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動乱編
罠
しおりを挟む王子アレクシスとサーディスは道なき道を進み続け、無理な行軍と追手との戦闘を繰り返した疲労は限界に達していた。だが、彼らにはまだ止まる余裕はない。
"騎士団の砦まで、あと少し"
追跡を振り切り、国境に近い砦にたどり着けば、彼らにとって大きな転機となる。そこには、王子に忠誠を誓う者たちがいるはずだった。
(ここまで来た……あと少しだ)
王子は疲労を抱えながらも、そう自分に言い聞かせる。先を急ぐ中で見えたのは川だった。
サーディスは足を止めた。
「……水場か」
目の前には、小川が静かに流れていた。透き通る水。揺れる水面が、朝の光を反射してきらめく。
サーディスは、ふと喉の渇きを意識する。
「少し飲んでおくか」
王子もまた、川を見つめて静かに呟いた。
疲労と渇きが限界に近づいているのは、二人とも理解していた。
サーディスは、膝をつき、手で水を掬った。冷たい感触が指先を伝い、ひどく渇いた喉を潤すように口元へと運ぶ。
一口、飲み込んだ瞬間――
全身に異変が走った。
「……!?」
サーディスの思考に、鋭い警鐘が鳴る。水が喉を通ると同時に、体の奥深くに"重さ"が広がるような感覚。まるで、鉛の塊が内臓へと沈み込むような鈍い衝撃。
「っ……!」
頭の奥に鈍い痛みが広がる。ゆっくりと、だが確実に、体の感覚が変質していくのがわかった。
手足の末端から、じわじわと力が抜けていく。指先の感覚が鈍り、次第に冷たくなっていく。腕を持ち上げようとしたが、思うように動かない。
(まさか……毒!?)
サーディスの中で、疑念が確信へと変わる。
ただの疲労や脱水ではない。これは"体の内側から蝕まれる"ような感覚。
(まずい……! 解毒を)
だが、思考がまとまりきる前に、視界が揺れた。全身に広がる違和感。体温が奪われるような悪寒と、体の芯から染み出すような脱力感。
サーディスは即座に、喉へと指を突っ込んだ。
「……ッ!」
吐き出す。全てを外へ押し出すように、無理やり胃を収縮させる。
だが――
すでに"遅かった"。
喉に絡みつく苦みを感じながら、水を吐き出したものの、すでに体内に回り始めた毒が完全に抜けることはない。
膝が崩れる。地面に手をつく。しかし、その手すらも支えきれず、力なく指が震えた。
(クソ……! 何だ、この毒は……!?)
呼吸が乱れる。肺が妙に重い。吸い込む空気が薄く感じる。
視界が霞む。焦点が合わず、周囲の景色がぼやける。
(神経を蝕み……力を奪う毒……?)
サーディスは必死に思考を巡らせる。戦場での経験上、毒にはある程度の知識がある。
だが、これは見たことのない種類だった。
それ以上に――
(……どうして、こんなところに"毒入りの水"が?)
普通、毒は飲食物や武器に仕込まれる。水源に仕込むなどというのは、あまりに"手荒な手段"だ。
(まさか……この水場そのものが"罠"だったのか?)
ここは、偶然見つけた水源。だが、それが本当に"偶然"だったのか。
いや、違う。
"待ち伏せられていた"可能性が高い。
(……まずい)
まだ敵の気配はない。だが、この毒の効果が完全に回る前に、戦闘になれば間違いなく不利になる。
サーディスは、自分の体の異変を分析しながら、次の行動を考えた。
(……今は"解毒"よりも"逃亡"を優先すべき)
毒の種類が分からない以上、適切な処置は取れない。無闇に動いても、余計に毒の巡りを早めるだけ。
(ここを離れなければ……!)
喉を締めつけるような違和感が広がる。サーディスは朦朧とする意識の中で、なんとか王子に視線を向けた。
「シ、スさ、ま……みずは……のみま、たか?」
ろれつがうまく回らず、言葉がつっかえる。舌が痺れ、思考すら鈍るような感覚。
王子は驚いた様子でサーディスを見ており、首を横に振った。
「……まだだ。どうした?」
「……こ、のみず、どく、す……」
途切れ途切れの声だったが、王子には十分伝わった。彼の表情が、一瞬で凍る。
サーディスの腕が微かに震え、意識が霞む中で彼を見つめた。
(やられた……!)
しかし、その"気づき"はすでに遅かった。川の向こう黒い影が、静かに動く。
「……ッ」
サーディスは霞む視界の中で、"それ"を見た。王子もまた、その姿を目にした瞬間、わずかに表情を引き締める。
「来たか……」
遠くから歩み寄る十数名の追手。だが、その中で一際異質な存在がいた。
黒衣をまとい、漆黒の短剣を腰に差し、無駄な動き一つない静かな歩調で近づいてくる。まるで、影が"実体を持って動いている"かのような男。
――ゼファル。
王子の目が鋭くなる。
(……"クレスト"が動いたか)
ヴォルネス公の追手だけではない。
"王直属の精鋭"クレスト――王子暗殺を確実に遂行するための存在。
つまり、王子の命を狙う動きが"確定事項"となった証拠だった。ゼファルは静かに佇み、視線をゆっくりと動かす。
「……"すでに、この近くにいるはずだ"」
冷たい声が響く。その言葉に、周囲の兵たちはさらに警戒を強めた。槍を握り直し、剣を抜き、茂みの隙間を睨む。
王子は、わずかに息を殺す。
(……どうする)
この状態で見つかれば、確実に"詰み"だ。
サーディスは必死に意識を保ちながら、王子を見上げる。
「サーディス、動けるか?」
王子が小声で尋ねた。サーディスは僅かに首を横に振る。
「……なら、まずは隠れるしかないな」
王子は迷わなかった。サーディスの腕を引き、静かに茂みに身を潜める。
("今、無理に戦えば確実に負ける")
敵は数が多い。ゼファルがいる以上、戦うには"最悪のタイミング"だ。今は"機を伺う"しかない。
王子は、ゼファルの動きを注意深く観察する。
ゼファルは、すでに"王子たちがこの近くにいる"と確信しているようだった。だが、まだ正確な位置は割り出せていない。
「……痕跡を探れ」
ゼファルの指示で、兵たちが動き始める。
(……まずい)
このままでは、いずれ発見される。サーディスは、回り始めた毒を無理やり押さえ込みながら、必死に考えた。
(何か、考えないと……)
毒の影響で、剣を握る手に力が入らない。だが、王子一人でこの場を突破するのは困難すぎる。
(今、戦うわけにはいかない)
ゼファルの殺意が、この場を支配していた。そして、刻々と時間が過ぎる。
森の静寂の中、"死の予感"が漂い始めていた。
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