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1話
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「……ああ、ここで終わりなんだ」
目の前に広がるのは、吸い込まれそうなほど深い、漆黒の谷底だった。
吹き上げてくる風は剃刀のように鋭く、ボロ布のような衣類を通して僕の肌を刺す。
背後には、松明を掲げ、僕を忌々しげに睨みつける村人たちの顔があった。
「災いの子め。ようやくお前を神に返せる」
「生贄として龍神様に捧げられるのだ。光栄に思え、この薄汚いオメガが!」
投げつけられた罵倒の言葉に、僕は力なく笑った。
この世界には『アルファ』『ベータ』、そして僕のような『オメガ』という性が存在する。
けれど、この閉鎖的な村において、オメガはただの「不吉な存在」でしかなかった。
生まれた時から、僕は地下室に閉じ込められて育った。
家族に愛された記憶なんて、一度もない。
ただ、いつか龍神様への『生贄』として差し出されるためだけに、泥水をすするようにして生かされてきた。
「さあ、行け! 龍神様を怒らせるな!」
村長が僕の背中を強く突き飛ばした。
痩せ細った僕の体は、抵抗する術もなく宙を舞う。
ふわりと浮遊感が体を包んだ。
冷たい風が耳元で鳴り響き、視界から村人たちの醜い笑顔が消えていく。
(ああ……やっと、自由になれる)
僕は安堵して瞳を閉じた。
地面に叩きつけられる恐怖よりも、ようやくこの地獄から解放される喜びが勝っていた。
暗い闇の中へ、ゆっくりと意識を沈めていく。
――その時だった。
「……見つけた。僕の、愛しい番(つがい)」
鼓膜を震わせる、驚くほど甘く、そして深い声が聞こえた。
不意に、体が大きな何かに受け止められた。
想像していた硬い地面の衝撃ではない。
鋼のように強靭で、けれどベルベットのように滑らかで温かい、巨大な『漆黒の翼』が僕を包み込んでいた。
「ひゃっ……!?」
思わず声を上げると、視界が急激に反転した。
気がつけば、僕は誰かの腕の中に横抱きにされている。
おそるおそる目を開けると、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい貌(かお)があった。
夜の闇をそのまま形にしたような、艶やかな漆黒の長髪。
燃える火の粉を閉じ込めたような、真紅の瞳。
その男は、宙を歩くかのように音もなく絶壁の平坦な場所に降り立つと、僕を抱えたまま、ゆっくりと地面に跪いた。
「……怪我はないかな? 少し、お迎えが遅くなってしまったね。怖かっただろう」
男は優しく微笑みながら、僕の頬を長い指先で撫でた。
その指先が触れた瞬間、僕の体の中で、今まで眠っていた『何か』が跳ねた。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
全身が熱くなり、指先が痺れるような感覚。
彼から漂う、冷たくも芳醇な、清冽な香りが鼻腔をくすぐる。
「あ、あの……あなたは……」
「僕はクロム。この霊峰を統べる龍、と言えばわかるかな?」
クロム……様。
村人たちが「血も涙もない、恐ろしい黒龍」と怯えていた、あの龍神様。
けれど、目の前の彼は、凍える僕を温めるように抱きしめ、壊れ物を扱うような手つきで僕を見つめている。
「ナギ。君の名前だね。ずっと、ずっと君が生まれてくるのを待っていたんだ」
クロム様は、僕の小さな手を自分の両手で包み込んだ。
彼の掌は驚くほど熱い。
龍神ともあろうお方が、生贄の僕に対して、まるで最上の宝物に接するような敬意を払っている。
その真紅の瞳には、僕がかつて一度も向けられたことのない、狂おしいほどの情熱と慈しみが宿っていた。
「待っていた……? 僕を、ですか?」
「そうだよ。君は僕の『運命の番』だ。数百年の孤独を終わらせてくれる、僕のたった一人の伴侶だ」
クロム様の手が、僕の細い手首をそっとなぞる。
拒絶など許さないと言わんばかりの、けれど痛くない、逃げ場を塞ぐような絶妙な力加減。
そのまま彼は、僕の指先に、祈るような熱い唇を落とした。
「……っ!」
触れられた場所から火花が散る。
僕はオメガとして生まれたけれど、こんなに激しく体が反応するのは初めてだった。
彼の視線に射抜かれるだけで、頭が真っ白になってしまいそうになる。
「もう、あの者たちのところへは帰さない。君を傷つけるものは、僕がすべて塵にしてあげよう。だから……僕の神殿においで」
その微笑みは、どこまでも慈悲深い。
けれど、僕を見つめる真紅の瞳の奥には、決して逃がさないという暗い執着の色が混じっているのを、僕は見逃さなかった。
「……僕なんかが、本当に、あなたの番なんですか? 僕は、村でも無能だと言われて……」
「『なんか』だなんて、二度と言わないで。君は僕の命そのものだ。今日から、この世界の誰よりも幸せにしてあげるよ。……いいかい?」
有無を言わせない、けれど甘い誘惑に、僕は小さく頷くことしかできなかった。
クロム様は満足げに瞳を細めると、僕を再び軽々と抱き上げた。
背後に広がるのは、漆黒の岩石で作られた、荘厳な神殿。
「さあ、行こう。僕たちの、愛の巣へ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
捨てられたはずの僕が、神様に拾われた。
それも、これほどまでに熱い熱量で望まれて。
クロム様の腕の中は、外の吹雪が嘘のように温かい。
僕は彼に縋り付くようにして、その胸に顔を埋めた。
これが、僕と彼――孤独な龍神様との、狂おしいほど甘く、重すぎる日々の始まりだった。
目の前に広がるのは、吸い込まれそうなほど深い、漆黒の谷底だった。
吹き上げてくる風は剃刀のように鋭く、ボロ布のような衣類を通して僕の肌を刺す。
背後には、松明を掲げ、僕を忌々しげに睨みつける村人たちの顔があった。
「災いの子め。ようやくお前を神に返せる」
「生贄として龍神様に捧げられるのだ。光栄に思え、この薄汚いオメガが!」
投げつけられた罵倒の言葉に、僕は力なく笑った。
この世界には『アルファ』『ベータ』、そして僕のような『オメガ』という性が存在する。
けれど、この閉鎖的な村において、オメガはただの「不吉な存在」でしかなかった。
生まれた時から、僕は地下室に閉じ込められて育った。
家族に愛された記憶なんて、一度もない。
ただ、いつか龍神様への『生贄』として差し出されるためだけに、泥水をすするようにして生かされてきた。
「さあ、行け! 龍神様を怒らせるな!」
村長が僕の背中を強く突き飛ばした。
痩せ細った僕の体は、抵抗する術もなく宙を舞う。
ふわりと浮遊感が体を包んだ。
冷たい風が耳元で鳴り響き、視界から村人たちの醜い笑顔が消えていく。
(ああ……やっと、自由になれる)
僕は安堵して瞳を閉じた。
地面に叩きつけられる恐怖よりも、ようやくこの地獄から解放される喜びが勝っていた。
暗い闇の中へ、ゆっくりと意識を沈めていく。
――その時だった。
「……見つけた。僕の、愛しい番(つがい)」
鼓膜を震わせる、驚くほど甘く、そして深い声が聞こえた。
不意に、体が大きな何かに受け止められた。
想像していた硬い地面の衝撃ではない。
鋼のように強靭で、けれどベルベットのように滑らかで温かい、巨大な『漆黒の翼』が僕を包み込んでいた。
「ひゃっ……!?」
思わず声を上げると、視界が急激に反転した。
気がつけば、僕は誰かの腕の中に横抱きにされている。
おそるおそる目を開けると、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい貌(かお)があった。
夜の闇をそのまま形にしたような、艶やかな漆黒の長髪。
燃える火の粉を閉じ込めたような、真紅の瞳。
その男は、宙を歩くかのように音もなく絶壁の平坦な場所に降り立つと、僕を抱えたまま、ゆっくりと地面に跪いた。
「……怪我はないかな? 少し、お迎えが遅くなってしまったね。怖かっただろう」
男は優しく微笑みながら、僕の頬を長い指先で撫でた。
その指先が触れた瞬間、僕の体の中で、今まで眠っていた『何か』が跳ねた。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
全身が熱くなり、指先が痺れるような感覚。
彼から漂う、冷たくも芳醇な、清冽な香りが鼻腔をくすぐる。
「あ、あの……あなたは……」
「僕はクロム。この霊峰を統べる龍、と言えばわかるかな?」
クロム……様。
村人たちが「血も涙もない、恐ろしい黒龍」と怯えていた、あの龍神様。
けれど、目の前の彼は、凍える僕を温めるように抱きしめ、壊れ物を扱うような手つきで僕を見つめている。
「ナギ。君の名前だね。ずっと、ずっと君が生まれてくるのを待っていたんだ」
クロム様は、僕の小さな手を自分の両手で包み込んだ。
彼の掌は驚くほど熱い。
龍神ともあろうお方が、生贄の僕に対して、まるで最上の宝物に接するような敬意を払っている。
その真紅の瞳には、僕がかつて一度も向けられたことのない、狂おしいほどの情熱と慈しみが宿っていた。
「待っていた……? 僕を、ですか?」
「そうだよ。君は僕の『運命の番』だ。数百年の孤独を終わらせてくれる、僕のたった一人の伴侶だ」
クロム様の手が、僕の細い手首をそっとなぞる。
拒絶など許さないと言わんばかりの、けれど痛くない、逃げ場を塞ぐような絶妙な力加減。
そのまま彼は、僕の指先に、祈るような熱い唇を落とした。
「……っ!」
触れられた場所から火花が散る。
僕はオメガとして生まれたけれど、こんなに激しく体が反応するのは初めてだった。
彼の視線に射抜かれるだけで、頭が真っ白になってしまいそうになる。
「もう、あの者たちのところへは帰さない。君を傷つけるものは、僕がすべて塵にしてあげよう。だから……僕の神殿においで」
その微笑みは、どこまでも慈悲深い。
けれど、僕を見つめる真紅の瞳の奥には、決して逃がさないという暗い執着の色が混じっているのを、僕は見逃さなかった。
「……僕なんかが、本当に、あなたの番なんですか? 僕は、村でも無能だと言われて……」
「『なんか』だなんて、二度と言わないで。君は僕の命そのものだ。今日から、この世界の誰よりも幸せにしてあげるよ。……いいかい?」
有無を言わせない、けれど甘い誘惑に、僕は小さく頷くことしかできなかった。
クロム様は満足げに瞳を細めると、僕を再び軽々と抱き上げた。
背後に広がるのは、漆黒の岩石で作られた、荘厳な神殿。
「さあ、行こう。僕たちの、愛の巣へ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
捨てられたはずの僕が、神様に拾われた。
それも、これほどまでに熱い熱量で望まれて。
クロム様の腕の中は、外の吹雪が嘘のように温かい。
僕は彼に縋り付くようにして、その胸に顔を埋めた。
これが、僕と彼――孤独な龍神様との、狂おしいほど甘く、重すぎる日々の始まりだった。
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