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10話
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魔王領の視察から戻り、溜まりに溜まった書類を片付けていたある日の夜。
俺――カナデは、執務室で一人、数字の海に溺れていた。
「……よし。これで物流コストの再計算は完了だ。あとは寝るだけ……」
椅子に深くもたれかかり、眼鏡を外して目元を揉む。
そんな俺の元へ、バターン! と勢いよく扉が開く音が響いた。
「カナデ! お疲れ様! 毎日頑張ってるお前に、俺様から最高のサプライズがあるぜ!」
入ってきたのは、なぜか腰にバスタオルを巻いただけのレンだった。
……いや、待て。なぜその格好でここに来る。
「……レン。お前、ついに魔王としての尊厳だけでなく、服を着るという文明人の基礎すら忘れたのか?」
「違うって! ほら、これを見ろ!」
レンが指差した先――執務室の隣にある「魔王専用応接間」が、いつの間にか湯気に包まれていた。
恐る恐る中を覗くと、そこには巨大な石造りの浴槽が鎮座し、中には怪しく光るエメラルドグリーンの液体がなみなみと注がれている。
「……。……これは、なんだ」
「『魔界薬草入り・超回復温泉』だ! お前、最近肩が凝るって言ってただろ? だから俺、さっき裏山を更地にして源泉を掘り当ててきたんだぜ!」
レンは鼻を高くし、得意げに大胸筋を震わせた。
源泉を「掘り当てる」のに、山を一つ更地にしたのか。環境破壊にも程がある。
「……レン。温泉を作るのはいいが、なぜ応接間に作った。床の絨毯が湿気で台無しだろ。マイナス五万ゴールド」
「えぇーっ!? せっかくお前のために頑張ったのに! いいから入れよ、これ、肌がツルツルになるし、魔力も回復するんだぞ!」
レンは俺の拒絶を無視し、ヒョイと俺を米俵のように担ぎ上げた。
「おい、離せ! 自分で歩けるし、そもそも俺はまだ着替えて……」
「面倒くせぇ! 友情に遠慮は不要だろ!」
レンはそのまま、俺をドボンとエメラルドグリーンの湯の中に放り込んだ。
眼鏡をかけていなかったのが不幸中の幸いだが、俺は服を着たまま、温かい湯の中に沈んだ。
「……ぶはっ! お前、本当に加減というものを……」
怒鳴りつけようと顔を上げると、そこには同じ湯船に浸かり、気持ち良さそうに目を細めているレンの顔があった。
湯気で少し潤んだ赤い髪、そして、いつも以上に無防備な黄金の瞳。
「……。……お前まで入ってるのかよ」
「当たり前だろ。親睦を深めるなら裸の付き合いって、前世の部長も言ってただろ?」
「あの部長はそれをセクハラで訴えられたんだよ」
俺は濡れた服の重みに溜息をつき、湯船の端に身を寄せた。
確かに、湯は驚くほど心地よい。レンが掘り当てただけあって、魔力密度が非常に高く、凝り固まった肩がじわじわと解けていくのがわかる。
沈黙が流れる。
聞こえるのは、コポコポというお湯の音と、レンの穏やかな呼吸音だけ。
「……なぁ、カナデ。お前、こっちに来てからずっと怒ってばっかりだけどさ」
レンが、湯船の中で少しだけ距離を詰めてきた。
水面が揺れ、レンの体温が波となって俺の肌に触れる。
「……俺は、お前が笑ってる時の方が好きだぜ。前世で、決算終わった後に二人でコンビニのアイス食ってた時みたいなさ」
「…………。……仕事中だぞ。笑っていられるか」
「今は仕事じゃねーだろ。……ほら、これ。お近づきの印だ」
レンが差し出してきたのは、湯船にプカプカと浮かんでいた、よく冷えた「魔界牛乳」だった。
どこで用意したのか、瓶には『カナデ用・お疲れ様』とマジックで汚い文字が書かれている。
俺はそれを受け取り、一気に飲み干した。
喉を通る冷たさが、湯で火照った体にしみる。
「……。……ふぅ。……悪くない」
「だろ!? よーし、明日はもっとデカい風呂作るか!」
「作るな。応接間が崩壊するだろ」
俺は少しだけ口角を緩め、空になった瓶をレンに返した。
レンはそれを見て、「あ、今笑ったな!」と子供のように喜び、俺の頭を乱暴に撫で回す。
「離せ、髪が濡れるだろ!」
「いいじゃん、どうせびしょ濡れなんだから! ほら、もっとこっち来いよ!」
「断る。……あと、お前のその『親睦』のせいで、絨毯の張替え費用が今月の予算を圧迫した。レン、来週からお前の間食は抜きだ」
「えええええ!? サプライズしたのに!? 恩を仇で返されたー!!」
レンの絶叫が湯気に溶けていく。
俺はそんな相棒の騒ぎをBGMに、もう少しだけ、温かい湯に浸かっていることにした。
親友としての距離。
裸の付き合い。
その境界線が、お湯の熱さで少しずつ溶け出していることに、俺はまだ気づかないふりをしていた。
