身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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19話

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 一条本家の晩餐会は、まるで氷点下の静寂に包まれた展示会のようだった。
 高い天井から吊るされたシャンデリアが、銀食器に鋭い光を反射させている。
 旭は、淑やかな「あゆみ」として蓮の隣に座り、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
 
 正面に座る蓮の父親が、冷徹な声で仕事の進捗を問う。
 蓮は、先ほどまでの撮影の熱気を微塵も感じさせない、鉄の平穏を纏って答えていた。
 
「計画通りに進めております。来期には、想定を上回る利益を確保できるでしょう」
 
 その声は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく、迷いがない。
 副社長としての彼は、一点の曇りもない「一条家の後継者」を完璧に演じ切っていた。
 
 旭は、テーブルの下で自分の膝を強く握った。
 すぐ隣にいる蓮の肩が、僅かに上がっている。
 意識しなければ気づかないほどの、呼吸の浅さ。
 
(さっきまで『REN』として、何千枚ものシャッターを浴びていたのに。そのまま、この息の詰まる食事会。一条さん、あなたの心臓は、一体いつ休んでいるんですか)
 
 旭の胸の奥が、熱い鉄を飲まされたようにじりじりと焼ける。
 蓮の視線は一度も旭に向かなかった。
 それは無視ではなく、彼が今、この戦場を乗り切るために全神経を一点に集中させている証拠だった。
 
 ようやく解放され、送迎車の後部座席に逃げ込んだのは、深夜を回る頃だった。
 車内を満たす本革の匂い。
 窓の外を流れる都会の灯りが、蓮の白い横顔を断続的に照らし出す。
 
「……あゆみさん。遅くなって、すまなかった」
 
 蓮が、ようやくネクタイを緩めた。
 喉仏が大きく一度動き、彼は深く、肺の底から空気を吐き出した。
 その声は、晩餐会で見せた冷徹な響きとは別人のように、掠れて、重い。
 
「お疲れ様でした。……蓮さん、少し、お休みください」
 
 旭は、バッグから清潔なハンカチを取り出し、そっと蓮の手元に置いた。
 蓮はそれを受け取ることなく、ただ、旭の顔をじっと見つめた。
 
 マンションの最上階、自宅の扉が開く。
 玄関の鍵が閉まる乾いた音が、静かなリビングに響いた。
 
 蓮は、持っていたジャケットをソファに放り投げる。
 眼鏡を外し、指先で眉間を強く押さえた。
 彼の身体から立ち上るのは、微かなアルコールの香りと、そして昼間の撮影で浴びたヘアスプレーの鋭い名残。
 
「あゆみさん。……悪いが、少しだけ」
 
 蓮の足元が、僅かに揺れた。
 旭が駆け寄ろうとするよりも早く、蓮は旭の隣に身体を沈める。
 ソファのクッションが大きく波打ち、二人の距離が一気に消失した。
 
 蓮の頭が、旭の膝の上に、重く、確かな温度を持って横たわる。
 
 旭の思考が、一瞬で真っ白に弾けた。
 
(ひ、膝枕。膝枕だ。世界がひれ伏すトップモデルで、IT企業の冷徹な副社長が、今、俺の膝の上に。……待て。心臓、鳴るな。この鼓動が、一条さんの耳に直接届いてしまう)
 
 旭は全身の筋肉を硬直させた。
 膝の上に伝わってくる、蓮の側頭部の熱。
 セット剤で僅かに硬くなった髪の質感が、旭のスカートの生地越しに生々しく伝わってくる。
 
「……動かないでくれ。……このまま、五分だけでいい」
 
 蓮は、旭の太ももに顔を埋めるようにして、深く息を吐いた。
 彼の長い指先が、旭の膝の上の布地を、縋るようにぎゅっと握りしめる。
 
「君の香りを吸うと、……脳のノイズが消える。……ようやく、呼吸ができる」
 
 蓮の声は、旭の肌を直接震わせるほど近く、そして切実だった。
 
(清らかな妻に癒やされたい、なんて。……一条さん、あなたは本当に何も知らない。俺が、あなたの全部を、その不器用な生き方さえも、喉が枯れるほど愛しているオタクだってことも。……あなたがこんなに、……温かくて、脆い男だってことも)
 
 旭は、止まらない手の震えを気合で抑え込んだ。
 指先を、蓮の乱れた髪へと伸ばす。
 
 触れる。
 
 頭皮の熱。
 微かに混じる、都会の冷たい風の匂い。
 旭は、髪の間に指を潜り込ませ、そっと地肌を解すように動かした。
 
「……いい手だ。……温かい」
 
 蓮の睫毛が、瞬きに合わせて扇のように揺れ、やがて静かに閉じられた。
 
 窓の外、冷たい雨がガラスを叩く音が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
 
 旭は、膝の上で眠りに落ちようとしている「神」を見つめた。
 
 カメラの前で見せる、傲慢な美しさ。
 会議室で見せる、冷徹な知性。
 そのすべてが、今は、一人の「男」としての疲労に溶け合い、旭に委ねられている。
 
 その事実が、誇らしくて、そして、泣きたいほど愛おしい。
 
 旭は、高鳴り続ける自分の心臓を、もう止める必要はないのだと自分に許可を出した。
 
 身代わりの結婚生活、十八日目の深夜。
 
 旭は、膝の上の重みを、世界で一番大切な宝物を守るような愛おしさで、ただ静かに、受け入れ続けていた。
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