忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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動乱編

決断

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 ゼファルは、川の流れを見つめながら思考を巡らせていた。

(……思っていたよりも、逃げ足が速い)

 王子とその護衛。彼らは間違いなく限られた時間の中で最適な逃亡経路を選び、追手を翻弄している。特に、護衛の騎士サーディス。

(明らかに、山の知識がある)

 山道を知り尽くした動き。通常の兵ならばためらうような地形でも、迷いなく進んでいる。
 これまでの情報では、彼女はただの護衛だったはず。しかし、その動きは"ただの護衛"というには不自然なほど洗練されている。
 ゼファルの目が鋭く細められる。

(……何者だ)

 彼は川岸をゆっくりと歩きながら、地面の微細な変化を観察した。すると、わずかに湿った葉が目に入る。水滴がついている。
 ゼファルは無言でしゃがみ込み、慎重に指先で葉を撫でた。

(……まだ乾いていない。ついさっきの痕跡だな)
 さらに地面に目を落とすと、小さな水の粒が点々と散らばっている。

 "誰かが水をすくい、喉を潤した"

 それ自体は不思議ではない。

("全員が"川に入ったわけではない)

 水の痕跡は一人分。つまり、片方は水を口にしていない。ゼファルは、そこでようやく"彼らの状況"に気づく。

(どちらかが、水を飲んでいない……いや、逆か?)
 にやりと笑う。

(どちらかは"毒を口にした"可能性が高い)

 水に仕込まれた毒。それが効いているならば、今この瞬間、王子たちは"万全の状態ではない"。

 であるならば――"素早い行動は不可能なはずだ"。

 ゼファルは、ゆっくりと立ち上がり、視線を森の奥へ向けた。

("追い詰める")

 彼は、周囲の追手に低く命令を出した。
「"王子たちは、このすぐ近くにいる"」

「……ッ!」
 兵士たちは瞬時に反応し、周囲の警戒を強める。

「"茂みを探れ。奴らは、毒が回るのを警戒して身を潜めているはずだ"」
「了解!」

 兵士たちは即座に動き出し、武器を構えながら慎重に茂みの中へと散開していく。
 ゼファルは、静かに短剣を抜いた。その刃は、夜の闇を吸い込むかのように鈍く光る。

「……さて、"狩り"を始めるか」

 その冷たい声が、夜の森に溶け込んでいった。王子とサーディスの発見は、もはや時間の問題だった。



 森の奥、湿った土の感触がかすかに伝わってくる。サーディスは、全身にまとわりつく"重さ"に苛まれていた。

(……クソッ)

 喉の奥が焼けつくような感覚。体の芯が鈍く痺れ、指先に力が入らない。意識が遠のきそうになるたび、歯を食いしばり、なんとか踏みとどまる。
 だが膝が崩れそうになるのを、王子の腕に支えられなければ、しゃがんでいるのすら困難だった。

「……サーディス?」

 王子の低い声が、近くで響く。
 すぐそこまで敵が迫っている。まともに戦えなければ、捕まるのは時間の問題。王子に戦わせるわけにはいかない。

(……魔剣を抜けば、解毒できるかもしれない)

 ふと、頭に浮かんだ可能性。
 魔剣を解放した時。深い傷が、まるで"時間を巻き戻すように"瞬時に塞がった。
 ならば、この毒も"魔剣の力で押し流せる"可能性がある。

(……だが)

 サーディスは、ふっと息を吐く。
 その代償も理解していた。魔剣を抜くということは、また"魔の侵食"を受けるということ。この体の"何か"が、さらに魔に蝕まれる。

 ――すでに、左腕と左目が"人間のものではなくなりつつある"。

 それでも抜けば、今ここで戦える。王子を守ることができる。

(……だけど、そのまま気を失うかもしれない)

 毒が回り、意識が朦朧とする中で魔剣を抜けば、耐えきれずに"意識を持っていかれる"かもしれない。意識を失えば、王子を守るどころか、戦いすらできない。
 王子一人に戦わせる? 
 ゼファルを相手に、そんなことは不可能だ。だが、このままではいずれ発見される。

