3 / 20
1.
しおりを挟む
今の時刻は午前の人の賑わいがひと段落した折ではあるが、太陽か真上に登るまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
本堂と正門の間に植えられた紅葉の枝の影もまだ地面に伸びている。
その横には緑色した健康そうな苔が生えた岩がある。岩はほとんどが地面に埋もれていて一寸ほどの岩肌がのぞいている。見えている部分はほんの一部であろうと思われた。
孝之介はけばだった雪駄を履いた足を大きく開き、自分の肩幅よりも少し小さいばかりの半円の岩の前に立つ。
そうして腰をかがめると、その岩に空いた丸い穴に頭を突っ込んだ。湿り気を帯びた空気が頭を包み込むのがわかる。
呼吸をするのも最低限に、孝之介は聞こえてくる音に耳を澄ませた。
ごうごうと全てを薙ぎ払うような風音にも、地獄の釜を蒸す火の音にも聞こえる。地獄の業火にも火の音というのがあるのだろうか。
心して聞けば、地獄行きを言い渡された人々の叫び声にも聞こえてくるから不思議だ。
さて、地獄にも種類がある。
この音は果たして地獄のどのあたりの音だろうか。
阿鼻地獄(あびじごく)の音や、叫喚地獄(きょうかんじごく)の音にしては、静かすぎる。
やはり有名どころの灼熱地獄(しゃくねつじごく)あたりだろう。鎌をぐつぐつ煮立てる音と悲鳴の融合した音といったところだろうか。
じわじわと太陽の温かさが腰を折った背中をじわじわと暖かくしてくれている。
「また地獄の音聞いてるんか?」
せっかくの《地獄の音》を台無しにしたのは年若い女の声だ。
呆れたと言いたげな声がずかずかと耳の奥に横入りしてくる。
その声を聞くだけで誰の声だかすぐにわかるのは、相手が幼い頃からの付き合いのある女の声であったからだ。
声は黙って動かない孝之介に「頭に血上って倒れてまうで」と続け、おい、こら、聞いてんのか、と丸めた背中の骨にぶすぶすと人差し指を突き刺してくる。
痛くはないが、煩わしくはある。
「……見てわかるやろ、地獄に想いを馳せてんねん」
孝之介はいつもいつも邪魔しよって、とぶつくさいいながら、固くごつごつとした岩に手を置いて頭を岩の穴から抜き出す。
その岩のぽっかりと空いた穴に頭を入れれば、地獄の音が聞こえる、と言われている岩である。
風の蠢くような音を聞いていたからか、美知子の声はやけに涼しく耳に響く。
「お前今日は店の手伝いやったんとちゃうんか?」
背を伸ばして、近くに立っている美知子を見る。
接客をするためか、すっきりと結い上げた髪には飾りがつけられていない。
幕府からのお触れで華美な装飾を禁じるというものが出て以来、美知子は髪にかんざしの一つもつけなくなつてしまった。
瑪瑙あたりの地味な色合いの玉かんざしぐらいならばつけても良さそうだと思うのだが、客商売をしているため、悪目立ちしたくないと言ってまったくつけていない。
ほつれ髪がもみあげからぴょいっと飛び出している。
地味なくすんだ若草色の矢切模様の着物の上から、腰に白い使い古された前掛けをかけている。
これも幕府のお触れのためである。
庶民の服についてのおふれを出したせいだ。
まだ若い娘なのだから派手な服をきておしゃれを楽しみたいだろうに。かわいそうなことだ。
前掛けには、美知子の店の名前が目立つ大きなはっきりとした文字でかかれていた。
先ほどまで店の手伝いをしていたんだろう。
「そうやねんけど、ちょっと困った客がきよってん」
美知子はわずかに眉を下げ、近くにあった小石をこれさいわいと蹴飛ばした。
美知子の家は、ここから5分ほど歩いた場所にある。
茶屋を営んでおり、そこそこ人の入りがある人気のお店だ。
元気よく口の回るたちの美知子は店の看板娘としてもすこしは名が知られている。
「困った客? なんや、そしたら俺が行って一発入れて追い払ったるわ」
