【完結】地獄の釜は閉めたまま

染西 乱

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今の時刻は午前の人の賑わいがひと段落した折ではあるが、太陽か真上に登るまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

本堂と正門の間に植えられた紅葉の枝の影もまだ地面に伸びている。
その横には緑色した健康そうな苔が生えた岩がある。岩はほとんどが地面に埋もれていて一寸ほどの岩肌がのぞいている。見えている部分はほんの一部であろうと思われた。

孝之介はけばだった雪駄を履いた足を大きく開き、自分の肩幅よりも少し小さいばかりの半円の岩の前に立つ。

そうして腰をかがめると、その岩に空いた丸い穴に頭を突っ込んだ。湿り気を帯びた空気が頭を包み込むのがわかる。

呼吸をするのも最低限に、孝之介は聞こえてくる音に耳を澄ませた。

ごうごうと全てを薙ぎ払うような風音にも、地獄の釜を蒸す火の音にも聞こえる。地獄の業火にも火の音というのがあるのだろうか。
心して聞けば、地獄行きを言い渡された人々の叫び声にも聞こえてくるから不思議だ。

さて、地獄にも種類がある。
この音は果たして地獄のどのあたりの音だろうか。
阿鼻地獄(あびじごく)の音や、叫喚地獄(きょうかんじごく)の音にしては、静かすぎる。
やはり有名どころの灼熱地獄(しゃくねつじごく)あたりだろう。鎌をぐつぐつ煮立てる音と悲鳴の融合した音といったところだろうか。

じわじわと太陽の温かさが腰を折った背中をじわじわと暖かくしてくれている。

「また地獄の音聞いてるんか?」

せっかくの《地獄の音》を台無しにしたのは年若い女の声だ。
呆れたと言いたげな声がずかずかと耳の奥に横入りしてくる。

その声を聞くだけで誰の声だかすぐにわかるのは、相手が幼い頃からの付き合いのある女の声であったからだ。

声は黙って動かない孝之介に「頭に血上って倒れてまうで」と続け、おい、こら、聞いてんのか、と丸めた背中の骨にぶすぶすと人差し指を突き刺してくる。
痛くはないが、煩わしくはある。

「……見てわかるやろ、地獄に想いを馳せてんねん」

孝之介はいつもいつも邪魔しよって、とぶつくさいいながら、固くごつごつとした岩に手を置いて頭を岩の穴から抜き出す。
その岩のぽっかりと空いた穴に頭を入れれば、地獄の音が聞こえる、と言われている岩である。

風の蠢くような音を聞いていたからか、美知子の声はやけに涼しく耳に響く。

「お前今日は店の手伝いやったんとちゃうんか?」

背を伸ばして、近くに立っている美知子を見る。
接客をするためか、すっきりと結い上げた髪には飾りがつけられていない。
幕府からのお触れで華美な装飾を禁じるというものが出て以来、美知子は髪にかんざしの一つもつけなくなつてしまった。
瑪瑙あたりの地味な色合いの玉かんざしぐらいならばつけても良さそうだと思うのだが、客商売をしているため、悪目立ちしたくないと言ってまったくつけていない。

ほつれ髪がもみあげからぴょいっと飛び出している。
地味なくすんだ若草色の矢切模様の着物の上から、腰に白い使い古された前掛けをかけている。
これも幕府のお触れのためである。
庶民の服についてのおふれを出したせいだ。
まだ若い娘なのだから派手な服をきておしゃれを楽しみたいだろうに。かわいそうなことだ。

前掛けには、美知子の店の名前が目立つ大きなはっきりとした文字でかかれていた。
先ほどまで店の手伝いをしていたんだろう。

「そうやねんけど、ちょっと困った客がきよってん」

美知子はわずかに眉を下げ、近くにあった小石をこれさいわいと蹴飛ばした。

美知子の家は、ここから5分ほど歩いた場所にある。
茶屋を営んでおり、そこそこ人の入りがある人気のお店だ。
元気よく口の回るたちの美知子は店の看板娘としてもすこしは名が知られている。

「困った客? なんや、そしたら俺が行って一発入れて追い払ったるわ」

孝之介は、かがみ込んでいたために緩んでしまった襟元をちょいちょいと直した。
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