(それだけじゃない……)

 サーディスの指が、わずかに震える。
 思い出すのは、先日――血に塗れた戦場。
 魔剣を抜いた瞬間、体が熱に焼かれるような快楽に包まれた。
 鮮血が飛び散り、剣が命を奪うたび、まるで"剣と一つになった"ような錯覚。

 あの時の感覚が、まだ脳裏にこびりついている。
 あのまま続いていたら――。
 いや、あれ以上に魔剣に呑まれたら――。

(……最悪、王子すら……斬るかもしれない)

 サーディスの喉がひりつく。
 そんなこと、ありえない。そんなこと、あってはならない。
 けれど、"可能性"は確かにある。
 魔剣を抜いた瞬間、理性を失い、目の前の全てを"敵"と認識する可能性。
 ゼファルを倒すどころか、王子までも……。

 そうなったら、何のためにここまで来たのか分からない。

 だが――。

 このままでは、確実に王子は死ぬ。
 ならば、どうする?


 思考が鈍る。本来なら、冷静に最善策を選ぶはずだった。だが、今の自分に、それを判断する余裕はない。
 魔剣を抜くか。抜かないか。どちらを選んでも、"賭け"だった。
 サーディスは、手をゆっくりと"背中の鞘"へ伸ばす。迷っている時間は、もう残されていなかった。

 しかし。森の静寂の中、王子は迷いなく前に出た。彼は静かに剣を抜かず、"あるもの"をサーディスに差し出した。
 聖剣。王権の象徴。この国の正統な支配者を示す唯一の証。
 サーディスは、混濁する意識の中で、それを認識した。

(……なぜ?)

 王子は聖剣をしっかりと握りしめ、そして、ゆっくりとサーディスの手元へと差し出した。

「……サーディス」

 低く、しかし確かな響きを持った声。
 サーディスは、揺らぐ視界の中で、その"真意"を読み取ろうとした。しかし、王子の表情は、迷いのないもので満ちていた。

「"聖剣を預ける"」
 その言葉が、頭の奥に響く。サーディスは、言葉を失った。

 王子は、一歩前に出て、剣を持つ手をさらに押し出す。

「君がこれを持って"国境の騎士団"の元へ行くんだ」

 彼の言葉は、まるで決定事項のように語られた。
 サーディスの喉が強張る。

(そんなことが、できるわけがない)

「……それ、は、どう、う、いみ、ですか」

 ようやく声を絞り出すが、かすれてうまく言葉にならない。
 王子は、微かに笑った。

「"この剣が敵の手に渡らなければ、それでいい"。だから――"君に預ける"」

 その一言が、サーディスの体の奥に鋭く突き刺さる。

(馬鹿な……)

 王子が、王たる証を手放すなどあり得ない。これは、ただの剣ではない。"王家の正統性"を証明するものだ。
 それを手放せば、彼は"王子"ではなくなる。それでも、彼は迷わず差し出してきた。

(なぜ……)

 サーディスの手が、無意識に震える。
 王子は、短く息をつき、続けた。

「私がここに留まれば、共倒れになる。ならば、聖剣だけでも"確実に守る"ほうがいい」

(……私に、これを持って逃げろと?)

 頭が、理解を拒絶する。
 それは"王"として決してしてはならない行為だ。

「"あとは頼んだ"」

 王子は、その一言を残すと、サーディスの手に剣を押し付けた。
 そして、振り返ることなく、前に歩み出た。

「……!」

 サーディスの意識が、"戦慄"によって強制的に覚醒した。王子が向かう先には、ゼファルがいる。その事実を理解するよりも先に、サーディスの体は震え、彼を引き止めようとした。

 しかし――動けない。毒が回る体は、悲鳴を上げ、視界が歪む。

(違う……こんなの、違う! シス様!)
 だが、王子はもう、迷いなく歩みを進めていた。"時間稼ぎ"をするために。サーディスは、それを止めることができなかった。
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