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狂嵐襲来編
サーディスとアレクシス④
しおりを挟む王子――シス様と、私は深い森の奥を進んでいた。
王国騎士団の砦を抜け出し、ようやく追跡の手を振り切った。
しかし、それでも安心できる状況ではない。
彼の肩は重く沈み、疲労と焦りを隠せない。
「……このままでは、いずれ捕まるな」
シス様が低く呟いた。
「どこへ行っても追われるだけではないか……」
その声には、今までにないほどの疲労が滲んでいた。
当然だ。
味方だと思っていた騎士団すら裏切った今、どこに希望を求めればいい?
どこに行けば、安息を得られる?
私も、それを答えられる立場にはなかった。
「少し、休みましょう」
そう言ったのは、気づけば私の方だった。
シス様は私を見つめる。
「……まだ距離を稼がねばならない」
「ご無理をされても、追手を振り切れるわけではありません」
淡々とした口調で言い切る。
私が感情を表に出せば、彼は余計なことを考えてしまう。
彼はしばらく迷っていたが、私の言葉に頷くと、森の小さな開けた場所へ馬を寄せた。
私は静かに馬を降りると、ゆっくりと左腕を動かしてみた。
動かすたびに、骨と筋肉が軋むような感覚がある。
――再生したばかりの左腕。
見た目こそ、元通りになっている。
だが、その内部には確実に"異形の気配"が広がっていた。
この腕は、もう"私自身のもの"ではないのかもしれない。
そう思うほどに、異質な脈動が、皮膚の下を這い回っていた。
「……そうだ、サーディス。腕は――」
シス様の静かな声が響いた。
彼の声には、心配の色が滲んでいる。
私は、一瞬だけ動きを止めた。
だが――
すぐにいつものように、冷静な声で答える。
「問題ありません」
そう言いながら、私はゆっくりと腕を回して見せた。
どこからどう見ても、正常に動いているようにしか見えない。
"問題などない"――そう思わせるために。
だが、それは嘘だ。
この腕はもう、元の私のものではない。
それでも――
今はただ、復讐のために動けるのなら、それでいい。
「嘘つくな」
王子の言葉が、鋭く私を貫く。
「さっきの衝撃で変な方向に――!?」
次の瞬間。
彼の手が、私の腕を掴んだ。
触れられた瞬間。
――ドクン……!
左腕が、異様な脈動を見せる。
まるで"何か"が目覚めようとするかのように。
王子の表情が一瞬強張る。
私は息を止める。
(……バレた?)
いや――
王子は、すぐに私の腕を離した。
異常を感じ取る間もなかったのか、それとも"服の上から"だったから気づかなかったのか。
王子は少し息を荒げながら、言葉を紡いだ。
「すまない。……本当に大丈夫みたいだな。さっきは気が動転していたようだ」
(……触られたのに、気づかなかった?)
私の腕は、確かに異形に侵食されている。
だが、王子は"すぐに腕を離した"。
もし彼が直接肌に触れていたら――"何か"を感じ取っていたのだろうか?
王子の表情は、まだ少し険しかったが、すぐに表情を和らげた。
「先程は緊急事態とは言え、失礼しました」
私がそう言うと、王子はすぐに首を振った。
「いや、君の咄嗟の判断のおかげで助かったんだ。むしろ礼を言う」
そう言って、王子は静かに地面に腰を下ろした。
冷たい夜気が、肌を刺すようだった。
夜の闇は深く、焚き火を起こすこともなく、ただ静寂の中で座り込む。
シス様は、剣を膝の上に置き、深く息を吐いた。
その呼吸は、どこか沈んでいる。
普段の彼なら、どれほど追い詰められても余裕を崩さないというのに。
「……私の味方は、いないかもしれないな」
ぼそりと呟かれたその言葉は、妙に遠く響いた。
私はじっと彼を見つめる。
目の前の王子は、ただの"王族"ではない。
"戦う者"として生きると決めた男――。
その彼が、今、焦燥に呑まれかけている。
膝の上で置かれた手が、わずかに震えているのが見えた。
この王都で、誰も信じられず、誰も味方にできず、
孤独を抱え込んでいる。
気づけば、私は――
そっと、その手を握っていた。
「……私は絶対にそばにいます」
口から、勝手に言葉がこぼれた。
まるで、私の意志ではないように。
それは、考えた末に出た言葉ではなかった。
ただ、王子の背中が寂しげに見えて――
その孤独を、放っておけなかった。
しかし、その瞬間。
王子の瞳が、驚いたように私を映した。
「……!」
私は、ハッとする。
(なにをやっている、私は)
彼が "敵" かもしれないのに。
王子は、アルノー家を襲った者たちの血を引く存在だ。
王妃の命令に関与していたかもしれない。
それなのに――
私は、こんなにも簡単に彼の孤独を憐れんでしまったのか。
「失礼しました」
思わず、すぐに手を放そうとした。
だが――
彼は、私の手を握り返した。
一瞬、思考が止まる。
(……どうして?)
