忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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動乱編

山の追手

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 アレクシスとサーディスは、深い山の奥へと足を踏み入れていた。頭上を覆う木々の枝が闇を濃くし、太陽すら遮る。足元には無数の落ち葉が積もり、乾いた土の匂いが微かに漂っていた。冷たい風が吹き抜け、肌を刺すような冷気が山の静寂を支配している。

 遠くで、獣の鳴き声が響いた。
 アレクシスは歩を緩め、周囲の気配を探るように目を細めた。背後に広がる山道を見遣りながら、低く息を吐く。

「……まずい」
サーディスが、静かに言葉を落とす。

「どうした?」

 アレクシスが問いかけると、サーディスはしばらくじっと耳を澄ませていた。わずかに緊張を孕んだ声で答える。

「追手が、近いです」

 その言葉に、アレクシスの表情が険しくなる。周囲を素早く見渡したが、今のところ視界には何も映らない。

「痕跡はほとんど残していないはずだ。ましてや、山の中……普通の兵士なら、ここまで追跡できるとは思えない」

「ええ……ですが、確かに"気配"がします」

 サーディスの声には迷いがなかった。
 アレクシスも、かすかな違和感を覚えていた。風の流れが不自然だ。鳥の鳴き声が消え、山が"沈黙"している。

(――誰かが、近づいている)

 それも、ただの追手ではない。 王子は剣の柄を握りしめ、低く問いかけた。

「つまり、向こうには"狩人"のような者がいるということか」

「ええ。山の地形に詳しく、追跡術に長けた者がいると考えるべきです」

 サーディスの声は冷静だった。だが、その目は鋭く研ぎ澄まされている。
 アレクシスは険しい表情で息を吐いた。
 追跡者――それも、ただの兵士ではなく、"専門の狩人"であるならば、今の状態では厄介すぎる。
 逃亡において、こうした追跡者は前線の兵士よりも危険だ。彼らは戦闘だけでなく、敵を"逃がさず、追い詰める"ことに長けている。

「馬を乗り捨てた位置がまずかったかもしれない」
 サーディスが静かに呟く。

「馬を捨てた地点で、山へ入ったことが悟られた可能性があります」

 アレクシスは唇を噛む。できる限り痕跡を消したつもりだったが、それでも追われている。相手はこちらの移動経路を把握し、狙いを定めている可能性が高い。

「……振り切ることはできるか?」

 しばし考え込むように目を伏せたサーディスだったが、やがて小さく首を振る。

「……難しいでしょう。追跡者の動き次第ではありますが、山中の地形を利用されれば、逆にこちらが追い詰められる可能性もあります」

「ならば――」

 アレクシスは言葉を切り、サーディスと視線を交わす。
 このまま逃げ続けることはできない。敵は執拗に追いかけてくる。ならば、選択肢は一つ。

「戦うしかないな」

 サーディスは静かに頷いた。
「ええ。ここで一度、"敵の目"を潰します」

 風が止まり、冷たい静寂があたりを支配する。 



 王子とサーディスは、息を潜め、茂みの奥に身を潜めた。辺りは深い闇に包まれ、木々が風にざわめく音だけが静かに響いている。
 遠くから、微かな足音が聞こえてきた。

 "軽い"。

 重厚な甲冑をまとった兵士の足音ではない。それどころか、彼らはほとんど音を立てずに移動している。

「……やはり、"追跡者"ですね」

 サーディスが低く囁く。王子も、彼女の意見に同意した。
 普通の兵士なら、ここまで足音を抑えることはできない。しかも、彼らは一度も迷うことなく、まっすぐこちらへ向かってきている。

("直感"で追っているわけではない。わずかな痕跡を頼りに私達を追っている)

「サーディス、妙な気配を感じないか?」

「……ええ。ただの兵士とは違います」

 二人は茂みの中で、静かに剣を構えた。

 やがて、影が見えた。一人、また一人。"追跡者"は三人。
 黒い装束に身を包み、無駄のない動きで山道を進む。彼らの手には、"短弓"と"刃の短い狩猟剣"が握られていた。
 王子の目が鋭く光る。

(間違いない。"山の狩人"か)

 彼らは兵士ではない。王都の軍とは異なる、山岳地帯で生きる"追跡者"。彼らの得意とする戦いは"待ち伏せ"と"奇襲"。
 そして"獲物を逃がさないこと"。
 王子はサーディスと視線を交わした。言葉は不要だった。

 ――瞬で仕留めなければ、こちらが不利になる。

 サーディスは剣を抜く。

「――始めましょう」
 次の瞬間、彼女は闇に溶け込むように動いた。



 森に再び静寂が戻った。
 王子アレクシスは剣を納め、深く息をつく。
 三人の追跡者はすでに息絶え、あたりには鉄の匂いが立ち込めていた。足元には動かぬ影。草葉に落ちた血が、光を鈍く反射していた。
 サーディスは、剣を収めながら視線を巡らせる。呼吸を整え、短く状況を確認した。

「……これで、しばらくは追ってこないでしょう」

「だが、いつまでもこうしているわけにはいかない」
 王子も、すぐに思考を整理する。

(これが最後の追跡者とは思えない)

 敵は明らかにこちらの動きを把握している。この山道を抜けるまで、いつ襲撃されてもおかしくなかった。
 サーディスは、倒れた追跡者たちの遺体に目を向けた。血溜まりの中に転がる彼らを、無言で見下ろす。次の瞬間、サーディスは躊躇いもなく、死体に手を伸ばした。
 王子は、その様子を見て、眉をひそめる。

「……何をするつもりだ?」

 サーディスは答えず、静かに遺体を調べ始める。腰のポーチを開き、食糧や水筒、薬草の束を取り出した。さらに、短弓と矢筒を選び、使えそうなものを確保する。鎧や衣服も確認し、必要のないものはその場に捨てた。
 動作に無駄がない。慣れた手つきだった。
 王子は無言のまま、その光景を見つめる。

(……まるで、当たり前のように)

 貴族として生きてきた自分には、どうしても受け入れがたい光景だった。

「……あまり、いい気はしないな」
 王子の声が低く響く。

 戦場では、倒れた兵から武具や糧食を奪うことは珍しくない。だが、それは"兵士"のすることだ。王族として育った彼にとって、それは"恥ずべき行為"に思えた。
 サーディスは、一瞬だけ王子を見やると、淡々と告げる。

「生きるためです。きれいごとは捨ててください」

 冷たい言葉だったが、そこには揺るがぬ"確信"があった。

「シス様が生き延びなければ、意味がないでしょう?」

 王子は短く息を吐く。
「……分かっている」

 彼女の言うことは正しい。今は生き延びることが最優先。理想も、誇りも、それを守るためには"生きていること"が前提だ。

「……行きましょう」

 サーディスが短く言い、背を向ける。王子は剣を握り直し、その背を追った。夜の森に、再び沈黙が広がった。
 こうして、二人の"逃亡"は続いていく。
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