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16話
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浮遊感が全身を突き抜ける。
夜風が耳元で猛烈な音を立て、視界が上下反転した。ヴァンは腕の中のリナートを壊さないよう、さらに強く抱き寄せた。背中に伝わってくるリナートの細い指先が、ヴァンの上着を必死に掴んでいる。
「……っ、歯を食いしばれ!」
落下の衝撃を殺すため、ヴァンは空中で身を翻した。
階下の茂みに隠されていた巨大な緩衝材――メイたちが仕込んでおいた、大量の羽毛を詰めた特注の袋――に、二人の体が沈み込む。
ボフッ、という鈍い音と共に、真っ白な羽毛が雪のように夜の庭園に舞い散った。
「……生きているか、リナート」
「はい……。空を飛んでいるみたいで、少しだけ楽しかったです」
羽毛にまみれたリナートが、ヴァンの腕の中から顔を出す。翡翠色の瞳は恐怖に染まるどころか、見たこともないほどの興奮で潤んでいた。上気した頬が、月光を浴びて淡い桃色に染まっている。
ヴァンは安堵のあまり、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。だが、休んでいる暇はない。
「いたぞ! あそこだ、茂みの中に落ちた!」
バルコニーから見張りの兵士たちが叫び、松明の火がこちらへ向かって一斉に動き出す。
「走るぞ! 俺の横から一歩も離れるな!」
ヴァンはリナートの手を取り、羽毛の海から飛び出した。
庭園の石畳を、二人の足音が激しく叩く。
夜の冷気が、走り続けて火照った喉を鋭く刺した。辺りには深夜の庭園特有の、湿った土と沈丁花の重たい香りが立ち込めている。
リナートの足取りは、意外なほど軽やかだった。ヴァンの大きな手に引かれながら、彼はまるで風に乗るように石畳を蹴っていく。
「ヴァン、あちらの生け垣の陰なら隠れられそうです!」
「いいや、裏門へ直行だ! 馬車が待ってる!」
ヴァンは背後の追手を確認する。兵士たちの足音は着実に近づいてきていた。
迷路のような生け垣を抜け、噴水広場に差し掛かったその時、前方から二人の兵士が槍を構えて躍り出てきた。
「止まれ、賊め!」
ヴァンは舌打ちをし、走りながら腰のナイフに手をかけた。だが、抜刀するよりも早く、リナートがヴァンの前にふわりと躍り出た。
「ごめんなさい、少しだけ失礼します!」
リナートが足元に転がっていた小さな石を、優雅な仕草で蹴り飛ばした。
小石は正確に兵士の一人の足元にある大理石のタイルに当たり、奇妙な反響音を立てる。驚いた兵士が重心を崩した隙に、リナートはヴァンの手を力強く引き、その脇を鮮やかにすり抜けた。
「……おい、今のは」
「昔、石けり遊びをしていたのを思い出したんです!」
リナートは息を切らしながら、子供のように無邪気に笑った。
裏門が見えてきた。
そこには、御者台に座ったログが、不安げな面持ちで手綱を握っている。
「ヴァン! 遅いぞ、このままじゃ夜が明けちまう!」
「分かってる、出せ!」
ヴァンはリナートを馬車の中に放り込むように押し込み、自身も飛び乗ると同時に扉を閉めた。
直後、馬車が激しく揺れ、車輪が石畳を削る音を立てて急発進する。
狭い車内、二人は激しく弾む息を整えながら、向かい合って座り込んだ。
窓の外を流れる松明の光が、リナートの乱れた銀髪を断続的に照らし出す。紺色のシルクのシャツはボタンが一つ外れ、白い首筋にはうっすらと汗が光っていた。
「……、……ふぅ」
リナートが膝に手をつき、大きく肩で息をする。
その様子をじっと見つめていたヴァンは、胸の奥から湧き上がる抗いようのない熱に、視線を逸らすことができなかった。
危なかった。もし一歩間違えれば、この美しい青年を二度と拝めなくなっていたかもしれない。
「……リナート」
「はい……ヴァン」
リナートが顔を上げ、ヴァンの目を見つめ返した。
