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15話
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温室の自動ドアが開き、冷涼な外気が熱帯の湿度を鋭く切り裂いた。
旭は蓮の腕に添えた指先に力を込め、アスファルトを蹴る一歩一歩の感触を確かめた。
(静かだ。推しと歩く並木道。風が吹くたび、カシミアのコートからサンダルウッドが弾けて、俺の脳細胞を優しく愛撫している。このまま時が止まればいいのに。……いや、ダメだ。オタクの分際で推しの時間を独占するなんて、重罪にもほどがある)
並木道の黄金色に染まった銀杏が、午後の陽光を浴びてキラキラと輝いている。
その美しさに目を細めた瞬間、背後から高い声が響いた。
「――えっ、嘘。今の、もしかして……」
「ちょっと待って、あのスタイル。……RENじゃない?」
旭の脊髄を、冷たい電流が駆け抜けた。
背後で数人の若い女性たちが足を止め、スマートフォンを取り出す気配がする。
カシャッ、という微かなシャッター音が、静かな並木道に無機質に突き刺さった。
(最悪だ! 俺としたことが、推しのステルス性能を過信していた。こんな国宝級の造形が、一般道で目立たないわけがない。もし、俺みたいな正体不明の『女』と一緒にいるところを撮られたら、一条さんのキャリアに傷がつく!)
旭の思考は、一瞬で「自分」を捨て、「推しの守護者」へと切り替わった。
腕を解き、離れようとした、その時。
ぐい、と。
蓮の腕が旭の肩を抱き寄せた。
「蓮さん……っ!?」
「動くな。……大人しくしていろ」
蓮の声は低く、そして驚くほど冷徹だった。
彼は旭を自分のコートの内側へ引き込むようにして、周囲の視線から遮断した。
視界が、蓮のタートルネックの黒一色に染まる。
鼻腔を突くのは、深い香水の匂い。そして、蓮の肌から立ち上る、生々しい熱量。
耳を押し付けられた彼の胸板からは、ドクッ、ドクッ、と、いつもより速い鼓動が、振動となって旭の頬に伝わってきた。
「きゃあ! 誰か抱き寄せた!」
「彼女!? モデルのRENに彼女いたの!?」
ざわめきが大きくなる。
旭は蓮の胸元で、必死に自分の顔を隠した。
(近い。近すぎる。一条さんの心臓の音が、俺の頭蓋骨を揺らしてる。……っていうか、何してるんですか!? 隠すなら俺を突き放すべきでしょ! これじゃ余計に怪しまれる。……でも、温かい。このカシミア越しに伝わる体温が、熱くて、逃げ出したくない……)
蓮は騒ぎ立てる集団に背を向けたまま、旭の耳元で小さく息を吐いた。
首筋に当たる彼の熱い呼気が、旭の思考を白く濁らせる。
「……あゆみ。……顔を上げるな。私の後ろについてこい」
蓮が旭の肩を抱いたまま、力強い足取りで歩き出した。
革靴が乾いた落ち葉を踏み締める、ザッ、ザッという音がリズムを刻む。
背後で追いかけてこようとする気配を、蓮が放つ圧倒的な威圧感――「踏み込むな」という静かな拒絶のオーラが、物理的な壁となって押し返しているのが分かった。
路地裏に停めてあった送迎車に飛び込むと、厚い防弾ガラスが都会の喧騒を完璧に遮断した。
車内を満たすのは、高級な本革の匂いと、二人の乱れた呼吸音だけだ。
「……はぁ。……死ぬかと、思いました……」
旭はシートに深く沈み込み、震える指先で自分の頬を押さえた。
隣では、蓮が乱れた前髪を無造作にかき上げ、窓の外を鋭い眼差しで見つめている。
彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこか険しい。
「……あゆみ。怖かったか」
蓮が、ぽつりと漏らした。
旭は大きく首を振った。
「いいえ! 全然! それより、蓮さんのイメージが……。撮られた写真が、もしネットに上がったりしたら……」
「……そんなことはどうでもいい」
蓮が、旭の方を向いた。
彼の大きな手が、旭の頬を包み込む。
指先は少しだけ冷えていて、けれど、その手のひらの厚みが、旭の動揺を優しく押さえつけた。
「……私が嫌だったのは、あいつらに、君をジロジロ見られたことだ」
「……え?」
「……私の隣にいる君を、許可なく消費されるのが耐えられなかった。……君は、私だけの……」
言葉が、途切れる。
蓮の親指が、旭の唇をそっとなぞった。
車内の狭い空間で、二人の視線が絡まり合う。
蓮の瞳には、契約相手への配慮でも、モデルとしての演技でもない。
剥き出しの、そしてひどく独占的な「情熱」が、静かに燃えていた。
(……私だけの? 今、そう言おうとしたの? ……一条さん、それは、ファンサービスにしては、過剰……すぎる……)
旭は、瞬きすることさえ忘れ、蓮の瞳の中に吸い込まれていった。
走行する車の微かな振動が、二人の距離をじわじわと詰め、重ねていく。
身代わりの結婚生活、十四日目の夕暮れ。
旭は、自分の心臓が「オタク」としての境界線を完全に踏み外し、ただ一人の男としての蓮に、激しく恋焦がれていることに、もう抗えなくなっていた。
旭は蓮の腕に添えた指先に力を込め、アスファルトを蹴る一歩一歩の感触を確かめた。
(静かだ。推しと歩く並木道。風が吹くたび、カシミアのコートからサンダルウッドが弾けて、俺の脳細胞を優しく愛撫している。このまま時が止まればいいのに。……いや、ダメだ。オタクの分際で推しの時間を独占するなんて、重罪にもほどがある)
並木道の黄金色に染まった銀杏が、午後の陽光を浴びてキラキラと輝いている。
その美しさに目を細めた瞬間、背後から高い声が響いた。
「――えっ、嘘。今の、もしかして……」
「ちょっと待って、あのスタイル。……RENじゃない?」
旭の脊髄を、冷たい電流が駆け抜けた。
背後で数人の若い女性たちが足を止め、スマートフォンを取り出す気配がする。
カシャッ、という微かなシャッター音が、静かな並木道に無機質に突き刺さった。
(最悪だ! 俺としたことが、推しのステルス性能を過信していた。こんな国宝級の造形が、一般道で目立たないわけがない。もし、俺みたいな正体不明の『女』と一緒にいるところを撮られたら、一条さんのキャリアに傷がつく!)
