忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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狂嵐襲来編

狂嵐①

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 朝の森は、静寂に包まれていた。
 朝霧の残る静寂の森の中で、サーディスとアレクシスはじっと気配を探った。

 木々の間を抜ける風は、まるで何かを運ぶように異様な冷たさを帯びていた。鳥のさえずりはすでに途絶え、川のせせらぎも遠くかすかに聞こえるだけ。あまりにも静かすぎる。

 サーディスは、慎重に手綱を引き締めながら目を細めた。馬の吐息が白く霧の中に消えていく。

(……これは、ただの追跡ではない)

 戦場を生き抜いてきた彼女の感覚が、確実に"異常"を察知していた。

 王国騎士団が彼らを追うのは当然のこと。しかし、これは違う。まるで"違う何か"が近づいているかのような、嫌な圧迫感が空気に染み込んでいる。

「……感じるか?」

 静かに問うアレクシスの声も、かすかに緊張を帯びていた。

「ええ」

 サーディスは短く答え、無意識に剣の柄へと指をかける。

 騎士団の兵士なら、ここまでの威圧感はない。気配が風に乗り、まるで遠くからでも存在を誇示するかのように"圧"を生んでいる。

(この威圧感……まるで"嵐"の前触れ……)

 サーディスの指先に微かな汗が滲む。
 馬が、怯えたように鼻を鳴らした。
 "それ"は確かに近づいている。

 木々の奥――霧が揺らぐ先。
 森を揺らすような突風が吹き抜けた。
 枝葉がざわめき、落ち葉が渦を巻いて舞い上がる。
 まるで、何かの到来を告げる鐘のように、自然が"彼女"を迎え入れていた。

 "狂嵐"――ジークリンデ・アーベントロート。

 その名の通り、彼女の周囲には絶えず風が渦巻いていた。
 金色の髪が風に舞い、朝の光を受けて柔らかく輝く。
 貴族らしい気品を宿した容姿。だが、彼女の瞳には冷たく確固たる"意志"が宿っている。

 そして――その視線は、王子アレクシスに真っ直ぐ向けられていた。

「……やっと見つけましたわ、殿下」

 彼女の声は静かで、どこまでも冷ややかだった。

 アレクシスはわずかに眉をひそめる。
 サーディスは無言で剣の柄を握りしめ、鋭く彼女の動きを観察した。

 ジークリンデはそんな二人を見て、ふっと微笑む。
 その仕草はまるで、手負いの獲物を見下ろす捕食者のようだった。

「無駄よ。逃げる道はないわ」

 サーディスの目がわずかに細められる。

「……どういう意味だ?」

 問いを投げかけると、ジークリンデはわずかに指先を動かした。
 その瞬間、またしても強い風が吹き抜ける。
 空気が切り裂かれる音がし、森の奥にいた鳥たちが驚いたように飛び立った。

 まるで、風そのものが彼女の"意思"に応じて動いているかのようだった。

「私は"風"を読めるの」

 彼女の声には、揺るぎない自信があった。

「木々の揺れ、空気の流れ、鳥たちの動き……」

 ゆっくりと手を広げながら、ジークリンデは続ける。

「それらすべてが、あなたたちの動きを教えてくれる」

 サーディスはじっと彼女の仕草を観察する。
 その立ち姿には、まったく隙がない。

 "風"が常に彼女の周囲を巡り、護り、戦士としての体を仕上げている。
 彼女はただの貴族ではない。

 ――これは、歴戦の戦士だ。

「あなたたちがどこに行こうとしていたのか、どの道を選んだのか――全部ね」

 ジークリンデは森を見渡すように目を細めた。

「だから逃げるのは無駄。私はここで、あなたたちを仕留めるために来たのだから」

 風が吹き荒れる音が、まるで彼女の言葉を後押しするように響く。

 王子が低く呟く。

「……"狂嵐"か」

 サーディスは彼の言葉に小さく視線を向ける。

 アレクシスは知っていた。
 ジークリンデ・アーベントロート――新王に仕える"クレスト"の一人。
 風を操る能力を持ち、その力で戦場を制圧する"狂嵐"の異名を持つ女騎士。

 彼女がここにいるということは、新王が本格的に王子を追い詰めるつもりであるという確たる証拠だった。

 ジークリンデはゆっくりと腰の剣を抜く。

 "シュゥゥ……"

