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狂嵐襲来編
騎士団①
しおりを挟む夜明け前の冷たい風が、静まり返った森を吹き抜けた。
空はまだ薄暗く、東の地平線がわずかに白み始めている。
森の木々が風に揺れ、葉のざわめきだけが辺りに響いていた。
その静寂の中を、王子アレクシス・エドワルド・ヴァルトハイトは、泥だらけのマントを翻しながら進んでいた。
彼の表情には疲労の色が濃い。
しかし、それでも立ち止まることは許されなかった。
その傍らには、同じく泥と血にまみれた衣類を纏い、鋭い視線を前方に向ける騎士――サーディスがいた。
二人は言葉を交わさず、ただ無言で険しい山道を進み続けていた。
どれほどの時間が経ったのか。
逃げるたびに戦いがあり、信じた者に裏切られ、幾度も傷を負った。
それでも、彼らは生きていた。
敵の追跡を何度も振り切り、ようやく辿り着いたのは――王国騎士団の砦、ガルド砦。
国境近くに位置するこの砦は、王国の防衛において重要な役割を担っている。
歴代の王も、騎士団の忠誠によって王権を維持してきた。
アレクシスは唇を噛みしめる。
(ようやく、味方のもとにたどり着いたか……)
だが、安堵の感情がわずかに胸をよぎった次の瞬間、別の考えが頭を過った。
――本当に、ここは"安全な場所"なのか?
信じていた者に裏切られてきた。
王国に仕える騎士や貴族が、すべて王家の味方とは限らない。
ヴォルネス公のように、新王カエルスへと寝返る者が出ている以上、この砦の騎士たちが"必ずしも"味方である保証はなかった。
それでも――
「王国騎士団は、本来、王家に忠誠を誓う組織だ」
アレクシスは自分にそう言い聞かせた。
今の彼らに、ほかの"選択肢"はない。
騎士団が裏切っていなければ、ここで休息を取ることができるはずだ。
追手が迫る中、少しでも体勢を立て直さなければ、長くは持たない。
王子は肩越しに、サーディスを見た。彼女の顔には、疲れが滲んでいた。
しかし、彼女の瞳には一片の迷いもなかった。
それが、アレクシスにとっての唯一の救いだった。
遠く、霧に包まれた山の向こうに、砦の輪郭が見えてきた。
高い石壁、見張り塔、鋭い槍を手にする衛兵たち。
王国の防衛を担う、堅牢な砦。
ここが、本当に味方であることを願うしかなかった。
アレクシスは深く息を吸い込み、馬を進めた。
「……行こう、サーディス」
彼の声には、決意とわずかな不安が入り混じっていた。
王子とその騎士は、運命の門へと向かって歩みを進める。
その先に待つのが、安息か、それともさらなる戦乱か――まだ誰にも分からなかった。
森を抜けた先に、石造りの砦が姿を現す。
「……シス様、門が見えました」
サーディスが低く告げる。
前方にそびえ立つのは、頑強なガルド砦。
王国の国境付近に位置し、歴代の騎士たちが国を守るために築き上げた要塞だった。
砦の入口には、巨大な鉄製の門が構えられている。
その上には見張りの騎士たちの姿が並び、槍を手に周囲を警戒していた。
まだ朝焼けすら遠い時間帯。
だが、砦の中はすでに灯りがともり、規則正しく動く騎士たちの姿が見える。
騎士たちは、まだ眠ることを許されないのだろう。
この砦が、王国防衛の最前線にあることを改めて実感させられた。
アレクシスはそっと息を吐く。
(今は、頼るしかない……)
追われ、信じていた貴族たちの多くが敵へと寝返った。
だが、王国騎士団は本来、王家に忠誠を誓う者たち。
この砦でなら、少なくとも一時の休息を得られるはずだ――そう信じたかった。
その時、門の上から鋭い声が響いた。
「何者だ!?」
アレクシスは、身をこわばらせながらも迷わず一歩前に出る。
「第一王子アレクシス・エドワルド・ヴァルトハイトだ!」
その一言に、門の上の騎士たちがざわめいた。
「王子殿下……!?」
「本当に……?」
互いに顔を見合わせ、確認し合うような仕草を見せる。
疑念が混じるのも無理はない。
王都ではすでに、王子は失脚したとされ、カエルスが王位に就いた。
その王子が、こうして自ら門の前に立っているという事実が、彼らにとっても容易には信じられなかったのだろう。