手袋越しにに伝わるぬくもりが、何よりも雄弁に彼の感情を物語っていた。
"この手を離したくない" とでも言うかのように。
私は、内心で自分を叱咤した。
(なぜ、こんなことで心が揺れる……!? 王子は……敵かもしれないんだぞ!)
私のやるべきことは何だ?
アルノー家の生き残りとして、私は――
私は……。
けれど、握り返された手の温かさが、思考を混乱させる。
王子の表情を見て、どうしても、その手を強引に振り払うことができなかった。
この感情は、何なのだろう。
敵かもしれないはずの彼の、孤独を埋めたいと感じてしまうのは――。
私は、どこで間違えた?
沈黙の中、手を握られたまま、私はただ、王子の瞳を見つめることしかできなかった。
静かに、だが、確かに。
温かい手が、私の指に絡む。
「……しばらくこうしていてくれ」
「――!」
今度は、私が驚く番だった。
彼は、ただ私の手を握ったまま、何も言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ、彼の焦燥が和らいでいるのが分かった。
夜の静寂の中で、私はただ、彼の手の温もりを感じていた――。
夜の静寂が、まるで世界を包み込むように流れていた。
風の音すらなく、ただ、鼓動だけが微かに響く。
心の奥が、ひどく痛かった。
彼の手の温もりが、じんわりと伝わる。
それが、妙に胸の奥を締めつけた。
私は強く、心の中で言い聞かせる。
違う。これは、私の復讐のためだ。
私がここにいる理由は、彼のためではない。
私の復讐を成し遂げるため。
彼を王座に導くことが、私の目的なのだから。
彼が折れれば、すべてが崩れる。
彼が倒れれば、私の復讐は成り立たなくなる。
だから――私は彼を守り、導かなければならない。
それが、この手を握った"理由"だ。
これはただの計算。
理に適った判断。
王子を支えることで、私は自分の目的を果たせる。
彼の精神が崩れる前に、支えてやらなければならない。
そう、これは合理的な行動。
それ以上の意味など、ない――。
(……そう言い聞かせないと、私は)
彼の手の温もりが、胸の奥の"何か"を揺らしていた。
これは本当に、計算の上での行動なのか?
理に適っているという"理由"がなければ、私はこの手を握ることすらできないのか?
答えを出すことができないまま――私はただ、静かに彼の手を握り続けていた。
私は君に頼ってばかりだな。
自嘲するように呟くと、サーディスは少しだけ目を細めて、
柔らかく、しかし静かに答えた。
「私は、シス様の騎士ですから」
その言葉は、あまりにも自然だった。
彼女にとって、それは当たり前のことなのだと告げるように。
だが――
そうではない。
ただの"騎士"ならば、主君を励ましたりはしないだろう。
ただの"騎士"ならば、私の孤独を拭おうと、手を握ったりはしないはずだ。
サーディスは、何も答えなかった。
ただ、その手の温もりを、確かに伝えてくる。
「君がいることが当たり前になっていた」
"味方がいない"などと嘆いた自分が、愚かに思えた。
それがあまりにも自然すぎて、私は"当たり前のこと"だと錯覚していた。
だが、それは決して当たり前ではない。
こうして隣にいることも、戦い続けてくれることも。
私は、その事実に、今さらながら気付いた。
そして、静かに呟く。
「……すまなかったな」
サーディスは、一瞬だけまばたきをした。
「……いえ」
その声は、消えるように小さく。
彼女は手袋をしている。
だが、それでも。
その向こう側にある"温もり"が、確かに伝わってくるような気がした。
手を握るというのは、ただの接触のはずなのに。
それ以上のものを感じてしまうのは、なぜだろう。
「行こう」
しばらくして、私は静かに立ち上がる。
彼女もまた、ゆっくりと立ち上がった。
目を伏せながら、一度だけ深く息を吸い――
そして、静かに頷いた。
「……はい」
その一言に、迷いはなかった。
夜の森の中で私たち二人の影だけが静かに揺れた。
<あとがき>
ここまで見てくれてありがとうございます!
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