ある魔法都市の日常

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酒場の尾華さん2

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 疲れのにじむ体でトボトボと街を歩く。
 工房の集まる区画から出ると、途端に喧騒が遠ざかる。
 住宅街とも繁華街とも言えない、半端な位置にその店はある。
 一階は店舗、二階から上は一人暮らし用のアパート。そんな建物の一つ。

 カランコロン。
 ベルが扉が開くのに合わせて軽い音をたてる。
 相変わらずの軽い音に、ちょっとだけ気分が上向く。
 入ってすぐにカウンター。木で統一された内装が、少し暗い照明に照らされている。
 他にお客の姿はない。

 ここに来て、他のお客の姿があるのは二回に一回くらいだろうか。
 人が居なさ過ぎて潰れないか心配になる。前にここで会ったワイン工房の人は、常連だと聞いている。それでも会うことは少ない。来る時間帯が違うんだろうか。

「あら、いらっしゃい」
「こんばんわ」

 店主の尾華さんと挨拶を交わしてカウンターの席に座る。

「濃いほうのワインと食事をお願いします」
「鳥肉でいいかしら?」
「ええ」

 簡単なやりとりの後で、ワインが入ったコップが出て来る。
 この店で出す飲み物はワインだけで、そのワインも2種類しかない。色が濃いほうと薄いほう。肉料理には濃いほうが合うから、自分はいつも濃いほうを頼む。
 じゃあ肉料理じゃないときは、薄いほうを頼むのか。
 別の店ならそういうこともあるかもしれない。
 この店では、ない。それは肉料理しかこの店では出していないからだ。

 そこらの酒場だと肉以外にもイモやマメあたりがツマミの定番だが、この店には一切ない。
 ……雰囲気は良いのに客がいないのはそのあたりが原因かもしれない。潰れないのであれば、静かな方が好みでもあるのが悩ましいところだ。
 ワインを一口飲んでぼーっと待つ。
 今日は物凄く疲れた。あのウマ面め、すぐに自分語りを始めるせいでこんな時間まで掛かってしまった。

「はいどうぞ」
「ああ、どうも」

 カタンと音を立てて置かれた皿には、焼き立ての鳥肉ステーキが音を立てている。
 焦げてる風はないが、狐色に焼かれたその色は香辛料だろうか。
 尾華さんは肉が好きすぎて、肉料理しかしないと明言している。そのぶん、この酒場の食事は見た目よりも手がこんでいる。
 一口大に切り分けてるだけで肉汁が溢れて、暗い照明の下でも光って見える。
 そのまま口に放り込めば、香辛料のピリッとした辛さと肉の旨味が肉汁と共に口の中を蹂躙する。

 旨い。

 疲れと空腹で、気づいたら皿の上は空になっていた。
 ワインを一口飲んで気持ちを落ち着ける。
 あのウマ面は面倒な性格でも、修理の腕は確かだ。仕方がない。
 元々、紡績機を作った工房は別の街にある。修理に出した場合の期間と運搬費用がどれだけかかるかと考えたら、ウマ面に頼むのが一番なのは確かだ。

「お皿下げるわよ」
「ええ、おいしかったです」

 残ったワインをのんびりと飲む。

「そういえば」

 尾華さんの声に顔を上げる。

「この前話していた羊のお肉って、売りには出してないの?」
「あー」

 確かに前に話をしたことはあった。
 肉専門の尾華さん相手に話題にしやすかったからだ。随分前のことだ。よく覚えていたものだと思う。

「新鮮じゃないと臭みが出るとかで、売るのはやめてしまったみたいですよ」
「あら、残念ね。楽しみにしてたのに」

 臭みが出る前に凍らせてしまえば大分違うようだ。しかし、山浦さんの家族はあまり魔法が上手くない。正確には、常に感覚強化に魔力を持っていかれてしまうから、他の魔法はあまり使えないということだった。
 元々、羊毛のために羊を飼っているわけで、年を取ったり、数が増えた羊を潰した分だけの肉だ。肉専門でやっている牧場ほどの量は出ない。
 それなのに凍らせる専門の魔法使いを雇うというのは無理がある。
 凍らせたままの運搬や保管にも高価な魔法道具が必要になるだろう。
 そこまでして売ったとして、凍らせた分だけ、他の肉より値段が高くなってしまう。
 そんなわけで売るのは諦めたらしい。

「牧場まで行ったら売ってくれないかしら」
「あー、どうでしょう。今度聞いてみますよ」

 尾華さんが一人で食べるくらいの量なら、羊毛の買い付けの時にでも持って帰れるだろう。
 ずっと凍らせ続けるのは厳しいから、熱を通しにくい袋にでも、氷と一緒に入れておくこくらいしか出来ない。しかし、持って来たその日のうちに渡すなら、それで足りるとも言える。

「そう、是非お願いね」

 直ぐ近くで声がして、見ると尾華さんがカウンターから身を乗り出していた。
 随分と近い位置で、チロリとヘビのような細長い舌がのぞく。
 食われそうで怖いんで、ちょっと体を離してもらえませんかね。
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