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14話
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土曜日の午前十時。
リビングを照らす陽光は、埃一つないフローリングに反射して、旭の視界を白く焼き、眩ませた。
旭は鏡の前で、先日蓮が選んでくれたアイボリーのシルクワンピースの裾を何度も整えた。肌の上を滑る生地は驚くほど軽く、けれどその質感の良さが、これから始まる「デート」という名の任務の重さを際立たせている。
(よし、顔色はコンシーラーで叩いた。ウィッグの毛流れも完璧。喉の鳴る音も、深呼吸で抑え込んだ。俺は今、淑やかな『あゆみ』だ。推しの隣を歩くための、高性能な舞台装置だ)
自分に言い聞かせ、一歩踏み出すたびにパンプスが絨毯を小さく沈ませる。
廊下の角を曲がると、そこには既に蓮が立っていた。
今日の蓮は、ビジネススーツではない。
柔らかいカシミアのグレージュのロングコートに、黒のタートルネック。
首筋のラインが強調され、洗練された「大人の休日」を体現している。
旭は息を呑んだ。
雑誌『REN』の私服特集で見た、あの伝説のスタイリング。
それが今、目の前で三次元の立体として存在している。
(解像度が高すぎる。毛羽立ち一つないニットの網目。少しだけ乱れた前髪。……ダメだ。見惚れたら、淑やかさが死ぬ。石になれ。俺は銀座の大理石だ)
「待たせたな」
蓮が顔を上げた。
その瞬間、彼の身体から深いサンダルウッドの香りが、微かな体温と共に旭の鼻腔をくすぐった。
「いえ、一条……。あ、……蓮さん」
名前を呼んだ瞬間、旭の指先が凍りついたように冷たくなった。
蓮という二文字が、自分の唇からこぼれ落ちた事実。
それは、ファンとスターという絶対的な境界線を、力技で踏み越えてしまったような背徳感があった。
蓮は一瞬、瞬きを忘れたように旭を凝視した。
彼の喉仏が大きく一度動き、灰色の瞳に熱い光が宿る。
「……行くぞ」
蓮が左腕を、旭の前へと差し出した。
「第二条の履行だ。……組め」
旭の視界が、蓮のコートの袖口でいっぱいになる。
震える手を伸ばし、おそるおそる、彼の腕に自分の腕を絡めた。
カシミアの柔らかな感触。
そのすぐ下にある、逞しく引き締まった上腕二頭筋の硬さ。
旭の心臓が、肋骨の隙間から逃げ出そうとするほど激しく拍動を始めた。
一歩、足を踏み出す。
蓮の歩幅に合わせて、自分の身体が彼の方へと引き寄せられる。
肩が、触れる。
蓮のコートの生地と、旭のワンピースのシルクが擦れる、サッという乾いた音が耳元で響いた。
「……あゆみ」
不意に耳元で囁かれ、旭の背筋を電流のような刺激が駆け抜けた。
「……はい、蓮さん」
「手が、震えているぞ。……私の腕は、そんなに硬くて不快か」
「いえ! 滅相もございません! あまりに、……あまりに心地よくて、身体の制御が効かないだけでございます!」
蓮は、旭の支離滅裂な答えに僅かに口角を上げると、旭の手を自分の脇へ引き込み、さらに密着させた。
蓮の体温が、旭の腕を通じて全身に伝染していく。
マンションのエントランスを出ると、都会の冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
けれど、蓮と繋がっている場所だけは、真夏のように熱い。
連れて行かれたのは、都心から少し離れた場所にある、広大な国立植物園だった。
大温室の扉を開けた瞬間、湿った熱気と、何百種類もの植物が混じり合った濃密な生命の香りが、旭を圧倒した。
「ここ、は……」
「かつて、私が仕事で疲弊した時によく通った場所だ。……君に、見せたかった」
蓮の視線は、熱帯のシダ植物の緑に注がれている。
けれど、彼の左手は、旭が組んでいる腕を離さないよう、自らの掌を旭の手の甲に重ねていた。
大きな、節のしっかりした蓮の手。
その親指が、旭の指先をそっとなぞる。
(推しの、思い出の場所。そこで、推しの手に、包まれている。……これは、俺の人生の最終回か? これ以上の多幸感、この世に存在するのか?)
