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18話
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深夜の静寂を、薪が爆ぜる微かな音だけが支配していた。
寝室の空気は、熱に浮かされたヴァンの吐息で重く澱んでいる。
窓の外から忍び込む冷気が、火照った肌を撫でるたびに、ヴァンは心地よさと不快感の狭間で浅い呼吸を繰り返した。
まどろみの淵で、ヴァンは夢を見ていた。
銀色の甲冑を纏った一団が、冷徹な蹄の音を立てて迫り来る。
その先頭には、感情を欠いた瞳を持つアラリックが剣を抜き、こちらを指差していた。
ヴァンの背中に隠れていた銀色の光が、少しずつ、確実に離れていく。
翡翠色の瞳が、悲しげに潤んで遠ざかる。
「……待て」
乾いた唇が、無意識に言葉を形作った。
行かせるわけにはいかない。
一度離してしまえば、二度とこの掌にあの温もりを取り戻すことはできない。そんな、得体の知れない恐怖が心臓を鷲掴みにする。
「……リナート」
掠れた声が、暗い部屋に溶けた。
「ヴァン? ここにいますよ、私はここにいます」
耳元で、鈴の音を転がしたような柔らかな声が響いた。
視界がゆっくりと開く。
月光を背負い、銀色の髪を夜の帳に散らせたリナートが、ヴァンの顔を覗き込んでいた。
彼の指先が、ヴァンの熱い頬にそっと触れる。
ひんやりとした質感。
その心地よさに、ヴァンの思考はさらに濁りを深めていった。
目の前にいるのは、本物のリナートなのか、それとも夢の続きなのか。
「……どこにも、行くな」
ヴァンの大きな掌が、自分を看病していたリナートの細い手首を掴み上げた。
驚いたように翡翠色の瞳が丸く見開かれる。
だが、ヴァンは止まらない。
熱に浮かされた頭が、普段は理性の奥底に閉じ込めている本音を、堰を切ったように溢れさせていた。
「騎士も、代官も、関係ねえ。お前がどこの誰だろうと……絶対に離さねえからな」
握りしめた手首から、リナートの速まった鼓動が伝わってくる。
ヴァンはリナートを引き寄せるようにして、その細い体を自分の胸板に力強く押し当てた。
「……ヴァン?」
「……行くな、リナート。お前がいなくなったら……俺の拠点は、またただの寒い石の塊に戻っちまう」
ヴァンの顔が、リナートの首筋に埋まる。
石鹸の清潔な香りが、ヴァンの焦燥を優しく宥めていく。
リナートの体が、ヴァンの腕の中で微かに強張った。
沈黙が流れる。
ヴァンの心臓は、まるで壊れた鐘のように激しく脈打っていた。
リナートはしばらくの間、呼吸を止めたように静止していたが、やがてため息をつくように体の力を抜いた。
「……ずるいです、ヴァン。そんな風に言われたら、私、本当に魔法をかけられたみたいに動けなくなってしまいます」
リナートの細い腕が、ヴァンの逞しい背中に回される。
ゴワゴワとしたウール毛布の感触越しに、リナートの指先がヴァンの背中をそっと撫でた。
それは、母親が子供を寝かしつけるような、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた動きだった。
「約束します。ヴァンが望むなら、私はいつまでもここにいます。たとえ、世界中の騎士が私を連れ戻しに来ても」
リナートの声は、ヴァンの魂の最深部まで染み渡るように温かかった。
ヴァンはその言葉を聞き届けると、ようやく憑き物が落ちたように深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
差し込む鋭い日差しに眉を潜めながら、ヴァンはゆっくりと目を開けた。
頭の痛みは消え、体は驚くほど軽くなっている。
昨夜の不快な熱が嘘のように引いていた。
だが、視線を横に走らせた瞬間、ヴァンの思考は再び沸点へと到達した。
ヴァンの右腕が、誰かの重みで動かない。
隣では、リナートがヴァンの腕を抱き枕のようにして、幸せそうに寝息を立てていた。
彼の銀色の髪が、ヴァンの寝巻きの胸元に散らばっている。
それだけではない。
ヴァンの脳裏に、昨夜の断片的な記憶が、鋭い刃となって蘇った。
「離さねえ……だの、どこにも行くな……だの、俺は一体何を口走った……」
ヴァンは顔を両手で覆い、ベッドの中で音もなく悶絶した。
記憶の中の自分は、驚くほど素直で、情けないほどリナートを求めていた。
あれは夢だと、自分に言い聞かせたい。
だが、目の前で自分の腕に頬を寄せているリナートの表情は、すべてを肯定するかのように穏やかで、満ち足りていた。
リナートが微かに身じろぎし、翡翠色の瞳を薄く開けた。
「……おはようございます、ヴァン。熱、下がりましたね」
リナートが寝ぼけ眼でにこりと微笑む。
その微笑みに含まれた、今までとは少し違う「特別」な甘さに、ヴァンの心臓は再び、即死級の衝撃を受けるのだった。