その瞬間、ヴァンは反射的に手を伸ばし、リナートを自分の方へと引き寄せた。
「うわっ……」
リナートの体がヴァンの逞しい胸板にぶつかり、細い腕がヴァンの首に巻き付く。
どさくさに紛れた、あまりにも強引な抱擁。
ヴァンの鼻先には、リナートの首元から立ち上る、駆け抜けた後の熱を帯びた甘い香りが充満した。
「……ヴァン? どうしたのですか? そんなに強く抱きしめて……痛いです」
「……黙ってろ。少しだけだ」
ヴァンの声が、自分の耳にも届くほど低く、震えていた。
自分の心臓が、リナートの胸元を突き破らんばかりに打ち鳴らされている。
怖かった。こいつを失うのが、これまで経験したどんな窮地よりも、数千倍も恐ろしかった。
リナートは戸惑うような声を漏らしていたが、やがてヴァンの背中にそっと手を回した。
「……もしかして、ヴァン。私のことを、心配してくれていたのですか?」
「…………誰が、お前みたいな役立たずを」
嘘を吐く口元が、リナートの肩に埋まっていく。
リナートはくすくすと微かに笑い、ヴァンの心臓の音を確かめるように、さらに深くその胸に顔を埋めた。
「嬉しいです。こんなに激しいヴァンの音を聞けるのは、私だけですね」
ヴァンの指先が、リナートの背中でぴくりと跳ねた。
自覚のない毒。
リナートが無意識に放つ言葉の一つひとつが、ヴァンの脆い理性を鋭く削っていく。
抱きしめている腕の力を抜くことができない。それどころか、このままこの体温を自分の中に溶かし込んでしまいたいという、正体不明の渇望がヴァンの理性を侵食し始めていた。
夜の王都を、馬車が疾走する。
密室内で混ざり合う、二人の熱い吐息。
ヴァンは、自分の掌に残るリナートの背中の確かな感触を噛み締めながら、自分がもう、この拾い物をただの幸運だとは思えなくなっていることに気づいていた。
初恋の難易度は、この逃走劇の果てに、もはや後戻りできない場所へと二人を運んでいこうとしていた。
「……リナート。アジトに戻ったら、……寝かさねえからな」
「えっ? お掃除ですか? 私、頑張ります!」
「……そうじゃねえ、バカ」
ヴァンの溜め息が、馬車の暗闇に静かに溶けていった。
夜風が耳元で猛烈な音を立て、視界が上下反転した。ヴァンは腕の中のリナートを壊さないよう、さらに強く抱き寄せた。背中に伝わってくるリナートの細い指先が、ヴァンの上着を必死に掴んでいる。
「……っ、歯を食いしばれ!」
落下の衝撃を殺すため、ヴァンは空中で身を翻した。
階下の茂みに隠されていた巨大な緩衝材――メイたちが仕込んでおいた、大量の羽毛を詰めた特注の袋――に、二人の体が沈み込む。
ボフッ、という鈍い音と共に、真っ白な羽毛が雪のように夜の庭園に舞い散った。
「……生きているか、リナート」
「はい……。空を飛んでいるみたいで、少しだけ楽しかったです」
羽毛にまみれたリナートが、ヴァンの腕の中から顔を出す。翡翠色の瞳は恐怖に染まるどころか、見たこともないほどの興奮で潤んでいた。上気した頬が、月光を浴びて淡い桃色に染まっている。
ヴァンは安堵のあまり、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。だが、休んでいる暇はない。
「いたぞ! あそこだ、茂みの中に落ちた!」
バルコニーから見張りの兵士たちが叫び、松明の火がこちらへ向かって一斉に動き出す。
「走るぞ! 俺の横から一歩も離れるな!」
ヴァンはリナートの手を取り、羽毛の海から飛び出した。
庭園の石畳を、二人の足音が激しく叩く。
夜の冷気が、走り続けて火照った喉を鋭く刺した。辺りには深夜の庭園特有の、湿った土と沈丁花の重たい香りが立ち込めている。
リナートの足取りは、意外なほど軽やかだった。ヴァンの大きな手に引かれながら、彼はまるで風に乗るように石畳を蹴っていく。
「ヴァン、あちらの生け垣の陰なら隠れられそうです!」
「いいや、裏門へ直行だ! 馬車が待ってる!」
ヴァンは背後の追手を確認する。兵士たちの足音は着実に近づいてきていた。
