忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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動乱編

決死

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<前書き>

おかげさまでHOTランキング入り! ありがとうございます! 
22時頃にもう一話投稿します。

――――――――――――――――――――――――――――――


 冷え切った空気が漂い、森の静寂が張り詰めたまま続いていた。

 「さて、聖剣を回収するか」

 冷ややかな声が、闇の中に落ちる。

 ゼファルは足元に転がるサーディスを見下ろし、ゆっくりと歩み寄った。
 その体は、無残なまでに痛めつけられていた。

 服は裂け、肌には無数の傷が刻まれ、乾いた血が痕を作る。
 頬には薄い刃の跡が残り、腕には火傷のように赤黒い痕が広がっていた。
 指先は痙攣し、足元に流れた血が土に染み込んでいく。

 ――まるで、砕かれた人形のようだった。

 それでも、まだ息をしている。

 ゼファルは嘆息しながら、サーディスの手元へと視線を落とした。
 血に汚れた指先が掴むのは、聖剣。

 だが、その力はすでにないはず――。

 「おとなしく手放せ」

 ゼファルが無造作に聖剣へ手を伸ばす。

 だが。

 「……っ」

 かすかに、サーディスの指が動いた。

 完全に力が抜けたはずの腕が、微かに震えながら聖剣を握り直す。
 まるで、それだけは譲れないとでも言うように。
 ゼファルは眉をひそめる。

「しぶといな」

 毒に侵され、体は痛めつけられ、意識さえ朦朧としているはずだ。それでも、彼女の指は聖剣を離そうとはしなかった。

(まるで……死んでも渡さぬとでも言いたげだな)

 ゼファルの唇が、わずかに歪む。彼はサーディスの顔を覗き込んだ。
 血まみれの唇が、かすかに動く。声にならない声。
 だが、その口の動きだけははっきりと分かった。

「お、まえ、にだけは、わた、な、い……」

 ゼファルは一瞬だけ黙った。何の意味もない抵抗だ。彼女の体力は限界を超えている。毒により筋力も制御できず、動くことすらままならない。その状態で、何を守るというのか。
 ゼファルは、短く息を吐いた。

「……無駄なことを」

 再び短剣を持ち直し、静かに刃を押し当てる。ゼファルの短剣がサーディスの首筋に触れたその瞬間、彼女はわずかに笑った。

「……っ」

 ゼファルは、その微かな表情に違和感を覚えた。これまで拷問を受け、毒に侵され、傷つきながらも、彼女は決して"折れなかった"。そして、今もなお、その瞳の奥には"諦め"の色がない。

(何をする気だ……?)

 その疑問が生まれた瞬間には、すでに彼女は動いていた。
 サーディスは、残された最後の力を振り絞り、体を強引に起こした。ゼファルが短剣を押し当てていたにもかかわらず、彼女の動きには迷いがなかった。

 そして――そのまま、転がるように崖際へと向かっていく。
 ゼファルの目が鋭く細められた。

「……まさか」

 一瞬の静寂。だが、その間にもサーディスの動きは止まらなかった。後方には、落差のある切り立った崖。そして、その下には轟々と流れる滝壺が広がっている。
 数十メートル下で荒れ狂う水流。落ちれば、生還など望めない。

(馬鹿な……!)

 ゼファルが動くより早く、サーディスは崖際まで到達した。
 彼女の目が、わずかにゼファルを見据える。手には、なおもしっかりと聖剣を抱えていた。
 ゼファルの手がわずかに動く。

(間に合うか……!?)

 だが、理解した瞬間には、もう遅かった。サーディスは躊躇なく、崖下へと身を投じた。




 世界がふっと浮遊感に包まれる。風が耳を裂くように唸る。
 落下する。回転する視界。次の瞬間、全身を叩きつけるような激しい水圧が襲った。

「――っ!!」

 衝撃が骨の髄まで響く。
 水が、一瞬にして肺へと押し寄せた。どこが上か、下か。何も分からない。流れに引きずられるまま、深く沈んでいく。
 だが、サーディスの腕だけは、決して緩まなかった。

 聖剣だけは、手放さない――。



 ゼファルは、崖の縁に立ったまま、滝壺の激しい流れをじっと見下ろしていた。白い飛沫が舞い上がり、霧のように視界を曇らせる。
 だが、サーディスの姿はどこにもなかった。
 彼女が滝壺へ飛び込んだ時点で、生存の可能性は限りなく低い。

(……まさか、本当に飛び降りるとはな)

 ゼファルはわずかに眉をひそめた。
 この高さと水の勢いでは、まともに落ちれば即死もありうる。たとえ生き延びたとしても、下流の激流に巻き込まれ、どこかへ流される。
 いずれにせよ、ここで彼女の生死を確かめるのは難しい。
 背後で、部下たちが駆け寄ってくる。

「……どうしますか?」

 ゼファルは、しばし沈黙した後、低く答えた。

「生きているはずがない」

 単純な結論だった。どれほどの実力者であろうと、人間である以上、限界がある。

「だが、万が一の可能性は捨てきれない」

 そう続けたゼファルの声には、わずかに慎重さが滲んでいた。
 サーディスは"普通の女剣士"ではない。毒に侵されながらも拷問に耐え、意識を保ち、最期まで抵抗し続けた。何が起こるか、確信を持てない。

「滝の周辺を捜索しろ。死体を見つけるまでは確実とは言えん」

「ですが、ゼファル様……この滝の流れでは、すでに何十メートルも流されている可能性が」

「知っている」

 ゼファルは目を細めた。彼女の生死を確認するのが第一優先ではない。

(問題は、"聖剣"だ)

 サーディスがまだ生きている可能性は限りなく低い。だが、聖剣が回収されないままでは、上層部に報告できない。

「私はヴォルネス公の屋敷に戻る。お前たちは引き続き捜索を続けろ」

 ゼファルは、そう言い残して踵を返した。

 彼にとって、サーディスの生死など瑣末な問題に過ぎなかった。
 最も重要なのは――"王子がすでに手中にある" という事実。

 サーディスがどこかで生き延びようと、もはや無意味。
 王子は捕らえられた。
 彼女がどれほど足掻こうと、運命の歯車はすでに動き出している。

 "――詰んだのだ。"  

 ゼファルは静かに歩き出す。
 彼の背が霧の向こうへと消えていく。

 轟々と響く滝の音だけが、冷たい余韻を残していた。
 まるで、終わりを告げる鐘のように。
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