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10話
人間化の術式を試みる前夜。王宮の客室は、静まり返っていた。
恭介はソファの端で、研究の疲れからか、浅い眠りに落ちている。
俺はといえば、どうにも目が冴えてしまっていた。
銀色の苔の上から這い出し、月明かりが差し込む窓辺へと向かう。
(明日、か……)
窓ガラスに映る自分を見る。
丸っこい耳に、つぶらな瞳。どこからどう見ても、可愛らしい小動物だ。
だが、この内側には、確かに26歳の『陽太』としての記憶と魂が詰まっている。
俺はふと思い立ち、恭介が書き残した術式のメモを思い返した。
魔力を一点に集中させ、かつての己の姿を強くイメージする。
成功するかはわからない。ただ、ほんの少しだけでいいから、自分を確認したかった。
「……っ」
身体の芯が、熱くなる。
心臓の鼓動が早まり、白い毛並みの奥で魔力が渦巻いた。
パチパチと、小さな火花のような光が散る。
(戻れ……。ほんの少しでいい、俺の姿に……!)
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
白い前足があったはずの場所に、見覚えのある「五本の指」が現れる。
細いけれど、男らしい節くれだった指。
かつて、恭介と一緒に居酒屋でジョッキを傾けていた、あの俺の手だ。
だが、変化したのは手首から先だけだった。
腕はまだもふもふのままだし、身体も神獣のままだ。
あまりにアンバランスで滑稽な姿。けれど、自分の指が動く感覚に、俺は柄にもなく感動していた。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
それは「きゅう」という鳴き声ではなく、低くて少し掠れた、人間の男の声だった。
「……陽太? 起きてるのか?」
背後で衣擦れの音がした。
恭介が目を覚ましたらしい。
(やべっ、解け! 戻れ!)
慌てて術を解こうとしたが、一度流れ出した魔力はすぐには止まらない。
恭介がソファから立ち上がり、窓辺にいる俺へと歩み寄ってくる。
「……陽太、今の声は……。それに、その手は」
恭介の動きが止まった。
月光の下、白い毛玉から生えた「人間の手」を見て、彼は息を呑んだ。
俺は気まずさのあまり、その手を隠そうとしたが、それよりも早く恭介の手が伸びてきた。
恭介は震える指先で、俺の「手」をそっと包み込んだ。
もふもふの時とは違う、皮膚と皮膚が触れ合う確かな感触。
「……陽太、なのか?」
「……ああ。失敗したみたいだ。手だけ、人間になっちまった」
人間の声で答えると、恭介の瞳が大きく揺れた。
彼はそのまま俺の手を、まるで壊れ物を扱うように、自分の頬にそっと押し当てた。
「……熱いな。お前の手だ。間違いなく、俺の知ってる陽太の手だ」
「……近いよ、恭介」
人間の姿での対面。
手だけとはいえ、普段の「飼い主とペット」のような距離感ではいられない。
恭介の肌の熱さが、指先を通じてダイレクトに伝わってきて、俺は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねるのを感じた。
「……戻したくない、なんて言ったら。お前は怒るか?」
恭介が、掠れた声で呟く。
彼は俺の手を握ったまま、じっと俺の瞳――神獣の瞳を覗き込んできた。
そこにあるのは、友情と呼ぶにはあまりに深く、執着と呼ぶにはあまりに切ない、名付けようのない熱量だった。
「……馬鹿。早く戻してくれ。……恥ずかしくて死にそうだ」
俺がそう言うと、恭介はふっと、どこか寂しげに、けれど愛おしそうに笑った。
「そうだな。……明日、ちゃんと戻してやるよ。お前の望む姿に」
恭介が俺の手首に魔力を流すと、光と共に「手」は再び白くて丸い肉球へと戻った。
あとに残ったのは、窓辺に残る夜風の冷たさと、指先に残った恭介の体温の残滓だけだ。
俺たちの「親友」という境界線が、月明かりに溶けて消えそうになっていることに、俺は気づかない振りをすることしかできなかった。
恭介はソファの端で、研究の疲れからか、浅い眠りに落ちている。
俺はといえば、どうにも目が冴えてしまっていた。
銀色の苔の上から這い出し、月明かりが差し込む窓辺へと向かう。
(明日、か……)
窓ガラスに映る自分を見る。
丸っこい耳に、つぶらな瞳。どこからどう見ても、可愛らしい小動物だ。
だが、この内側には、確かに26歳の『陽太』としての記憶と魂が詰まっている。
俺はふと思い立ち、恭介が書き残した術式のメモを思い返した。
魔力を一点に集中させ、かつての己の姿を強くイメージする。
成功するかはわからない。ただ、ほんの少しだけでいいから、自分を確認したかった。
「……っ」
身体の芯が、熱くなる。
心臓の鼓動が早まり、白い毛並みの奥で魔力が渦巻いた。
パチパチと、小さな火花のような光が散る。
(戻れ……。ほんの少しでいい、俺の姿に……!)