迷路のような生け垣を抜け、噴水広場に差し掛かったその時、前方から二人の兵士が槍を構えて躍り出てきた。
「止まれ、賊め!」
ヴァンは舌打ちをし、走りながら腰のナイフに手をかけた。だが、抜刀するよりも早く、リナートがヴァンの前にふわりと躍り出た。
「ごめんなさい、少しだけ失礼します!」
リナートが足元に転がっていた小さな石を、優雅な仕草で蹴り飛ばした。
小石は正確に兵士の一人の足元にある大理石のタイルに当たり、奇妙な反響音を立てる。驚いた兵士が重心を崩した隙に、リナートはヴァンの手を力強く引き、その脇を鮮やかにすり抜けた。
「……おい、今のは」
「昔、石けり遊びをしていたのを思い出したんです!」
リナートは息を切らしながら、子供のように無邪気に笑った。
裏門が見えてきた。
そこには、御者台に座ったログが、不安げな面持ちで手綱を握っている。
「ヴァン! 遅いぞ、このままじゃ夜が明けちまう!」
「分かってる、出せ!」
ヴァンはリナートを馬車の中に放り込むように押し込み、自身も飛び乗ると同時に扉を閉めた。
直後、馬車が激しく揺れ、車輪が石畳を削る音を立てて急発進する。
狭い車内、二人は激しく弾む息を整えながら、向かい合って座り込んだ。
窓の外を流れる松明の光が、リナートの乱れた銀髪を断続的に照らし出す。紺色のシルクのシャツはボタンが一つ外れ、白い首筋にはうっすらと汗が光っていた。
「……、……ふぅ」
リナートが膝に手をつき、大きく肩で息をする。
その様子をじっと見つめていたヴァンは、胸の奥から湧き上がる抗いようのない熱に、視線を逸らすことができなかった。
危なかった。もし一歩間違えれば、この美しい青年を二度と拝めなくなっていたかもしれない。
「……リナート」
「はい……ヴァン」
リナートが顔を上げ、ヴァンの目を見つめ返した。
その瞬間、ヴァンは反射的に手を伸ばし、リナートを自分の方へと引き寄せた。
「うわっ……」
リナートの体がヴァンの逞しい胸板にぶつかり、細い腕がヴァンの首に巻き付く。
どさくさに紛れた、あまりにも強引な抱擁。
ヴァンの鼻先には、リナートの首元から立ち上る、駆け抜けた後の熱を帯びた甘い香りが充満した。
「……ヴァン? どうしたのですか? そんなに強く抱きしめて……痛いです」
「……黙ってろ。少しだけだ」
ヴァンの声が、自分の耳にも届くほど低く、震えていた。
自分の心臓が、リナートの胸元を突き破らんばかりに打ち鳴らされている。
怖かった。こいつを失うのが、これまで経験したどんな窮地よりも、数千倍も恐ろしかった。
リナートは戸惑うような声を漏らしていたが、やがてヴァンの背中にそっと手を回した。
「……もしかして、ヴァン。私のことを、心配してくれていたのですか?」
「…………誰が、お前みたいな役立たずを」
嘘を吐く口元が、リナートの肩に埋まっていく。
リナートはくすくすと微かに笑い、ヴァンの心臓の音を確かめるように、さらに深くその胸に顔を埋めた。
「嬉しいです。こんなに激しいヴァンの音を聞けるのは、私だけですね」
ヴァンの指先が、リナートの背中でぴくりと跳ねた。
自覚のない毒。
リナートが無意識に放つ言葉の一つひとつが、ヴァンの脆い理性を鋭く削っていく。
抱きしめている腕の力を抜くことができない。それどころか、このままこの体温を自分の中に溶かし込んでしまいたいという、正体不明の渇望がヴァンの理性を侵食し始めていた。
夜の王都を、馬車が疾走する。
密室内で混ざり合う、二人の熱い吐息。
ヴァンは、自分の掌に残るリナートの背中の確かな感触を噛み締めながら、自分がもう、この拾い物をただの幸運だとは思えなくなっていることに気づいていた。
初恋の難易度は、この逃走劇の果てに、もはや後戻りできない場所へと二人を運んでいこうとしていた。
「……リナート。アジトに戻ったら、……寝かさねえからな」
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