「……ああ、下がったよ。……バカ野郎」
ヴァンは吐き捨てるように言いながらも、その手をリナートから引き離すことができずにいた。
寝室の空気は、熱に浮かされたヴァンの吐息で重く澱んでいる。
窓の外から忍び込む冷気が、火照った肌を撫でるたびに、ヴァンは心地よさと不快感の狭間で浅い呼吸を繰り返した。
まどろみの淵で、ヴァンは夢を見ていた。
銀色の甲冑を纏った一団が、冷徹な蹄の音を立てて迫り来る。
その先頭には、感情を欠いた瞳を持つアラリックが剣を抜き、こちらを指差していた。
ヴァンの背中に隠れていた銀色の光が、少しずつ、確実に離れていく。
翡翠色の瞳が、悲しげに潤んで遠ざかる。
「……待て」
乾いた唇が、無意識に言葉を形作った。
行かせるわけにはいかない。
一度離してしまえば、二度とこの掌にあの温もりを取り戻すことはできない。そんな、得体の知れない恐怖が心臓を鷲掴みにする。
「……リナート」
掠れた声が、暗い部屋に溶けた。
「ヴァン? ここにいますよ、私はここにいます」
耳元で、鈴の音を転がしたような柔らかな声が響いた。
視界がゆっくりと開く。
月光を背負い、銀色の髪を夜の帳に散らせたリナートが、ヴァンの顔を覗き込んでいた。
彼の指先が、ヴァンの熱い頬にそっと触れる。
ひんやりとした質感。
その心地よさに、ヴァンの思考はさらに濁りを深めていった。
目の前にいるのは、本物のリナートなのか、それとも夢の続きなのか。
「……どこにも、行くな」
ヴァンの大きな掌が、自分を看病していたリナートの細い手首を掴み上げた。
驚いたように翡翠色の瞳が丸く見開かれる。
だが、ヴァンは止まらない。
熱に浮かされた頭が、普段は理性の奥底に閉じ込めている本音を、堰を切ったように溢れさせていた。
「騎士も、代官も、関係ねえ。お前がどこの誰だろうと……絶対に離さねえからな」
握りしめた手首から、リナートの速まった鼓動が伝わってくる。
ヴァンはリナートを引き寄せるようにして、その細い体を自分の胸板に力強く押し当てた。
「……ヴァン?」
「……行くな、リナート。お前がいなくなったら……俺の拠点は、またただの寒い石の塊に戻っちまう」
ヴァンの顔が、リナートの首筋に埋まる。
石鹸の清潔な香りが、ヴァンの焦燥を優しく宥めていく。
リナートの体が、ヴァンの腕の中で微かに強張った。
沈黙が流れる。
ヴァンの心臓は、まるで壊れた鐘のように激しく脈打っていた。
リナートはしばらくの間、呼吸を止めたように静止していたが、やがてため息をつくように体の力を抜いた。
「……ずるいです、ヴァン。そんな風に言われたら、私、本当に魔法をかけられたみたいに動けなくなってしまいます」
リナートの細い腕が、ヴァンの逞しい背中に回される。
ゴワゴワとしたウール毛布の感触越しに、リナートの指先がヴァンの背中をそっと撫でた。
それは、母親が子供を寝かしつけるような、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた動きだった。
「約束します。ヴァンが望むなら、私はいつまでもここにいます。たとえ、世界中の騎士が私を連れ戻しに来ても」
リナートの声は、ヴァンの魂の最深部まで染み渡るように温かかった。
ヴァンはその言葉を聞き届けると、ようやく憑き物が落ちたように深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
差し込む鋭い日差しに眉を潜めながら、ヴァンはゆっくりと目を開けた。
頭の痛みは消え、体は驚くほど軽くなっている。
昨夜の不快な熱が嘘のように引いていた。
だが、視線を横に走らせた瞬間、ヴァンの思考は再び沸点へと到達した。
ヴァンの右腕が、誰かの重みで動かない。
隣では、リナートがヴァンの腕を抱き枕のようにして、幸せそうに寝息を立てていた。
彼の銀色の髪が、ヴァンの寝巻きの胸元に散らばっている。
それだけではない。
ヴァンの脳裏に、昨夜の断片的な記憶が、鋭い刃となって蘇った。
「離さねえ……だの、どこにも行くな……だの、俺は一体何を口走った……」
ヴァンは顔を両手で覆い、ベッドの中で音もなく悶絶した。
記憶の中の自分は、驚くほど素直で、情けないほどリナートを求めていた。
あれは夢だと、自分に言い聞かせたい。
だが、目の前で自分の腕に頬を寄せているリナートの表情は、すべてを肯定するかのように穏やかで、満ち足りていた。
リナートが微かに身じろぎし、翡翠色の瞳を薄く開けた。
「……おはようございます、ヴァン。熱、下がりましたね」
リナートが寝ぼけ眼でにこりと微笑む。
その微笑みに含まれた、今までとは少し違う「特別」な甘さに、ヴァンの心臓は再び、即死級の衝撃を受けるのだった。
「……ああ、下がったよ。……バカ野郎」
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