身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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11話

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 パチパチ、と微かな音が空間を支配していた。
 最新式の炭酸泉が弾ける音だ。それはまるで、これから処刑台に上がる旭の鼓動をカウントダウンしているかのようだった。
 
 旭は、脱衣所に備え付けられていた特大のバスタオルを、まるで鎧のように全身に巻き付けた。
 胸元はニッパーで限界まで平らにならし、その上からさらにタオルを二重に巻く。
 
(……これだ。これしかない。万が一、一条さんが『洗ってやる』なんて言い出しても、このタオルの防壁は簡単には崩させない。俺の正体は、この綿百パーセントの城壁が守り抜く……!)
 
 意を決して、曇りガラスの扉を引く。
 途端、ベルガモットの鋭い香りと、湿った熱気が肌を叩いた。
 
「……遅い」
 
 乳白色の湯に首まで浸かった蓮が、静かに目を開ける。
 水面に浮かぶ小さな泡が、彼の逞しい肩を優しくなぞっていた。
 
「……すみません、一条様。その、身なりを整えるのに時間が……」
 
「タオルは脱げ。……炭酸の浸透効率が落ちる」
 
「いいえ! これでいいんです! 私、実は……極度の寒がりで! 水分が蒸発する際の気化熱に、細胞が耐えられない性質でして!」
 
 旭は、嘘という名の弾丸をマシンガンのように連射しながら、湯船の端へと滑り込んだ。
 
 じゅわり。
 
 肌に触れた湯は、驚くほど柔らかい。
 炭酸の刺激が、チクチクと心地よく指先を刺す。
 
 けれど、旭の意識は、わずか一メートル先に位置する「推しの肉体」に釘付けだった。
 
 濡れて額に張り付いた髪。
 水滴が伝う、彫刻のような鼻梁。
 
(……近い。お湯を共有している。この水の分子は、一条様の肌を撫でた後に、今、俺の脚に触れている。……実質、俺たちは今、分子レベルで一つになっている。……死ぬ。尊さが、炭酸と一緒に毛穴から注入されてくる)
 
「……あゆみさん。もっと近くへ」
 
 蓮が、水面を揺らして近づいてきた。
 
「ひぃっ……!」
 
「逃げるな。……交代浴の真髄は、血流のコントロールにある。……私が、君の肩の凝りをほぐそう。……かなり硬くなっているのが、見て取れる」
 
 蓮の大きな手が、水中を泳いで旭の肩に伸びる。
 
 旭は、反射的に身体を丸めた。
 
「大丈夫です! 自分で揉めます! 握力には自信があるんです!」
 
「……君の小さな手で何ができる。……いいから、任せろ」
 
 逃げ場を塞ぐように、蓮の腕が旭の背後に回された。
 
 触れる。
 
 タオルの厚み越しでも分かる、蓮の指先の、確かな力強さ。
 
「……っ!」
 
 旭の身体が、電流を流されたように跳ねた。
 
「……やはり、酷いな。……鉄板でも入っているのか、これは」
 
 蓮の指が、首筋から肩甲骨にかけてを、丹念に、かつ力強く圧迫していく。
 
 あ、と、声が漏れそうになる。
 痛みと快感が混ざり合った、未知の感覚。
 蓮の指が動くたび、凝り固まっていた筋肉が、じわりと熱を持って溶け出していくのが分かった。
 
(……推しが。REN様が。俺の肩を、揉んでいる。……世界一高いマッサージだ。国家予算レベルのサービスだ。……でも、これ、タオルがズレたら……終わりだ)
 
 旭は、必死に前を向いたまま、意識を「無」の状態に追い込んだ。
 
「……顔が、さらに赤くなったな。……のぼせたか」
 
 蓮の手が、旭の額に触れる。
 
「……一条様、あの……」
 
「……黙っていろ。……脈が、異常に速い。……心臓の音が、ここまで聞こえてくるぞ」
 
 蓮が、さらに距離を詰める。
 彼の胸板が、旭の背中に触れそうなほど近い。
 
 耳元で、蓮の重厚な呼吸が聞こえる。
 
「……あゆみさん。……君は、なぜそうやって、いつも私を拒む。……私の手が、嫌か?」
 
 その声には、冷徹な副社長の面影はなかった。
 どこか、捨てられた子犬のような……。
 自分の「献身」が届かないことを嘆く、不器用な男の熱だけが籠もっていた。
 
(……嫌なわけ、ない。大好きなんです。人生を懸けて、あなたという存在を愛でているんです。……でも、言えない。本当のことを言えば、俺はここから消えなきゃいけなくなる)
 
「……嫌では、ありません。……ただ、あまりにも。……あまりにも、勿体なくて。……私のような者に、一条様が時間を割いてくださることが……」
 
「……勿体ない、か。……君は、本当に欲がないな」
 
 蓮が、ふっと小さく笑った。
 
 それは、旭が今まで見たどの写真よりも、どの映像よりも、鮮やかで、温度を持った微笑みだった。
 
「……上がろう。……これ以上は、君の心臓が保たないようだ」
 
 蓮が、先に立ち上がる。
 
 水面から現れたその肢体。
 逆光を浴びて、輝く水滴が全身を彩る様は、まさに神話の世界の住人だった。
 
 旭は、視線をさ迷わせ、慌てて目を閉じた。
 
 バスルームの扉が閉まる音がするまで、旭は湯船の中で、真っ赤になった顔を両手で覆い続けた。
 
 身代わりの結婚生活、十日目の朝。
 
 旭は、正体バレの危機を「推しからのマッサージ」という特大のご褒美(拷問)で乗り切った。
 
 けれど、肩に残った蓮の指の感触と、あの切なげな微笑みの残像が、旭の胸の奥を、熱いお湯よりも深く、じわじわと侵食し始めていた。
 
 外では、都会の喧騒が本格的に動き出している。
 
 旭は、ずぶ濡れのタオルを抱え、フラフラとした足取りで、ようやく「戦場」から帰還した。
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