「……バカ魔王。……ありがとうな」
聞こえないくらいの小さな声で呟いた感謝は、レンの「アイス奢ってくれたら許す!」という能天気な交渉にかき消された。
俺――カナデは、執務室で一人、数字の海に溺れていた。
「……よし。これで物流コストの再計算は完了だ。あとは寝るだけ……」
椅子に深くもたれかかり、眼鏡を外して目元を揉む。
そんな俺の元へ、バターン! と勢いよく扉が開く音が響いた。
「カナデ! お疲れ様! 毎日頑張ってるお前に、俺様から最高のサプライズがあるぜ!」
入ってきたのは、なぜか腰にバスタオルを巻いただけのレンだった。
……いや、待て。なぜその格好でここに来る。
「……レン。お前、ついに魔王としての尊厳だけでなく、服を着るという文明人の基礎すら忘れたのか?」
「違うって! ほら、これを見ろ!」
レンが指差した先――執務室の隣にある「魔王専用応接間」が、いつの間にか湯気に包まれていた。
恐る恐る中を覗くと、そこには巨大な石造りの浴槽が鎮座し、中には怪しく光るエメラルドグリーンの液体がなみなみと注がれている。
「……。……これは、なんだ」
「『魔界薬草入り・超回復温泉』だ! お前、最近肩が凝るって言ってただろ? だから俺、さっき裏山を更地にして源泉を掘り当ててきたんだぜ!」
レンは鼻を高くし、得意げに大胸筋を震わせた。
源泉を「掘り当てる」のに、山を一つ更地にしたのか。環境破壊にも程がある。
「……レン。温泉を作るのはいいが、なぜ応接間に作った。床の絨毯が湿気で台無しだろ。マイナス五万ゴールド」
「えぇーっ!? せっかくお前のために頑張ったのに! いいから入れよ、これ、肌がツルツルになるし、魔力も回復するんだぞ!」
レンは俺の拒絶を無視し、ヒョイと俺を米俵のように担ぎ上げた。
「おい、離せ! 自分で歩けるし、そもそも俺はまだ着替えて……」
「面倒くせぇ! 友情に遠慮は不要だろ!」
レンはそのまま、俺をドボンとエメラルドグリーンの湯の中に放り込んだ。
眼鏡をかけていなかったのが不幸中の幸いだが、俺は服を着たまま、温かい湯の中に沈んだ。
「……ぶはっ! お前、本当に加減というものを……」
怒鳴りつけようと顔を上げると、そこには同じ湯船に浸かり、気持ち良さそうに目を細めているレンの顔があった。
湯気で少し潤んだ赤い髪、そして、いつも以上に無防備な黄金の瞳。
「……。……お前まで入ってるのかよ」
「当たり前だろ。親睦を深めるなら裸の付き合いって、前世の部長も言ってただろ?」
「あの部長はそれをセクハラで訴えられたんだよ」
俺は濡れた服の重みに溜息をつき、湯船の端に身を寄せた。
確かに、湯は驚くほど心地よい。レンが掘り当てただけあって、魔力密度が非常に高く、凝り固まった肩がじわじわと解けていくのがわかる。
沈黙が流れる。
聞こえるのは、コポコポというお湯の音と、レンの穏やかな呼吸音だけ。
「……なぁ、カナデ。お前、こっちに来てからずっと怒ってばっかりだけどさ」
レンが、湯船の中で少しだけ距離を詰めてきた。
水面が揺れ、レンの体温が波となって俺の肌に触れる。
「……俺は、お前が笑ってる時の方が好きだぜ。前世で、決算終わった後に二人でコンビニのアイス食ってた時みたいなさ」
「…………。……仕事中だぞ。笑っていられるか」
「今は仕事じゃねーだろ。……ほら、これ。お近づきの印だ」
レンが差し出してきたのは、湯船にプカプカと浮かんでいた、よく冷えた「魔界牛乳」だった。
どこで用意したのか、瓶には『カナデ用・お疲れ様』とマジックで汚い文字が書かれている。
俺はそれを受け取り、一気に飲み干した。
喉を通る冷たさが、湯で火照った体にしみる。
「……。……ふぅ。……悪くない」
「だろ!? よーし、明日はもっとデカい風呂作るか!」
「作るな。応接間が崩壊するだろ」
俺は少しだけ口角を緩め、空になった瓶をレンに返した。
レンはそれを見て、「あ、今笑ったな!」と子供のように喜び、俺の頭を乱暴に撫で回す。
「離せ、髪が濡れるだろ!」
「いいじゃん、どうせびしょ濡れなんだから! ほら、もっとこっち来いよ!」
「断る。……あと、お前のその『親睦』のせいで、絨毯の張替え費用が今月の予算を圧迫した。レン、来週からお前の間食は抜きだ」
「えええええ!? サプライズしたのに!? 恩を仇で返されたー!!」
レンの絶叫が湯気に溶けていく。
俺はそんな相棒の騒ぎをBGMに、もう少しだけ、温かい湯に浸かっていることにした。
親友としての距離。
裸の付き合い。
その境界線が、お湯の熱さで少しずつ溶け出していることに、俺はまだ気づかないふりをしていた。
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