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第1話 本日の議題は、クッキーです(誠実味の爆誕)
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錬金省の扉を押した瞬間、甘い香りが襟首にまとわりついた。
アッシュ・ヴェルは眉をひとつ動かすにとどめ、淡々と告げた。
「要点だけを。君が“感情の味”を焼けるというのは事実か?」
「はいっ!」
両腕でボウルを抱えた少女が、蜂蜜色の瞳をきらきらさせる。
「菓子妖精の家系でして。素直味、勇気味、謝罪味、和解味……お好みで!」
「従順味は?」
少女——ミル・サブレは、ほんの少し考えた。
「似たのなら、誠実味があります。みんな正直になって、ちゃんと話し合えます!」
「……それは従順とは別物だ」
アッシュは机の上の評議会資料に目を落とす。
「本日、反対派の票を軟化させる必要がある。従順味を、焼け」
「は、はい! “じゅう——」
「従順だ」
「じょ……じょ、誠実!」
「違う」
副官エリンがそっと囁く。「卿、語感が似てまして」
アッシュは短く息を吐いた。「ならばラベルを作れ」
即席の厨房が錬金省の一角に整う。窓から射す白光、並ぶ瓶。
ミルは袖をくるりと捲り、リズムよく素材を量る。
「小麦、砂糖、卵、バター、そして——」
「アイシング符は私が書く」
アッシュが羽根ペンを取る。銀の粒子を溶かし、砂糖言語で〈従順〉を描く。筆圧は均一、線は迷いなく美しい。
「きれい……」ミルが感嘆の声を漏らした。「卿の字、味がします」
「味はしない。するのは効果だ」
アッシュは符を渡す。「焼け」
こねこね。ぱたぱた。
ミルの手の中で生地が息をする。ハートでも星でもない、きちんと丸いクッキー。
オーブンに入ると、部屋じゅうに優しい匂いが膨らんだ。
「……集中できん」
アッシュは額に指を当てた。甘い匂いは苦手だ。だが必要な手段ならば飲み込む。
焼き上がり。
ミルが皿に並べ、ひとつ差し出す。「毒見、いえ、味見どうぞ!」
「不要だ。副官」
「なぜ毎回ぼくなんですか」エリンは諦めた顔で一口——噛んだ瞬間、目が丸くなる。
「……あ、あの、ぼく、実は先月の出張費の精算、三日遅らせました!」
「報告済みだ。次から遅らせるな」
アッシュは書類に視線を戻し——ふと顔を上げた。
エリンの皿のクッキー、表面のアイシング符が微妙に違う。
「これは〈従順〉ではない。……〈誠実〉だ」
「えっ」ミルが自分の手元を見て青ざめる。「えっ、えっ、間違えて並べ替えちゃいました……丸い字が可愛くて……!」
「可愛いは要点ではない」
アッシュは立ち上がる。「回収しろ。今すぐ——」
だが遅かった。廊下の書記官がふらふらと入ってくる。お茶菓子と勘違いしたらしい。
ぽり。もう一口。
「議長のカツラ、予備が議事堂の引き出しに入ってます!」
「誰に向かっての告白だ」アッシュが低く言う。
書記官ははっとして口を押さえ、涙目で走り去った。
ミルが両手を合わせる。「……でも、誠実って、良いことですよね?」
「計画の順序としては最悪だ」
アッシュは速足で評議会室へ向かう。ミルとエリンが慌ててついてくる。
すれ違う職員が次々とクッキーを摘む。ぽり、ぽり。
「昨日の稟議、読んでません!」
「わたし、同僚の観葉植物をこっそり増やしました!」
「議長の予備カツラは三つあります!」
「情報が不要に可視化されてゆく……」アッシュはこめかみを押さえた。
「ミル・サブレ、君は以後、私の許可なく焼くな」
「はい! ……でも、これ、逆に使えませんか? 誠実味で、ちゃんと話し合って——」
「政治は“ちゃんと”だけでは動かん」
そう言いつつ、彼の歩幅はわずかに緩む。甘い匂いが廊下に満ち、呼吸が浅くなる。
扉の向こう、評議会室からざわめき。
「開けるぞ」
アッシュが重い扉を押した。
議長が一枚。ぽり。
「——本日の議案、まだ読んでいません!」
全員、固まった。
続けざまに、ぽり、ぽり、ぽり。
「昨日の採決、実は寝落ちしてました!」
「お金より猫が好きです!」
「反対票は上司の顔色でした!」
正直という名の雪崩が、議場を白く埋めていく。
アッシュはゆっくりと息を吐いた。計画は初手から崩壊。しかし——
「……いいだろう。ならば“本当”から始めよう」
彼の声は低く、よく通った。
「誠実であることを、今日は議題にする」
