身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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22話

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 キッチンから漂うのは、香ばしく焼けた厚切りトーストの匂いと、丁寧にドリップされたコーヒーの深い香り。
 旭はダイニングチェアの端に浅く腰を下ろし、昨夜から続く心臓の乱気流をどうにか抑え込もうと、指先を膝の上で強く組んだ。

(あの、腕の中。一晩中握られていた左手の熱が、まだ皮膚にこびりついて離れない。……洗いたくない。いや、衛生的に洗うけど。一生保存しておきたい、この感触)

 旭は自分の左手を、壊れ物を扱うように右の手のひらで包み込んだ。そこへ、白いワイシャツの袖を捲り上げた蓮が、銀のトレイを運んでくる。

「あゆみさん。食欲はあるか。昨夜はあまり眠れなかったようだが」

 蓮の言葉に、旭の肩が小さく跳ねる。
 眼鏡の奥で光る灰色の瞳。そこには仕事用の冷徹な光はなく、ただ「妻」の体調を案じる、誠実な男の体温だけが宿っていた。

「はい、蓮さん。大丈夫です。美味しそうな、朝食ですね」

 どうにか「あゆみ」としての声を絞り出す。
 
 蓮がテーブルに置いたのは、彩り鮮やかなサラダと、完璧な焼き色の目玉焼き。その横には、小さな小箱が添えられていた。

「これ、は」

「ビタミンと、数種類のミネラルを配合した、特注のサプリメントだ。君の肌の色が、今朝は少しだけ青白い。私の管理不足だ」

 旭は、差し出されたサプリメントを聖水のように飲み込んだ。喉を通る水の冷たさが、上気した身体に僅かに染みる。
 蓮は、旭が飲み干すのを確認すると、満足げに喉を鳴らして自分の席についた。

「あゆみさん。今日の午後は、空けておいてほしい。君に、私の一条家から届いたものを渡したいんだ」

 蓮の指先が、コーヒーカップの縁をなぞる。その仕草一つに、カリスマモデルとしての色気と、副社長としての威厳が同居していた。

「実家から、ですか」

「ああ。一条家の女性が代々受け継ぐ、守り刀のようなものだ」

 旭の指先が、ぴたりと止まった。
 一条家。その言葉の重みが、身代わりという砂上の楼閣で踊っている旭の胸に、鋭い棘となって突き刺さる。

(守り刀。一条家の、女性。……ダメだ。これ以上は。俺は、俺はあゆみさんじゃない。中身はただの男で、あんたのオタクなんだ。騙してる。この、真っ直ぐな瞳を、俺は裏切り続けてる)

 喉の奥がぎゅっと締め付けられ、美味しいはずのトーストが急に砂を噛むような味に変わる。
 旭は視線を皿の上のパセリへと落とし、溢れ出しそうな罪悪感を、熱いコーヒーと一緒に無理やり流し込んだ。

「あゆみさん。手が、震えているぞ」

 蓮が身を乗り出し、テーブルを越えて旭の手を覆った。
 乾いた、けれど包み込むような蓮の手のひらの厚み。旭はその温かさに、泣き出したい衝動を必死に堪えた。

「怖がらなくていい。私が、君を守る。何があっても、君を離さない」

 一切の迷いがない声。その絶対的な信頼が、今の旭にとっては、どんな鋭利な刃物よりも深く、その心を切り刻んでいく。

 不意に、旭のスマートフォンの通知音が、静かなリビングに無機質に響いた。
 画面に表示されたのは、逃げ出した姉、あゆみからの、数週間ぶりのメッセージ。

『ごめん旭! そろそろ限界だから、全部白状しに行こうかな?』

 旭の心臓が、本日最大の警鐘を鳴らす。

「あゆみさん? 誰からだ」

 蓮の視線が鋭く光り、旭の指先が氷のように冷たくなっていく。
 
 旭は、スマートフォンの画面を裏返すように伏せた。

「いいえ、なんでも、ありません。ただの、迷惑メールです」

 乾いた声が、嘘を重ねる。
 
 窓の外、都会の空には重たい雲が立ち込め、嵐の予感を含んだ風が、高層マンションの窓を低く鳴らした。
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