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「はい注目! この包丁、力を入れずにスッと引くだけ。ほら、完熟のトマトが透けるほど薄く切れる。これ、ステンレスの配合をミリ単位で調整した特注品。今ならもう一本付けて、お値段据え置き――」
それが、俺――シンの日常だった。
駅前の特設コーナーで道行く人々の足を止め、その心を掴んで財布を開かせる。
嘘は言わない。だが、言い方ひとつで石ころを宝石に見せる。それが俺の積み上げてきた技術であり、誇りだった。
その日の夜、仕事帰りの雨の路地裏で足を滑らせ、強かに頭を打った――そこまでは覚えている。
だが、次に目を開けたとき、俺がいたのは見慣れたアスファルトの上ではなく、巨木がひしめく原生林の中だった。
「……は? なんだここ。山か……? いや、そんな馬鹿な」
頭が割れるように痛い。夢だと思って頬を強く抓ったが、鋭い痛みが意識を鮮明にするだけだ。
安物のスーツは泥まみれで、カバンの中には実演用のミントタブレットと、見本品のステンレス包丁、そして予備のネクタイしかない。
何より、見上げる空が異常だった。
雲の切れ間から見える月が、二つある。一つは白く、もう一つは不気味なほど淡い青色をしていた。
「……幻覚か? それとも、どこか別の国に拉致でもされたのか……?」
状況が全く理解できない。ただ、ここが自分の知る場所ではないことだけは、本能が警鐘を鳴らしていた。
一晩中、寒さと得体の知れない獣の遠吠えに怯えながら、太い枝にしがみついて夜を明かした。
夜が明け、喉の渇きが限界に達した頃、俺は森の奥に流れる小さな沢を見つけた。
「水……。とりあえず、水分さえ取れば思考もはっきりするはずだ……」
よろよろと水辺へ這い寄った俺の前に、そいつは音もなく現れた。
軽トラックほどもある、筋骨隆々の猪だ。
だが、その額からは太く鋭い一本の角が突き出しており、瞳は血走ったように赤い。
俺の知っている猪とは、明らかに種が違う。化け物だ。
「……嘘だろ。現実かよ、これ」
猪が地面を蹄で激しく蹴り、鼻から熱い蒸気を吹き出した。
獲物を仕留める直前の動きだ。
逃げ道はない。背後は切り立った崖だ。
極限の恐怖が俺を襲う。言葉の通じない獣に、自慢の話術は通用しない。
だが、俺は数多の客の顔色を伺い、反応を予測してきた「観察」のプロだ。
(……あの猪、角の重みで少し首が左に傾いている。それに、さっきから右後ろ脚を庇っているな。……罠か何かにかかった跡か?)
俺は震える手で、カバンの中の見本品――ステンレス包丁を握りしめた。
戦うためではない。こいつの「注意」を逸らすためだ。
俺は包丁を太陽の光が当たる角度に調整し、猪の顔面に向けた。
ステンレスの刃が鋭く光を反射し、猪の赤い瞳を焼く。
「フゴォッ!?」
突然の閃光に、猪が怯んだ。
その隙に俺は、カバンからミントタブレットの缶を取り出し、中身を思い切り地面にぶちまけた。
強烈なミントの刺激臭が辺りに立ち込める。
嗅覚の鋭い獣にとって、人工的な化学香料の塊は「未知の毒」に近い刺激だろう。
鼻を突く異臭と、視界を塞ぐ光の礫。
猪はパニックを起こし、脚の痛みを引きずりながら、獲物である俺を追うことを諦めて森の奥へと走り去っていった。
「……はぁっ、はぁっ……!! 死ぬ……マジで死ぬかと思った……」
俺はその場に崩れ落ちた。
全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れ、手足の震えが止まらない。
「月が二つ……一本角の猪……。ここは一体どこなんだ……」
何が起きているのか、どうすれば帰れるのか、今の俺には何も分からない。
だが、言葉の通じない獣ですら、観察と小細工で追い払うことができた。
「……生き残るためには、このわけのわからない世界を騙し抜くしかないか」
俺は震える手で小川の水を掬い、喉を潤した。
ここがどこであれ、やることは変わらない。