ミルが隣で小さく拳を握った。「焼けば、なんとか……!」
「焼くな」
けれど口元は、ほんの少しだけ、緩んでいた。
——つづく——
アッシュ・ヴェルは眉をひとつ動かすにとどめ、淡々と告げた。
「要点だけを。君が“感情の味”を焼けるというのは事実か?」
「はいっ!」
両腕でボウルを抱えた少女が、蜂蜜色の瞳をきらきらさせる。
「菓子妖精の家系でして。素直味、勇気味、謝罪味、和解味……お好みで!」
「従順味は?」
少女——ミル・サブレは、ほんの少し考えた。
「似たのなら、誠実味があります。みんな正直になって、ちゃんと話し合えます!」
「……それは従順とは別物だ」
アッシュは机の上の評議会資料に目を落とす。
「本日、反対派の票を軟化させる必要がある。従順味を、焼け」
「は、はい! “じゅう——」
「従順だ」
「じょ……じょ、誠実!」
「違う」
副官エリンがそっと囁く。「卿、語感が似てまして」
アッシュは短く息を吐いた。「ならばラベルを作れ」
即席の厨房が錬金省の一角に整う。窓から射す白光、並ぶ瓶。
ミルは袖をくるりと捲り、リズムよく素材を量る。
「小麦、砂糖、卵、バター、そして——」
「アイシング符は私が書く」
アッシュが羽根ペンを取る。銀の粒子を溶かし、砂糖言語で〈従順〉を描く。筆圧は均一、線は迷いなく美しい。
「きれい……」ミルが感嘆の声を漏らした。「卿の字、味がします」
「味はしない。するのは効果だ」
アッシュは符を渡す。「焼け」
こねこね。ぱたぱた。
ミルの手の中で生地が息をする。ハートでも星でもない、きちんと丸いクッキー。
オーブンに入ると、部屋じゅうに優しい匂いが膨らんだ。
「……集中できん」
アッシュは額に指を当てた。甘い匂いは苦手だ。だが必要な手段ならば飲み込む。
焼き上がり。
ミルが皿に並べ、ひとつ差し出す。「毒見、いえ、味見どうぞ!」
「不要だ。副官」
「なぜ毎回ぼくなんですか」エリンは諦めた顔で一口——噛んだ瞬間、目が丸くなる。
「……あ、あの、ぼく、実は先月の出張費の精算、三日遅らせました!」
「報告済みだ。次から遅らせるな」
アッシュは書類に視線を戻し——ふと顔を上げた。
エリンの皿のクッキー、表面のアイシング符が微妙に違う。
「これは〈従順〉ではない。……〈誠実〉だ」
「えっ」ミルが自分の手元を見て青ざめる。「えっ、えっ、間違えて並べ替えちゃいました……丸い字が可愛くて……!」
「可愛いは要点ではない」
アッシュは立ち上がる。「回収しろ。今すぐ——」
だが遅かった。廊下の書記官がふらふらと入ってくる。お茶菓子と勘違いしたらしい。
ぽり。もう一口。
「議長のカツラ、予備が議事堂の引き出しに入ってます!」
「誰に向かっての告白だ」アッシュが低く言う。
書記官ははっとして口を押さえ、涙目で走り去った。
ミルが両手を合わせる。「……でも、誠実って、良いことですよね?」
「計画の順序としては最悪だ」
アッシュは速足で評議会室へ向かう。ミルとエリンが慌ててついてくる。
すれ違う職員が次々とクッキーを摘む。ぽり、ぽり。
「昨日の稟議、読んでません!」
「わたし、同僚の観葉植物をこっそり増やしました!」
「議長の予備カツラは三つあります!」
「情報が不要に可視化されてゆく……」アッシュはこめかみを押さえた。
「ミル・サブレ、君は以後、私の許可なく焼くな」
「はい! ……でも、これ、逆に使えませんか? 誠実味で、ちゃんと話し合って——」
「政治は“ちゃんと”だけでは動かん」
そう言いつつ、彼の歩幅はわずかに緩む。甘い匂いが廊下に満ち、呼吸が浅くなる。
扉の向こう、評議会室からざわめき。
「開けるぞ」
アッシュが重い扉を押した。
議長が一枚。ぽり。
「——本日の議案、まだ読んでいません!」
全員、固まった。
続けざまに、ぽり、ぽり、ぽり。
「昨日の採決、実は寝落ちしてました!」
「お金より猫が好きです!」
「反対票は上司の顔色でした!」
正直という名の雪崩が、議場を白く埋めていく。
アッシュはゆっくりと息を吐いた。計画は初手から崩壊。しかし——
「……いいだろう。ならば“本当”から始めよう」
彼の声は低く、よく通った。
「誠実であることを、今日は議題にする」
ミルが隣で小さく拳を握った。「焼けば、なんとか……!」
「焼くな」
けれど口元は、ほんの少しだけ、緩んでいた。
——つづく——
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