温室の中を、静かな足音だけが響く。
時折、天井のミスト装置から吹き出す、シューという微かな音が静寂を彩った。
色鮮やかな蘭の花。
その花びらに触れるよりも先に、蓮は旭の横顔を見つめた。
「あゆみ。……君といると、この場所の空気が、いつもより澄んで感じるのはなぜだろうな」
蓮の声には、仕事用の冷徹な響きは一切なかった。
ただ、自分の隣にいる存在を慈しむ、ひどく剥き出しの心が宿っていた。
旭は、握られた自分の手が、どんどん熱くなっていくのを感じた。
推しの「特別」になりたいなんて、ファンとしては望んではいけない贅沢だと思っていた。
けれど、今、この温室の熱気の中で。
旭の心臓は、契約という盾をかなぐり捨てて、蓮の名前を何度も何度も、無音で叫び続けていた。
身代わりの結婚生活、十四日目の午後。
限界オタク・瀬戸旭は、推しの「思い出」の中に招き入れられ、もはや「身代わり」という言葉の定義さえも見失い、ただ目の前の男がもたらす熱量に、じりじりと焼かれ続けていた。
リビングを照らす陽光は、埃一つないフローリングに反射して、旭の視界を白く焼き、眩ませた。
旭は鏡の前で、先日蓮が選んでくれたアイボリーのシルクワンピースの裾を何度も整えた。肌の上を滑る生地は驚くほど軽く、けれどその質感の良さが、これから始まる「デート」という名の任務の重さを際立たせている。
(よし、顔色はコンシーラーで叩いた。ウィッグの毛流れも完璧。喉の鳴る音も、深呼吸で抑え込んだ。俺は今、淑やかな『あゆみ』だ。推しの隣を歩くための、高性能な舞台装置だ)
自分に言い聞かせ、一歩踏み出すたびにパンプスが絨毯を小さく沈ませる。
廊下の角を曲がると、そこには既に蓮が立っていた。
今日の蓮は、ビジネススーツではない。
柔らかいカシミアのグレージュのロングコートに、黒のタートルネック。
首筋のラインが強調され、洗練された「大人の休日」を体現している。
旭は息を呑んだ。
雑誌『REN』の私服特集で見た、あの伝説のスタイリング。
それが今、目の前で三次元の立体として存在している。
(解像度が高すぎる。毛羽立ち一つないニットの網目。少しだけ乱れた前髪。……ダメだ。見惚れたら、淑やかさが死ぬ。石になれ。俺は銀座の大理石だ)
「待たせたな」
蓮が顔を上げた。
その瞬間、彼の身体から深いサンダルウッドの香りが、微かな体温と共に旭の鼻腔をくすぐった。
「いえ、一条……。あ、……蓮さん」
名前を呼んだ瞬間、旭の指先が凍りついたように冷たくなった。
蓮という二文字が、自分の唇からこぼれ落ちた事実。
それは、ファンとスターという絶対的な境界線を、力技で踏み越えてしまったような背徳感があった。
蓮は一瞬、瞬きを忘れたように旭を凝視した。
彼の喉仏が大きく一度動き、灰色の瞳に熱い光が宿る。
「……行くぞ」
蓮が左腕を、旭の前へと差し出した。
「第二条の履行だ。……組め」
旭の視界が、蓮のコートの袖口でいっぱいになる。
震える手を伸ばし、おそるおそる、彼の腕に自分の腕を絡めた。
カシミアの柔らかな感触。
そのすぐ下にある、逞しく引き締まった上腕二頭筋の硬さ。
旭の心臓が、肋骨の隙間から逃げ出そうとするほど激しく拍動を始めた。
一歩、足を踏み出す。
蓮の歩幅に合わせて、自分の身体が彼の方へと引き寄せられる。
肩が、触れる。
蓮のコートの生地と、旭のワンピースのシルクが擦れる、サッという乾いた音が耳元で響いた。
「……あゆみ」
不意に耳元で囁かれ、旭の背筋を電流のような刺激が駆け抜けた。
「……はい、蓮さん」
「手が、震えているぞ。……私の腕は、そんなに硬くて不快か」
「いえ! 滅相もございません! あまりに、……あまりに心地よくて、身体の制御が効かないだけでございます!」
蓮は、旭の支離滅裂な答えに僅かに口角を上げると、旭の手を自分の脇へ引き込み、さらに密着させた。
蓮の体温が、旭の腕を通じて全身に伝染していく。
マンションのエントランスを出ると、都会の冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
けれど、蓮と繋がっている場所だけは、真夏のように熱い。
連れて行かれたのは、都心から少し離れた場所にある、広大な国立植物園だった。
大温室の扉を開けた瞬間、湿った熱気と、何百種類もの植物が混じり合った濃密な生命の香りが、旭を圧倒した。
「ここ、は……」
「かつて、私が仕事で疲弊した時によく通った場所だ。……君に、見せたかった」
蓮の視線は、熱帯のシダ植物の緑に注がれている。
けれど、彼の左手は、旭が組んでいる腕を離さないよう、自らの掌を旭の手の甲に重ねていた。
大きな、節のしっかりした蓮の手。
その親指が、旭の指先をそっとなぞる。
(推しの、思い出の場所。そこで、推しの手に、包まれている。……これは、俺の人生の最終回か? これ以上の多幸感、この世に存在するのか?)
温室の中を、静かな足音だけが響く。
時折、天井のミスト装置から吹き出す、シューという微かな音が静寂を彩った。
色鮮やかな蘭の花。
その花びらに触れるよりも先に、蓮は旭の横顔を見つめた。
「あゆみ。……君といると、この場所の空気が、いつもより澄んで感じるのはなぜだろうな」
蓮の声には、仕事用の冷徹な響きは一切なかった。
ただ、自分の隣にいる存在を慈しむ、ひどく剥き出しの心が宿っていた。
旭は、握られた自分の手が、どんどん熱くなっていくのを感じた。
推しの「特別」になりたいなんて、ファンとしては望んではいけない贅沢だと思っていた。
けれど、今、この温室の熱気の中で。
旭の心臓は、契約という盾をかなぐり捨てて、蓮の名前を何度も何度も、無音で叫び続けていた。
身代わりの結婚生活、十四日目の午後。
限界オタク・瀬戸旭は、推しの「思い出」の中に招き入れられ、もはや「身代わり」という言葉の定義さえも見失い、ただ目の前の男がもたらす熱量に、じりじりと焼かれ続けていた。
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