言葉が通じる相手さえ見つければ、そこからが俺の本番だ。
生きるための自分という「商品」を、この口で売り抜いてやる。
それが、俺――シンの日常だった。
駅前の特設コーナーで道行く人々の足を止め、その心を掴んで財布を開かせる。
嘘は言わない。だが、言い方ひとつで石ころを宝石に見せる。それが俺の積み上げてきた技術であり、誇りだった。
その日の夜、仕事帰りの雨の路地裏で足を滑らせ、強かに頭を打った――そこまでは覚えている。
だが、次に目を開けたとき、俺がいたのは見慣れたアスファルトの上ではなく、巨木がひしめく原生林の中だった。
「……は? なんだここ。山か……? いや、そんな馬鹿な」
頭が割れるように痛い。夢だと思って頬を強く抓ったが、鋭い痛みが意識を鮮明にするだけだ。
安物のスーツは泥まみれで、カバンの中には実演用のミントタブレットと、見本品のステンレス包丁、そして予備のネクタイしかない。
何より、見上げる空が異常だった。
雲の切れ間から見える月が、二つある。一つは白く、もう一つは不気味なほど淡い青色をしていた。
「……幻覚か? それとも、どこか別の国に拉致でもされたのか……?」
状況が全く理解できない。ただ、ここが自分の知る場所ではないことだけは、本能が警鐘を鳴らしていた。
一晩中、寒さと得体の知れない獣の遠吠えに怯えながら、太い枝にしがみついて夜を明かした。
夜が明け、喉の渇きが限界に達した頃、俺は森の奥に流れる小さな沢を見つけた。
「水……。とりあえず、水分さえ取れば思考もはっきりするはずだ……」
よろよろと水辺へ這い寄った俺の前に、そいつは音もなく現れた。
軽トラックほどもある、筋骨隆々の猪だ。
だが、その額からは太く鋭い一本の角が突き出しており、瞳は血走ったように赤い。
俺の知っている猪とは、明らかに種が違う。化け物だ。
「……嘘だろ。現実かよ、これ」
猪が地面を蹄で激しく蹴り、鼻から熱い蒸気を吹き出した。
獲物を仕留める直前の動きだ。
逃げ道はない。背後は切り立った崖だ。
極限の恐怖が俺を襲う。言葉の通じない獣に、自慢の話術は通用しない。
だが、俺は数多の客の顔色を伺い、反応を予測してきた「観察」のプロだ。
(……あの猪、角の重みで少し首が左に傾いている。それに、さっきから右後ろ脚を庇っているな。……罠か何かにかかった跡か?)
俺は震える手で、カバンの中の見本品――ステンレス包丁を握りしめた。
戦うためではない。こいつの「注意」を逸らすためだ。
俺は包丁を太陽の光が当たる角度に調整し、猪の顔面に向けた。
ステンレスの刃が鋭く光を反射し、猪の赤い瞳を焼く。
「フゴォッ!?」
突然の閃光に、猪が怯んだ。
その隙に俺は、カバンからミントタブレットの缶を取り出し、中身を思い切り地面にぶちまけた。
強烈なミントの刺激臭が辺りに立ち込める。
嗅覚の鋭い獣にとって、人工的な化学香料の塊は「未知の毒」に近い刺激だろう。
鼻を突く異臭と、視界を塞ぐ光の礫。
猪はパニックを起こし、脚の痛みを引きずりながら、獲物である俺を追うことを諦めて森の奥へと走り去っていった。
「……はぁっ、はぁっ……!! 死ぬ……マジで死ぬかと思った……」
俺はその場に崩れ落ちた。
全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れ、手足の震えが止まらない。
「月が二つ……一本角の猪……。ここは一体どこなんだ……」
何が起きているのか、どうすれば帰れるのか、今の俺には何も分からない。
だが、言葉の通じない獣ですら、観察と小細工で追い払うことができた。
「……生き残るためには、このわけのわからない世界を騙し抜くしかないか」
俺は震える手で小川の水を掬い、喉を潤した。
ここがどこであれ、やることは変わらない。
言葉が通じる相手さえ見つければ、そこからが俺の本番だ。
生きるための自分という「商品」を、この口で売り抜いてやる。
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