忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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動乱編

合理的判断

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 人々の活気に満ちた声が飛び交い、露店の呼び込みが賑やかに響く。
 焼き立てのパンの香ばしい匂い、果物の甘酸っぱい香りが入り混じる市場の空気。
 だが、私とシス様にとって、この場は決して"安息の地"ではなかった。
 私は、肩にかかる粗末なマントをわずかに整える。
 この姿ならば、貴族と気づかれることはない。――そう思いたい。

 だが、違和感は消えない。

 "私たちは、この場所に馴染めていない。"

 理由は明白だ。
 この国の王が死に、新王が擁立される今、"王族の血を引く者"であるシス様は、存在そのものが"処刑対象"なのだから。

「……すぐに追っ手が来るな」

 シス様が低く呟いた。
 私も静かに周囲へと視線を巡らせる。
 兵士、傭兵、そして――見慣れぬ男たち。
 彼らの表情に緊張はない。
 だが、それが"演技"である可能性を考えなければならない。
 まだ新王は正式に戴冠していない。
 けれど、この混乱の中でシス様の首を取れば、間違いなく"大きな功績"となる。
 私は、無意識に剣の柄へと手を伸ばしかけた。

(どんな手を使ってでも、シス様を殺しに来る)

 それは"確定事項"だ。
 新王派にとって、シス様の生存は"不都合"。
 つまり、逃亡は困難を極める。

「ここで捕まるわけにはいかない」

 王都に戻ることは不可能だった。貴族の領地も信用できない。
 新王派の影響がどこまで及んでいるのか分からない以上、"裏切り"の可能性は常に存在する。

 ――逃亡は、絶望的に不利。

 けれど、"まだ可能性はある"。
 シス様は、ゆっくりと私を見つめ、静かに言った。

「国境駐留の騎士団に向かう」

 私は、わずかに目を見開く。
 国境には、かつてシス様が親しくしていた騎士団がいる。王国の外敵を防ぐために編成された独立軍団。
 彼らは王都の貴族派閥とは異なり、王家に忠誠を誓った"剣"であり、"盾"である。
 もし、彼らがまだ健在なら――"助けを得られる可能性がある"。
 だが、それは"賭け"だった。

「……彼らが、寝返っていたら?」

 私は問いかける。
 新王派は、シス様の影響力を最も恐れている。ならば、当然"王子の逃亡先となる場所"には、すでに手を回している可能性が高い。

 もし、国境の騎士団がすでに新王派に屈していたなら――

 シス様は、一瞬だけ目を伏せた後、静かに答えた。

「それなら、それでいい」
「……?」
 私は眉を寄せる。

「もし彼らが寝返っていたなら、それを確かめることも重要だ」
 その言葉に、私はようやく理解した。

 この戦いは、単なる"逃亡"ではない。
 シス様にとって、この状況は"祖国を取り戻す戦いの始まり"なのだ。そのためには、"誰が敵で、誰が味方か"を見極める必要がある。
 私は静かに頷いた。

「……なるほど」

 しかし、悠長にしてはいられない。
 私は市場の端に目を向ける。その先には、王都から派遣された騎士たちの姿があった。
 彼らはまだ、こちらには気づいていない。
 だが、時間の問題だ。

 "ここにいる限り、いずれ見つかる"。

「……時間の猶予は、ほとんどないようですね」

 シス様は深く頷き、鋭い眼差しで前を見据えた。

「ならば、行くぞ。すべては――"この国を取り戻すために"」



 私はひっそりと市場の裏道へと身を滑り込ませた。王子が僅かに遅れてついてくる。
 すべての人間が"敵"かもしれないこの土地。密告されれば、即座に追っ手がかかる。どの路地の影にも、潜んでいるかもしれない"裏切り者"。
 この領地を突っ切る以外に、国境へ向かう道はない。

(本当に……シス様を守り切れるのか?)

 自分の実力を疑っているわけではない。だが、戦場には"運"も"状況"も絡む。
 敵の数、地の利、武器の差。いかに技が優れていても、状況次第であっけなく命は奪われる。
 私は、そういう場を幾度となく見てきた。

(……間に合わないのではないか)

 不安が、胸の奥からじわりと広がる。

 シス様を守ることに意味はあるのか?
 戦い続けた先に、どんな未来がある?
 本当に、すべてを覆せるのか?