旭の思考は、一瞬で「自分」を捨て、「推しの守護者」へと切り替わった。
腕を解き、離れようとした、その時。
ぐい、と。
蓮の腕が旭の肩を抱き寄せた。
「蓮さん……っ!?」
「動くな。……大人しくしていろ」
蓮の声は低く、そして驚くほど冷徹だった。
彼は旭を自分のコートの内側へ引き込むようにして、周囲の視線から遮断した。
視界が、蓮のタートルネックの黒一色に染まる。
鼻腔を突くのは、深い香水の匂い。そして、蓮の肌から立ち上る、生々しい熱量。
耳を押し付けられた彼の胸板からは、ドクッ、ドクッ、と、いつもより速い鼓動が、振動となって旭の頬に伝わってきた。
「きゃあ! 誰か抱き寄せた!」
「彼女!? モデルのRENに彼女いたの!?」
ざわめきが大きくなる。
旭は蓮の胸元で、必死に自分の顔を隠した。
(近い。近すぎる。一条さんの心臓の音が、俺の頭蓋骨を揺らしてる。……っていうか、何してるんですか!? 隠すなら俺を突き放すべきでしょ! これじゃ余計に怪しまれる。……でも、温かい。このカシミア越しに伝わる体温が、熱くて、逃げ出したくない……)
蓮は騒ぎ立てる集団に背を向けたまま、旭の耳元で小さく息を吐いた。
首筋に当たる彼の熱い呼気が、旭の思考を白く濁らせる。
「……あゆみ。……顔を上げるな。私の後ろについてこい」
蓮が旭の肩を抱いたまま、力強い足取りで歩き出した。
革靴が乾いた落ち葉を踏み締める、ザッ、ザッという音がリズムを刻む。
背後で追いかけてこようとする気配を、蓮が放つ圧倒的な威圧感――「踏み込むな」という静かな拒絶のオーラが、物理的な壁となって押し返しているのが分かった。
路地裏に停めてあった送迎車に飛び込むと、厚い防弾ガラスが都会の喧騒を完璧に遮断した。
車内を満たすのは、高級な本革の匂いと、二人の乱れた呼吸音だけだ。
「……はぁ。……死ぬかと、思いました……」
旭はシートに深く沈み込み、震える指先で自分の頬を押さえた。
隣では、蓮が乱れた前髪を無造作にかき上げ、窓の外を鋭い眼差しで見つめている。
彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこか険しい。
「……あゆみ。怖かったか」
蓮が、ぽつりと漏らした。
旭は大きく首を振った。
「いいえ! 全然! それより、蓮さんのイメージが……。撮られた写真が、もしネットに上がったりしたら……」
「……そんなことはどうでもいい」
蓮が、旭の方を向いた。
彼の大きな手が、旭の頬を包み込む。
指先は少しだけ冷えていて、けれど、その手のひらの厚みが、旭の動揺を優しく押さえつけた。
「……私が嫌だったのは、あいつらに、君をジロジロ見られたことだ」
「……え?」
「……私の隣にいる君を、許可なく消費されるのが耐えられなかった。……君は、私だけの……」
言葉が、途切れる。
蓮の親指が、旭の唇をそっとなぞった。
車内の狭い空間で、二人の視線が絡まり合う。
蓮の瞳には、契約相手への配慮でも、モデルとしての演技でもない。
剥き出しの、そしてひどく独占的な「情熱」が、静かに燃えていた。
(……私だけの? 今、そう言おうとしたの? ……一条さん、それは、ファンサービスにしては、過剰……すぎる……)
旭は、瞬きすることさえ忘れ、蓮の瞳の中に吸い込まれていった。
走行する車の微かな振動が、二人の距離をじわじわと詰め、重ねていく。
身代わりの結婚生活、十四日目の夕暮れ。
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