だが――やがて、一人の騎士が声を張り上げる。
「門を開けろ! 急げ!」
鋭い命令の声が飛ぶ。
「王子殿下だ! 速やかに門を開けろ!」
鉄製の巨大な門が、ゆっくりと開かれ始める。
ギィ……ギィ……
重々しい音が響き、砦の内部へと続く道が徐々に露わになっていく。
アレクシスとサーディスは、注意深く足を踏み入れた。
砦の中には、王国騎士たちが整然と並び、王子の到着を見守っていた。
彼らの表情には、驚き、戸惑い、そして期待が入り混じっていた。
アレクシスは、彼らの視線を一つひとつ受け止めながら、静かに前へ進む。
この砦が本当に味方であることを願いながら――
運命の歯車が、今ここで動き出そうとしていた。
アレクシスとサーディスが、ゆっくりと砦の内部へと足を踏み入れる。
門が背後で重々しく閉じる音が響き、砦の中は再び静寂に包まれた。
ガルド砦は、石造りの堅牢な建物が並び、要塞としての機能を極限まで高めた構造をしていた。
かつて幾度もの戦で国を守ってきたその姿は、戦場における最前線の拠点そのものだった。
砦の中央には、広々とした鍛錬場が広がり、すでに朝の訓練を始める騎士たちの姿が見られる。
若き兵士たちが木剣を交え、鋼の鎧を身に纏った老練の騎士が、その様子を見守っていた。
しかし――王子の姿を目にした途端、彼らの動きが止まる。
その場にいたすべての騎士たちが、驚愕と困惑の色を浮かべた目でアレクシスを見つめた。
門が完全に閉ざされると、騎士たちは一斉に王子のもとへと集まってきた。
彼らの目には、驚き、戸惑い、そして何か言いたげな感情が宿っている。
その中から、一人の男が前に出た。
騎士団長――カイル・アーデン。
彼は銀の鎧を纏い、壮年ながらも鍛え上げられた鋼のような体躯を持つ男だった。
貴族の出ではなく、騎士団の最下層から這い上がり、歴戦を生き抜いてきた戦士。
その実力と忠誠心をもって、王国騎士団の一角を任されるほどの男だった。
カイルは、驚いた表情でまっすぐ王子を見据えた後、深く頭を下げる。
「王子殿下……よくぞご無事でした」
その言葉に、アレクシスは少しだけ安堵の表情を見せた。
王都を追われ、信じていた貴族に裏切られ、ようやく辿り着いたこの砦。
騎士団が迎え入れてくれるのであれば、しばしの休息を得ることができるかもしれない――
「……助かる」
短く言葉を返すアレクシス。
しかし、サーディスはその場に集まった騎士たちの視線に違和感を覚えていた。
王子の帰還に安堵するはずの騎士たち。それなのに、彼らの反応はどこか"ぎこちない"。
サーディスは、視線を巡らせながら考える。
(……なぜ?)
確かに彼らの顔には驚きと安堵の色が見える。
しかし、それ以上に妙な緊張感が滲んでいる。
まるで、王子を迎え入れることに"戸惑い"を感じているかのような――
あるいは、何か別の事情を抱えているような――
この場に満ちる微妙な違和感が、サーディスの警戒心を研ぎ澄ませる。
(この砦は、本当に安全なのか……?)
そんなサーディスの思考を遮るように、カイルが静かに手を差し出した。
「まずは、こちらへ」
砦の奥へと王子を案内しようとする彼の言葉には、特に違和感はない。
しかし、サーディスの胸中には、依然として拭えない不安があった。
(彼の動きにも、不審な点はない……考えすぎか?)
アレクシスは、少し迷う素振りを見せたが、今は騎士団に頼るしかないと判断し、静かに頷いた。
「分かった。案内を頼む」
カイルが歩き出す。その背に続く王子。
サーディスは、王子のすぐ後ろにつき、無言のまま背を守るように歩いた。
砦の廊下を進む中、アレクシスはふと呟いた。
「ここで、しばらく休めるといいが……」
その言葉に、サーディスは表情を変えず、静かに返す。
「……休めると、いいですね」
その言葉の意味を、アレクシスは察することができなかった。
"休めるはずがないかもしれない"という、サーディスの警戒心。
何かがおかしい。けれど、それが何なのか、まだ分からない。
そんな不安を胸に、彼女は王子の歩みを見守りながら、砦の奥へと足を踏み入れていった。
<あとがき>
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