 もし、このまま追われる日々が続けば。

(私たちは、どこかで"力尽きる")

 無情な現実が、脳裏をかすめる。
 だが、そんな考えが浮かんだ瞬間、私は強く拳を握りしめた。

 "もう、二度と大切な人を失うものか"

 あの時のように。
 すべてを失い、ただ焼け落ちる屋敷の中で絶望に沈むような未来は、二度と。
 次の瞬間、私は頭を振る。

 違う。違う、違う、違う。

 私は"感情で動いている"のか?

 そんなことは、あってはならない。
 シス様を守るのは、そういう理由じゃない。これは"復讐"のためだ。私の目的は、彼の生存の先にある。
 彼が生きていれば、私の"本懐"を果たす機会が生まれる。それだけだ。

(……感情ではない。これは、合理的な判断だ)

 だからこそ、私はシス様を守る。
 だからこそ、私はシス様を"生き延びさせる"。

 それが、私に課された使命。私は、もう一度深く息を吐き、目を閉じた。

("シス様を守る"……その先に、私の目的がある)

 決して、惑わされるな。これは、私が選んだ"戦い"だ。
 感情ではない。ただ、復讐のための道。それ以外は、何もいらない。
 そう、心に言い聞かせる。そして、私は静かに目を開いた。

「……行きましょう、王子」

 冷静な声で言う。シス様は短く頷く。

「"国境の騎士団"に辿り着くまで、全力で逃げる」
「……承知しました」

 決断は、もう揺るがない。
 全てを捨て、生き抜き、そして"王を取り戻す"ために。



「ちょっと待て。一つ言いたいことがある」

 唐突に発せられた声に、私は足を止めた。私は、軽く振り返る。

「……なんでしょうか、王子」
「それだ」
「?」

 一瞬、何を指しているのかわからず、私は彼を見つめる。だが、シス様は眉をひそめたまま、続けた。

「君が私を"王子"と呼ぶと、私がここにいることを喧伝しているに等しい」

 その言葉を聞いて、ようやく私は彼の意図を理解した。確かに、彼は今や"王都を追われた亡命者"だ。
 "王子"という呼び名は、彼がここにいることを周囲に知らしめるのと同じ。王都側に通じた者がこの町に潜んでいないとは限らない。

「……では、王子とは言わないようにいたします」
「助かる」

 彼は短く答え、ふっと息をついた。確かに、今の状況を考えれば、これは当然の警戒だった。
 王弟が新王を僭称している。彼の存在を嗅ぎつけられれば、それだけで命取りになりかねない。

「では……アレクシス様は――」
 口にした瞬間、違和感が走った。

 "アレクシス様"――それでは王子と呼ぶのと大して変わらない。
 それに気づいたのは私だけではなかったらしく、彼は苦笑する。

「そうだな、それでは意味がない」
「でしたら――」

 一拍、間を置く。
 考える。どう呼べばいい?
 "王子"と呼ぶのは問題外。"アレクシス様"もまた、目立ちすぎる。では、どうすればいい?
 思い浮かんだのは、一つの名前。

「……シス様」

 そう口にした瞬間、私の心臓が不自然なほどに跳ねた。
 王子の表情が、一瞬だけ驚きに揺れる。
 ほんの一瞬だったが、私の目はそれを確かに捉えていた。

(……しまった?)

 今のはまずかっただろうか。"シス様"と呼ぶのは、昔の名残だった。幼い頃、まだ身分も関係なく剣を交えていた頃、私はそう彼を呼んでいた。
 その呼び方を、無意識に選んでしまった。

「……その呼び方は」

 王子の声が、僅かに詰まる。私はすぐに取り繕う。

「"アレク様"では不自然ですし、"シス様"なら問題ないかと」

 まるで計算したかのように、理由を並べる。あくまでこれは実用性を考えた結果にすぎない。それ以上の意味はない。
 そう言い聞かせながら、私はシス様の表情を伺った。
 彼は一瞬、何かを考えるように目を伏せたが、やがて微かに笑った。

「そうだな……確かに、それなら問題ない」

 納得したように頷くと、軽く肩をすくめる。

「では、これからはそう呼んでくれ」
「……改めまして、よろしくお願いします、シス様」

 自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。けれど、同時に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 ――嬉しい。

 そう思った自分に、すぐさま嫌悪が湧いた。

(違う、これは"復讐のため")

 私は彼の信頼を得る必要がある。そのためには、距離を詰めることが必要であり、自然な関係を築くことが重要。
 これは、ただの計算された行動にすぎない。

(……だから、嬉しいなんて思うのは、おかしい)

 私は自分に言い聞かせる。
 だが、それでも。心の奥に残る微かな余韻を、完全に振り払うことはできなかった。
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