 刃が鞘から解き放たれると、風がそれに沿って纏わりつくように流れる。
 まるで、その剣が"風そのもの"であるかのように――。

「一応お聞きしましょう、殿下」

 ジークリンデは、剣を軽く構えながら言う。

「大人しく投降していただけませんか?」

 その言葉が終わるよりも早く――

 突風が吹き荒れた。

 そして、王子の答えは短かった。

「断る」
 ジークリンデは、王子アレクシスの前に静かに立ちはだかった。

 風が彼女の金髪を揺らし、周囲の木々をざわめかせる。
 まるで、彼女の存在がこの場の流れを支配しているかのようだった。

 ジークリンデは、ゆっくりと剣を構えながら、サーディスと王子を見据えていた。

「この位置にいるということは……騎士団砦にはもう行ったのね」

 彼女の声は、まるで状況を確認するだけのように落ち着いている。
 表情にも焦りはなく、ただ淡々と事実を受け止めているようだった。

「逃げられたのかしら? あそこで捕らえられてくれれば、楽だったのだけれど」

 その問いに、サーディスは冷ややかに睨み返す。

「答える義理はない」

 短く、無駄のない返答。
 ジークリンデは小さく微笑み、軽く肩をすくめる。

「貴方が"サーディス"ね……初めまして」

 まるで、初対面の相手に礼を尽くすように、優雅に一礼する。
 しかし、その余裕の笑みの裏には、明確な敵意と、確かな実力者の風格があった。

「ゼファルを屠ったその腕、カエルス陛下も高く認めてくださると思うわ」

 柔らかな言葉とは裏腹に、明確な意図が含まれていた。
 "王子ではなく、新王カエルスに仕えろ"――そう言外に告げている。

 だが、その言葉に、サーディスは何の迷いもなく吐き捨てた。

「お前たちが言うことは、いつも同じだな」

 彼女の目は冷え切っていた。

「私は"シス様"の騎士だ。それ以上でも、以下でもない」

 決裂――。

 ジークリンデの交渉は、わずか数言で拒絶された。

「ふぅん……」

 ジークリンデは、わずかに唇を吊り上げると、鋭く王子を見た。

「アナタと殿下だけで、本当に"玉座奪還"できると思っているの?」

 嘲笑でも挑発でもなく、純粋な疑問としての言葉だった。

 王子アレクシスは、その一言に眉をひそめた。
 痛いところを突かれたのは事実だった。

 ――味方は、ほぼ皆無。
 ――王都は新王の掌中にある。
 ――まともな戦力すら持たず、亡命貴族のような状態。

 現状を考えれば、王子側に勝機はなかった。

 しかし――

「やるさ」

 サーディスは、淡々とした口調で言い放った。

「シス様の前に立ち塞がる者は、私がすべて切り捨てる。騎士だろうと貴族だろうと――クレストだろうと」

 まるで、絶対の真理を告げるように、彼女は一歩踏み出した。
 剣を握る手には迷いがない。

 "シス様の敵は、全て切り捨てる"。

 そこに理屈も、戦略も、疑問もなかった。
 ただ"そうする"と決めているだけだった。

 その言葉に、ジークリンデの瞳がわずかに細められる。

(……面白い)

 サーディスがそう言い切るのはまだ分かる。
 だが――それを言わせる王子もまた、異質だ。

「カエルス陛下のとは大違いね」

 ジークリンデは、ふと呟いた。

 兵士たちは命令に従うだけの存在。
 王子アレクシスも、サーディスも、"それ"とは異なる。

(……この二人、興味深いわ)

 ジークリンデは、軽く剣を回しながら、微笑んだ。
 この先の展開を、心の底から楽しんでいるかのように――。

 王子は剣を構えながら、じっとジークリンデを見据えた。
 森の空気が冷え、朝霧の名残が薄く漂う中、風が葉を舞い上げる。

 サーディスもまた、身を低く構え、彼女の動きを逃さぬように慎重に目を凝らしていた。
 ジークリンデが"ただの追跡者"ではないことは、すでに十分理解している。

 しかし――

(この女は、ただの忠誠で戦っているのではない)

 アレクシスは、直感的にそう感じていた。

 彼女は、王子を討つためにここにいる。
 だが、その瞳に宿るものは、"命令に従うだけの者"には見られない、別の"何か"だった。

 王子は静かに口を開いた。

「君は、カエルスに忠誠を誓っているのか?」

 風が一瞬、静まる。

 ジークリンデは、その問いに即答しなかった。
 森のざわめきが消え、ただ彼女の金色の髪だけが、緩やかに風に揺れた。

 やがて、彼女はまっすぐ王子を見据え、言葉を紡ぐ。

「……私が戦うのは"民"のため」

 その一言に、王子の眉がわずかに動く。

 彼女は剣を握り直し、さらに続けた。

「あなたを逃がせば、国は混乱する」

 その声には、揺るぎない信念が宿っていた。

「私は、それを望まないの」

 王子は、彼女の言葉の真意を探るように目を細める。

「……つまり、カエルスのやり方に不満があるということか?」

 ジークリンデの唇がわずかに歪む。

「不満……ね」

 少しだけ沈黙が落ちた。

 そして彼女は、低く言葉を続ける。

「カエルス陛下が無理やり王座を奪ったこと、それが"正しい"とは思っていません」

「でも……あなたが王座を奪い返せば、それは"さらなる戦乱"を招くことになりましょう」

 その言葉に、王子の表情がかすかに強張る。

「貴族たちは割れ、国は混乱し、戦は長引く……そうなれば、苦しむのは"民"よ」

 彼女の声は冷静だったが、その奥底には微かな激情が宿っていた。

 王子はじっと彼女を見つめる。

「……君は、カエルスのために私を討とうとしているのか?」

 ジークリンデは、その問いにすぐには答えなかった。

 風が木々を揺らし、葉が舞う。

 やがて、彼女はわずかに視線を伏せ、そして低く呟いた。

「……私は、民のために戦う」

 その言葉には、一片の迷いもなかった。

 王子は目を細める。

「つまり、君の戦う相手が"カエルス"であろうと、"私"であろうと、関係ないと?」

 ジークリンデは静かに頷く。

「その通りです。"国を混乱させる者"を討つ。それが"貴方"であれ、私はためらわない」

 サーディスは、王子の横で彼女の言葉を聞きながら、その揺るぎない信念を肌で感じていた。

(彼女は"本気"だ)

 王子が何を言おうとも、彼女の意思は揺らがないだろう。

 アレクシスは小さく息を吐き、静かに剣を構え直した。

「……ならば、ここで決着をつけるしかないな」

 ジークリンデの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「ええ――"狂嵐"の名にかけて」

 その瞬間、風が荒れ狂った。


<あとがき>
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