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
白い前足があったはずの場所に、見覚えのある「五本の指」が現れる。
細いけれど、男らしい節くれだった指。
かつて、恭介と一緒に居酒屋でジョッキを傾けていた、あの俺の手だ。
だが、変化したのは手首から先だけだった。
腕はまだもふもふのままだし、身体も神獣のままだ。
あまりにアンバランスで滑稽な姿。けれど、自分の指が動く感覚に、俺は柄にもなく感動していた。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
それは「きゅう」という鳴き声ではなく、低くて少し掠れた、人間の男の声だった。
「……陽太? 起きてるのか?」
背後で衣擦れの音がした。
恭介が目を覚ましたらしい。
(やべっ、解け! 戻れ!)
慌てて術を解こうとしたが、一度流れ出した魔力はすぐには止まらない。
恭介がソファから立ち上がり、窓辺にいる俺へと歩み寄ってくる。
「……陽太、今の声は……。それに、その手は」
恭介の動きが止まった。
月光の下、白い毛玉から生えた「人間の手」を見て、彼は息を呑んだ。
俺は気まずさのあまり、その手を隠そうとしたが、それよりも早く恭介の手が伸びてきた。
恭介は震える指先で、俺の「手」をそっと包み込んだ。
もふもふの時とは違う、皮膚と皮膚が触れ合う確かな感触。
「……陽太、なのか?」
「……ああ。失敗したみたいだ。手だけ、人間になっちまった」
人間の声で答えると、恭介の瞳が大きく揺れた。
彼はそのまま俺の手を、まるで壊れ物を扱うように、自分の頬にそっと押し当てた。
「……熱いな。お前の手だ。間違いなく、俺の知ってる陽太の手だ」
「……近いよ、恭介」
人間の姿での対面。
手だけとはいえ、普段の「飼い主とペット」のような距離感ではいられない。
恭介の肌の熱さが、指先を通じてダイレクトに伝わってきて、俺は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねるのを感じた。
「……戻したくない、なんて言ったら。お前は怒るか?」
恭介が、掠れた声で呟く。
彼は俺の手を握ったまま、じっと俺の瞳――神獣の瞳を覗き込んできた。
そこにあるのは、友情と呼ぶにはあまりに深く、執着と呼ぶにはあまりに切ない、名付けようのない熱量だった。
「……馬鹿。早く戻してくれ。……恥ずかしくて死にそうだ」
俺がそう言うと、恭介はふっと、どこか寂しげに、けれど愛おしそうに笑った。
「そうだな。……明日、ちゃんと戻してやるよ。お前の望む姿に」
恭介が俺の手首に魔力を流すと、光と共に「手」は再び白くて丸い肉球へと戻った。
あとに残ったのは、窓辺に残る夜風の冷たさと、指先に残った恭介の体温の残滓だけだ。
俺たちの「親友」という境界線が、月明かりに溶けて消えそうになっていることに、俺は気づかない振りをすることしかできなかった。
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