孝之介は、かがみ込んでいたために緩んでしまった襟元をちょいちょいと直した。
本堂と正門の間に植えられた紅葉の枝の影もまだ地面に伸びている。
その横には緑色した健康そうな苔が生えた岩がある。岩はほとんどが地面に埋もれていて一寸ほどの岩肌がのぞいている。見えている部分はほんの一部であろうと思われた。
孝之介はけばだった雪駄を履いた足を大きく開き、自分の肩幅よりも少し小さいばかりの半円の岩の前に立つ。
そうして腰をかがめると、その岩に空いた丸い穴に頭を突っ込んだ。湿り気を帯びた空気が頭を包み込むのがわかる。
呼吸をするのも最低限に、孝之介は聞こえてくる音に耳を澄ませた。
ごうごうと全てを薙ぎ払うような風音にも、地獄の釜を蒸す火の音にも聞こえる。地獄の業火にも火の音というのがあるのだろうか。
心して聞けば、地獄行きを言い渡された人々の叫び声にも聞こえてくるから不思議だ。
さて、地獄にも種類がある。
この音は果たして地獄のどのあたりの音だろうか。
阿鼻地獄(あびじごく)の音や、叫喚地獄(きょうかんじごく)の音にしては、静かすぎる。
やはり有名どころの灼熱地獄(しゃくねつじごく)あたりだろう。鎌をぐつぐつ煮立てる音と悲鳴の融合した音といったところだろうか。
じわじわと太陽の温かさが腰を折った背中をじわじわと暖かくしてくれている。
「また地獄の音聞いてるんか?」
せっかくの《地獄の音》を台無しにしたのは年若い女の声だ。
呆れたと言いたげな声がずかずかと耳の奥に横入りしてくる。
その声を聞くだけで誰の声だかすぐにわかるのは、相手が幼い頃からの付き合いのある女の声であったからだ。
声は黙って動かない孝之介に「頭に血上って倒れてまうで」と続け、おい、こら、聞いてんのか、と丸めた背中の骨にぶすぶすと人差し指を突き刺してくる。
痛くはないが、煩わしくはある。
「……見てわかるやろ、地獄に想いを馳せてんねん」
孝之介はいつもいつも邪魔しよって、とぶつくさいいながら、固くごつごつとした岩に手を置いて頭を岩の穴から抜き出す。
その岩のぽっかりと空いた穴に頭を入れれば、地獄の音が聞こえる、と言われている岩である。
風の蠢くような音を聞いていたからか、美知子の声はやけに涼しく耳に響く。
「お前今日は店の手伝いやったんとちゃうんか?」
背を伸ばして、近くに立っている美知子を見る。
接客をするためか、すっきりと結い上げた髪には飾りがつけられていない。
幕府からのお触れで華美な装飾を禁じるというものが出て以来、美知子は髪にかんざしの一つもつけなくなつてしまった。
瑪瑙あたりの地味な色合いの玉かんざしぐらいならばつけても良さそうだと思うのだが、客商売をしているため、悪目立ちしたくないと言ってまったくつけていない。
ほつれ髪がもみあげからぴょいっと飛び出している。
地味なくすんだ若草色の矢切模様の着物の上から、腰に白い使い古された前掛けをかけている。
これも幕府のお触れのためである。
庶民の服についてのおふれを出したせいだ。
まだ若い娘なのだから派手な服をきておしゃれを楽しみたいだろうに。かわいそうなことだ。
前掛けには、美知子の店の名前が目立つ大きなはっきりとした文字でかかれていた。
先ほどまで店の手伝いをしていたんだろう。
「そうやねんけど、ちょっと困った客がきよってん」
美知子はわずかに眉を下げ、近くにあった小石をこれさいわいと蹴飛ばした。
美知子の家は、ここから5分ほど歩いた場所にある。
茶屋を営んでおり、そこそこ人の入りがある人気のお店だ。
元気よく口の回るたちの美知子は店の看板娘としてもすこしは名が知られている。
「困った客? なんや、そしたら俺が行って一発入れて追い払ったるわ」
孝之介は、かがみ込んでいたために緩んでしまった襟元をちょいちょいと直した。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる