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8話
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深夜、義賊団『黄金の牙』の拠点は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように、石造りの建物は冷たい沈黙を纏っている。ヴァンは自分の寝室で何度も寝返りを打っていたが、どうしても意識が冴え渡り、眠りにつくことができなかった。
原因は、隣の部屋にいるはずの気配が消えていることだ。
「……あの馬鹿。またどこかで道に迷ってんのか」
ヴァンは起き上がり、寝巻きの上に薄手の外套を羽織った。
リナートを拾ってから、ヴァンの安眠は遠のくばかりだ。扉を抜けて廊下に出ると、夜の冷気が肌を刺す。食堂にも、更衣室にも、あの銀色の髪は見当たらない。ふと見上げると、最上階の物置部屋へ続く梯子(はしご)に、泥の付いた足跡が残っていた。
ヴァンは舌打ちをしながら梯子を上り、小さな天窓を抜けて屋根の上へと出た。
そこには、月光を吸い込んで淡く発光しているかのような、美しい背中があった。
リナートは尖った屋根の傾斜に器用に腰を下ろし、膝を抱えて空を見上げていた。風が吹くたびに、さらさらとした銀髪が夜の闇に散り、星屑と混ざり合う。
「おい。こんなところで何をしてる。足を滑らせて落ちたら、下は石畳だぞ」
「あ、ヴァン。起こしてしまいましたか?」
リナートが振り返り、にこりと微笑む。
その瞳は、昼間よりも深く、神秘的な色を湛えていた。ヴァンは慎重に足場を選びながら、リナートの隣に腰を下ろした。古い瓦が擦れる乾いた音が、静かな夜に響く。
「眠れなくて。ここなら、お星様が近くに見えるかなと思ったんです」
「お前は子供か。星を見たところで腹は膨れないぞ」
「そうですね。でも、こうして静かにしていると、風が色々なことを教えてくれます」
リナートは細い指を空に伸ばした。
鼻を掠めるのは、夜露に濡れたレンガの匂いと、街のどこかで誰かが焚いている暖炉の煙の香り。それから、隣に座るリナートから漂う、清潔な石鹸の微かな残り香だ。
ヴァンは隣の熱を感じないように努めたが、肩が触れ合う距離では、リナートの穏やかな呼吸までが伝わってくる。
「……ヴァン。あなたは、どうして義賊になったのですか?」
唐突な問いに、ヴァンは喉の奥で詰まった息を吐き出した。
「どうして、なんて理由はない。気づいたらこの牙の紋章を背負っていただけだ。親父が死んで、行き場のない連中を放り出すわけにもいかなかったからな」
「優しいのですね、やっぱり」
「優しくねえよ。俺は自分の居場所を守るために、他人の金を掠め取ってる悪党だ」
ヴァンはわざと突き放すように言った。
自分とこの青年では、住んでいる世界が違いすぎる。リナートの持つ純粋さは、ヴァンのような泥にまみれた人間には眩しすぎるのだ。いつかこの銀色の光は、相応しい場所へと帰っていくべきなのだと、自分に言い聞かせる。
沈黙が流れる。
遠くで夜警の鳴らす鐘の音が聞こえた。
リナートはしばらく黙って星を見つめていたが、やがて膝に顔を埋めるようにして、小さく呟いた。
「……私は、帰りたくないです」
「あ?」
「自分がどこから来たのか、何者なのか。本当は、少しだけ思い出しています。でも、あそこには私の居場所はありませんでした。広いお部屋も、綺麗な服も、私を温めてはくれませんでしたから」
リナートの声が、微かに震えている。
彼は顔を上げ、ヴァンの横顔を見つめた。その翡翠色の瞳には、夜の闇でも隠しきれない、切実な願いが灯っていた。
「ここにいたいんです。ヴァンのいる、この騒がしくて暖かい場所に。……ダメ、でしょうか」
リナートの手が、おずおずとヴァンの外套の裾を掴んだ。
小さな、それでいて拒絶を許さないほどの強い力が指先にこもっている。
「…………っ」
ヴァンの心臓が、跳ねた。
ドクン、と胸の奥で鐘が鳴ったような衝撃。リナートに見つめられるだけで、自分の体温が限界まで上昇していくのが分かる。
帰りたくない。その言葉が、これほどまでにヴァンの心を揺さぶり、狂わせるとは思わなかった。
「……勝手にしろ。お前みたいな役立たず、外に放り出したところで一日も持たねえだろうしな」
ヴァンは顔を背け、耳まで赤くなっているのを誤魔化すように、リナートの手を振り払わずにその上に自分の大きな掌を重ねた。
「ここにいろ。俺が……飽きるまでは、置いてやる」
「飽きないでくださいね。私、毎日ヴァンのために、お掃除を頑張りますから」
「だから掃除はやめろと言ってるだろ! 壊すだけだ!」
リナートが楽しそうに笑う。
その笑い声が、夜風に乗って夜空へと溶けていった。
重なり合った手のひらから、リナートの体温がヴァンの血液へと溶け込み、全身を駆け巡る。
自分の心臓の音が、リナートの指先に伝わってしまっていないだろうか。ヴァンはそれだけが心配で、握る力を少しだけ強めた。
屋根の上で、二人の影が一つに重なる。
初恋の難易度は、確かにカンストしている。だが、この瞬間だけは、ヴァンはその難しさを楽しんでもいいような気がしていた。
夜明けはまだ遠い。二人はしばらくの間、繋いだ手の温もりだけを道標に、終わらない夜空を眺め続けていた。
昼間の喧騒が嘘のように、石造りの建物は冷たい沈黙を纏っている。ヴァンは自分の寝室で何度も寝返りを打っていたが、どうしても意識が冴え渡り、眠りにつくことができなかった。
原因は、隣の部屋にいるはずの気配が消えていることだ。
「……あの馬鹿。またどこかで道に迷ってんのか」
ヴァンは起き上がり、寝巻きの上に薄手の外套を羽織った。
リナートを拾ってから、ヴァンの安眠は遠のくばかりだ。扉を抜けて廊下に出ると、夜の冷気が肌を刺す。食堂にも、更衣室にも、あの銀色の髪は見当たらない。ふと見上げると、最上階の物置部屋へ続く梯子(はしご)に、泥の付いた足跡が残っていた。
ヴァンは舌打ちをしながら梯子を上り、小さな天窓を抜けて屋根の上へと出た。
そこには、月光を吸い込んで淡く発光しているかのような、美しい背中があった。
リナートは尖った屋根の傾斜に器用に腰を下ろし、膝を抱えて空を見上げていた。風が吹くたびに、さらさらとした銀髪が夜の闇に散り、星屑と混ざり合う。
「おい。こんなところで何をしてる。足を滑らせて落ちたら、下は石畳だぞ」
「あ、ヴァン。起こしてしまいましたか?」
リナートが振り返り、にこりと微笑む。
その瞳は、昼間よりも深く、神秘的な色を湛えていた。ヴァンは慎重に足場を選びながら、リナートの隣に腰を下ろした。古い瓦が擦れる乾いた音が、静かな夜に響く。
「眠れなくて。ここなら、お星様が近くに見えるかなと思ったんです」
「お前は子供か。星を見たところで腹は膨れないぞ」
「そうですね。でも、こうして静かにしていると、風が色々なことを教えてくれます」
リナートは細い指を空に伸ばした。
鼻を掠めるのは、夜露に濡れたレンガの匂いと、街のどこかで誰かが焚いている暖炉の煙の香り。それから、隣に座るリナートから漂う、清潔な石鹸の微かな残り香だ。
ヴァンは隣の熱を感じないように努めたが、肩が触れ合う距離では、リナートの穏やかな呼吸までが伝わってくる。
「……ヴァン。あなたは、どうして義賊になったのですか?」
唐突な問いに、ヴァンは喉の奥で詰まった息を吐き出した。
「どうして、なんて理由はない。気づいたらこの牙の紋章を背負っていただけだ。親父が死んで、行き場のない連中を放り出すわけにもいかなかったからな」
「優しいのですね、やっぱり」
「優しくねえよ。俺は自分の居場所を守るために、他人の金を掠め取ってる悪党だ」
ヴァンはわざと突き放すように言った。
自分とこの青年では、住んでいる世界が違いすぎる。リナートの持つ純粋さは、ヴァンのような泥にまみれた人間には眩しすぎるのだ。いつかこの銀色の光は、相応しい場所へと帰っていくべきなのだと、自分に言い聞かせる。
沈黙が流れる。
遠くで夜警の鳴らす鐘の音が聞こえた。
リナートはしばらく黙って星を見つめていたが、やがて膝に顔を埋めるようにして、小さく呟いた。
「……私は、帰りたくないです」
「あ?」
「自分がどこから来たのか、何者なのか。本当は、少しだけ思い出しています。でも、あそこには私の居場所はありませんでした。広いお部屋も、綺麗な服も、私を温めてはくれませんでしたから」
リナートの声が、微かに震えている。
彼は顔を上げ、ヴァンの横顔を見つめた。その翡翠色の瞳には、夜の闇でも隠しきれない、切実な願いが灯っていた。
「ここにいたいんです。ヴァンのいる、この騒がしくて暖かい場所に。……ダメ、でしょうか」
リナートの手が、おずおずとヴァンの外套の裾を掴んだ。
小さな、それでいて拒絶を許さないほどの強い力が指先にこもっている。
「…………っ」
ヴァンの心臓が、跳ねた。
ドクン、と胸の奥で鐘が鳴ったような衝撃。リナートに見つめられるだけで、自分の体温が限界まで上昇していくのが分かる。
帰りたくない。その言葉が、これほどまでにヴァンの心を揺さぶり、狂わせるとは思わなかった。
「……勝手にしろ。お前みたいな役立たず、外に放り出したところで一日も持たねえだろうしな」
ヴァンは顔を背け、耳まで赤くなっているのを誤魔化すように、リナートの手を振り払わずにその上に自分の大きな掌を重ねた。
「ここにいろ。俺が……飽きるまでは、置いてやる」
「飽きないでくださいね。私、毎日ヴァンのために、お掃除を頑張りますから」
「だから掃除はやめろと言ってるだろ! 壊すだけだ!」
リナートが楽しそうに笑う。
その笑い声が、夜風に乗って夜空へと溶けていった。
重なり合った手のひらから、リナートの体温がヴァンの血液へと溶け込み、全身を駆け巡る。
自分の心臓の音が、リナートの指先に伝わってしまっていないだろうか。ヴァンはそれだけが心配で、握る力を少しだけ強めた。
屋根の上で、二人の影が一つに重なる。
初恋の難易度は、確かにカンストしている。だが、この瞬間だけは、ヴァンはその難しさを楽しんでもいいような気がしていた。
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