わたしは白紙の隣へ重ね、穴の開いた紙片を見つけて糸を通した。
新しいお守り。
「持ち歩ける降板にする」
「いい名前だ」とルミエル。

「……指輪は、どうしよう」
わたしは舞台の指輪の箱を開け、光をよく返す石を見た。
「重いと思う日は、置いていきたい。
 代わりにこれを——」
曇り石の輪を、いつものように当てるだけ。
今日だけは、当てたまま、拍を三つ分、留めてみる。
皮膚の温度が、輪の内側にゆっくり移る。
「……通してもいい?」
自分で言って、自分で頬が熱くなる。言葉が少なくなる癖が、恋の近さに拍車をかける。
ルミエルは、急がない。
「今なら、今。いつかなら、いつか。どちらも、嬉しい」

砂の落ちる音が、最後の粒でひとつ、遅れて鳴った。
それを合図に、わたしは輪をそっと通した。
曇り石は光を濁し、皮膚の色を残し、家の灯りだけを返す。
舞台の拍手はない。
壁のベルも鳴らない。
ただ、わたしたちの呼吸が同じ拍で重なる。

ルミエルの目が、驚きよりも安堵で湿った。
「……似合う。うちの光で、よく見える」
わたしは照れて、言葉が出ない。
代わりに、息を長く吐く。
それが「はい」になった。

「手続きを——」と言いかけて、わたしは沈黙した。
この国では、役の変更には形式がある。届け、確認、是正の説明。
ルミエルは首を振る。
「空白で出そう」
テーブルの白紙を回し、彼は筆を取らず、ただ指の腹で紙の端を押さえた。
「書かれない選択を、記録として出す。
 案内人は、穴を用意してくれる」
「……そうだね」

扉が軽く叩かれ、ノックは一度だけ。
黒衣の案内人が、影の深い目で微笑む。
「失礼、立ち止まりに同席だけ」
ベルは鳴らさない。
案内人は拍手をせず、敷居の線で静かに立ち止まり、ほんの一言だけ置いた。
「舞台はやさしい。降りる自由も、同じだけ用意してあります」
それから、白紙の端に小さな穴をもう一つ開け、糸を差し出す。
「二人で持てば、軽い」

退いた気配が消えると、家の空気はまたスープみたいに軽くなった。
わたしたちは、白紙の角と角を糸で結ぶ。
書かれていない紙が、形だけで、今日の決心を持った。

「……エリシア」
ルミエルが、袖のほつれを指で撫でながら言う。
「俺は、“完璧な紳士”を始まりに持っている。
 でも、続きは、君の隣で書きたい。
 願いより先に、君を置いて書きたい」

言葉が胸の奥で透明のインクになって滲む。
わたしは頷き、彼の指先に額をそっと当てた。
音は鳴らない。
反射板も、効果音もない。
皮膚の温度だけが、舞台の外で静かに増える。

夕暮れが近づいたので、灯りをひとつ落とす。
まだ暗転はしない。
光を落とす夜は、たぶん次に来る。
今はただ、部屋の端の影を少し増やすだけ。
影が増えるほど、曇り石は家の灯りを返し、指の輪郭がやさしく浮かぶ。

「晩ごはん、どうする?」
「甘くしないスープと、焦げめのパン」
二人で台所に立ち、火を弱く、音を小さく、空白多めで煮る。
ローズマリーの青い香りが、今日の決心にぴったりだった。
蜂蜜の瓶の蓋に結わえた“減らす”のお守りが、湯気に触れて小さく揺れる。

食後、壁の低い位置のベルへ行く。
わたしは掌で包み、鳴らさずに額を近づけた。
金属の冷たさが、皮膚にやさしく映る。
「今日は、胸の中で二打鳴らした。
 一つは、降板の告白に。
 一つは、並ぶ練習の続きに」
ルミエルが照れたように言う。
わたしは笑って頷いた。
胸の中で、同じ二打が、少し遅れて響いた。

夜。
寝室のドアノブのお守りが、微かに触れ合って音を作る。
レースの陰影が壁を移動し、幕は揺れない。
揺れなくても、わたしたちは立ち止まることを、身体に覚えた。

目を閉じる。
壁二枚の向こうで、ルミエルの呼吸が同じ拍で進む。
指の輪は、家の灯りを返しながら、皮膚にほんの小さな跡を残した。
罰は来ない。
拍手もない。
空白だけが、確かに記録される。

そしてその空白に、
“役の外の私”が“役の外のあなた”を選ぶという、一行が、
透明のインクで、静かに書き込まれていった。
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